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10 水原夏希の決別 後編

 瞳は見開かれていて、焦点が定まっていなかった。

 蠟のように青白い肌に、大粒の汗を浮かべていた。

 血が滲むほどに唇を噛みしめつつ、苦悶の表情を携えていた。

 いつの間にやら、彼は私の服の裾を掴んでいて、私をほんの少し引き寄せた。


「うわ」


 驚きのあまり私は態勢を崩し、ゆらりと彼にしな垂れかかった。

 彼の腹に突っ伏す形で、その後数秒は固まっていた。

 誰にも顔を見られていなくて良かったかもしれない。その時の私は、とても形容し難いほどの間抜け面を晒していたであろうから。


 私は、彼に引っ張られた袖を指先で撫でた。

 彼の引っ張る力が強かった訳では無い。むしろ逆だ。

 弱すぎたのだ。

 

 仮にも剣道部に所属して、連日連夜肉体を鍛えている男子高校生だ。

 私が小柄というのもあるが──比較すると、一回り二回り以上も大きい。当然、筋肉量も段違いだ。

 それなのに、先刻私を引き寄せたあの膂力は──あの、幼子を想起させる虚弱な力は──。


「おい、嬢ちゃん。そういうのは、時と場所を考えるべきだぜ」


 振り返ると、先般救急車を呼んでくれた男性が立っていた。

 男性は腰に手を当て、困ったように眉を八の字に歪めていた。何事か考え込むように、指で顎を撫でながら閉眼し、むむむと唸っている。

 口を開いたかと思えば、ぱくぱくと動かすだけで何も喋らない。

 ……言いづらい事なのだろうか。


 辺りを見回してみると、誰もが似たような表情をしていた。

 全員が何とも言えない──ほっとした様な、生温かい笑顔を此方に向けていた。

 彼ではなく──私に向けて。

 ……不意に、嫌な予感がした。

 大きく喉を鳴らしつつ、私はゆっくり目を閉じる。

 時間にして3秒。たっぷりと思案して──。


「──ッ!」


 ──漸く、合点がいった。

 瞬間赤面する。私としたことが、人前であるというのに。

 これでは、恥も外聞も無く他者に縋る無垢な幼子と変わらんではないか。

 醜態をさらしたようで、居心地悪い。


 ……否、断じて違う。私は態勢を崩し、倒れ込んだだけだ。

 恐らく彼らは、私が引っ張られる瞬間を見ていないのだ。

 そう、角度的なアレで。入射角的な、反射角的なアレで。

 ──否定しなければ。

 私が自分自身の尊厳を守らんと、開口した瞬間のことだった。


「痛ッタああああアアああああああああああああああああああぁぁ!!」


 ──それは、血が滲む程の力で、黒板を引っ搔いたような悲鳴であった。

 耳をつんざくその悲鳴は、私はおろかその場に居合わせた誰もが──先刻からの一件を素知らぬふりでやり過ごそうとした者さえも──刮目せざるを得ないものだった。


 其れは地面をのた打ち回り、叫び声を上げていた。

 剥いた目から涙を零していた。

 悲鳴の主は彼だった。




***




 雨が降っていた。

 所々錆びついた古いベンチに座りながら、少女──水原夏希は閉じていた瞼をゆっくりと開いた。

 小さな口で珈琲を二、三口飲み、乾いた唇を湿らせてから、水原は言った。


「それからずっと、彼は叫び続けていました。私や周囲の方々も悲しみこそすれ、驚きはしませんでした。当然です。それ程の深手を負っていたのですから」


 水原曰く、傷口からの止血は何故か完了していたらしい。

 とは言え、其れは元々の傷が完治した事を意味しない。

 目覚めた途端、原因不明の痛みに襲われたのだ。混乱の最中にあったであろうことは、想像に難くないだろう。


 誰もがそう思い、一度は現状を受け入れた──と、水原はそう告げて、瞼を伏せた。

 眉間を揉み、深く息を吐いた。

 そして言った。


「けれど、事態はもっと深刻でした」


 再び目を見開いた時、水原の顔からは一切の表情が消えていた。

 鉄仮面に拍車がかかっていた。

 彼女は続く言葉をさも他人事のように、淡々と述べた。


「彼は言いました──もう殴らないでくれ、と。これ以上嬲る必要は無いだろう、とも」


 心底詰まらなそうに、水原は続ける。


「最初は彼が何を言っているのか、理解出来ませんでしたよ。その言葉の意味も。だってそうでしょう? まさか、彼が断続的に痛みに苦しんでいるなんて、この時の私には知る由も無かったんですから」


 そう言うと、水原は俯いたまま、肩を震わせた。

 彼女は膝上で握りこぶしを作り、喉奥から絞り出すように、くつくつと嗤い始めた。

 通りすがりの子供が訝しげな視線を飛ばしていた。しっしっと手で払うと、子供は不満を隠そうともせずに、唇をへの字に曲げて去ってゆく。


 子供を追い払いつつ、俺も同様の視線を水原に向けていた。

 ……断続的とは。

 水原は特段気にした素振りも無く、一方的な独白を続ける。


「やがて、救急車が到着しましたが、私は其れに同伴しませんでした。救急車への同伴義務が無かったのも理由の一つですけれど……なんとなく、予感があったからです」


 そう言って、水原はきゅっと唇を引き結んだ。

 手にしていた缶珈琲を呷ろうと持ち上げ──中途半端な姿勢で固まった。

 もう一本購入してこようかと、俺が聞くと。


「………………結構です」


 たっぷり三十秒程葛藤した後、水原は申し出を断った。

 彼女は空になった缶を握りしめて、ほんの小さく息を吐いた。




 それから暫く、俺と水原は目前で行き交う人々をそれとなく見ていた。

 其処には、大人も子供も男性も女性も──多種多様な人間が居た。さも当然ながら、一人として同一人物などいやしない。

 だが、そんな彼らにも、二つの共通点があった。

 一つに、彼らは皆、同様に詰まらなそうな表情を浮かべていた。

 眠そうな顔というか、死んだ魚のような眼を携えていると言うべきか。

 ……傍から見れば、俺達も似た様な面をしているのかもしれない。


「…………」


 もう一つは、これまた示し合わせたように、全員が傘を差している点だ。

 雨が降っているから当然なのだが──。


 俺は自然と、水原のほうに視線を向けていた。

 彼女は先刻からそうしていたように、刀剣のように目を鋭く細めていた。

 冷酷な印象を与える目だ。

 遠目に覗き込むだけでも、背筋が凍り付くような目。

 ──其れは、視線だけで人を殺せそうな女だな、と思った矢先のことだった。


「ん?」


 水原の目に、一瞬仄暗い光が見えた気がした。

 俺の見間違いか。

 確かめようと体を起こすより早く、彼女が口を開いた。


「救急車がその場を去り、病院へ向かって間もなく、私の予感が的中していたと判りました。彼がそれ以上の痛みを訴えなくなったそうです。……何と説明したものでしょう……それまでは常に、誰かに殴られ続けているような感じだった──とでも言いましょうか」


 俺は目を見開いた。

 絶句する俺を余所に、尚も水原は御高説を垂れ続ける。


「自分の能力を自覚したのは、この時です。この──物体の時間を巻き戻す能力を」


 水原がゆっくりと俺のほうに視線を移した。

 然して、俺と正面から向き合い、やがて困った風に微笑した。

 其れは、先刻子供を不安にさせたような奇怪な嗤い方ではなかった。

 ごく普通にありふれた、まだあどけなさの残る笑みだった。


 俺にとって、将に其れは本心からの笑顔だと思えた。

 そうでなくては、寧ろ俺が困っていた。

 ──理由は至極単純だった。


「私が彼の姿を見たのは、その日が最後になりました。数日後……電話越しに振られましたから」


 水原の頬には、一筋の雫が伝っていた。

 雫は彼女の柔肌のみを伝っていた。

 彼女は引き結んだ口端をしきりに震わせていた。


 ──女の涙を疑う程に、俺は未だ人間ができていなかった。


 見るも痛々しい笑顔を携え、彼女は言った。


「あの日、私が彼を見つけるのがもう数秒早ければ、こんな事態にはなっていなかったでしょうね。だって──」



 まるで、己自身に戒めるように。


「私の能力は、『物体をその日最初に見た状態まで巻き戻す』というものですから」

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