1 在る少年と中年と少女について 前編
小説家になろう様では大体1年ぶりなので、初投稿です。
よろしくお願い致します。
路地裏で、1組の男女が揉めている。
およそ40代前半と思わしきスーツ姿の男性と、ブレザーを着用して、学校指定のスクールバッグを両手に握る10代後半————中学生か高校生くらいと思われる──少女の組み合わせ。
頭1つ分程度だが、少女の身長は男のそれを下回っていて、自然と少女が男を見上げる格好になっている。
2人は人目をはばからずに、お互いを罵り続けていた。
お互い、唾のかかる程の至近距離なのに、気づいているのか怪しいものだ。
平日の朝、人通りのない薄暗い小道に、彼らの怒声が木霊していた──。
──と、降りしきる豪雨の中、一人の少年が傘を片手に、彼ら2人が言い争う様子を遠目に眺めていた。
大沼太陽──。
それが少年の名前である。
およそ10分程前だったか、表通りを歩いている最中、太陽は彼らの声を拾った。
2人の声は————もしかすると、聞こえていたのは、男の声だけだったかもしれないが————表通りまで届いていた。尤も、彼らの声は雨音にかき消されて、その内容までは拾えず、太陽にとっては、彼らの存在に気づくのが関の山だったが。
太陽から2人までは、50メートル程度離れている。そのため、彼らの人相や表情までは分からない。2人がどんな顔で口論しているのか。乱闘寸前なのか、それとも只の冗談の応酬か————現状を確認する術はないと言ってもいい。
とはいえ、如何なる状況であろうと、この男には関係のないことだった。
太陽は1歩も動かず、彼らを静観し続けていた。その間ずっと、2人はお互いにメンチを切り合っていた。
飽きもせず、何が楽しいのか。太陽には理解し難いことだった。
欠伸を噛み殺しつつ、太陽はスマホの電源を起動する。ひびの入った液晶画面に一瞬だけ目を通す。
現時刻は午前7時半を回った頃。
本来であれば、8時までに駅前に到着する予定だった。
「これは遅刻確定かな……いつまでやってるんだ、あれ」
そして、再び彼らに視線を戻した。
じっと立ち尽くしているせいで、既に太陽のズボンの裾は雨でぐっしょり濡れ始めている。だが、彼はその場を離れようとしない。
──何故か。
その理由は、たった一つのシンプルなものだった。
たった一つ、目の前の光景には──何らかの違和感があった。
太陽の目に映る光景。
其処には、本来ならあるべき物が無かった。しかし、その正体が分からない。10分近く探しているのに、手がかり1つ掴めていない。
それを見つけるまでは、立ち去ることはできない。
真実に到達しないまま逃げ出すことは、心の中に良くない物を残す。
それを知っているから。
つまるところは自分の為に。太陽は彼らから目を離せないでいた。
平日の朝、10分という短い時間をどの様に使うかは人それぞれだ。
起床直後、ほんの数分で良いから、まどろんでいたい者。
朝の珈琲の酸味に浸る者。
朝食を取っている暇もない程に、切迫している者。
夜勤明けで泥の様に眠る者。
過ごし方は、人の数だけあると思う。
そして、そのどれにも優劣など無いだろう。
朝から喧嘩している男女2人組──それを遠目に観察することでさえ。
大沼太陽は、心の奥底でそう思った。
スーツ姿の男が、学生服を着ている女に詰め寄っている姿————ここまでは正直、なんてことない話だと思う。良い年こいた大人が、通学中の学生にムキになっているだけ。日常にありふれた極々一般的な乱痴気騒ぎとでも言った所か。
故に、問題はそこにはなかった。
最初に、彼を引き込んだのは————彼らが2人とも「傘を差さずに」雨天下の道路に立っていた点だった。
彼らは雨やどりもせず、既に10分以上も言い争い————つまりは、濡れることを気に留める様子が一切なかった。
余程、頭に血が上っているのだろうか。しかし、それにしては————。
「2人揃って、ってのがおかしい」
その日は火曜日。平日の朝から、彼らは豪雨の中にいた。
スーツや学生服を着用している点から見て、学校なり会社なり、2人には所属する枠組みがあるはずなのに。それならば、こんな所で道草食っている場合ではあるまいに。
繰り返すようだが、既に10分間————否、それより長時間に及んで、彼らは口論を続けている。それは、太陽が気づくずっと前から続いていた。
彼らにとっては、刹那の数秒にも等しかったかもしれないが、実際には、それ以上の時間を消費している。このままでは、両者共に遅刻は免れないだろう。
その上、服は水でびしゃびしゃのはずだ。
強風で差せないわけではない──太陽は差している上に、そよ風1つ吹いていない。
──もしや、2人の傘が壊れているのか。それが口論の原因も含んでいるのか。
太陽は2、3度首を傾げた後、自嘲気味に鼻で笑い、
「……いや、おかしいのは俺の方だろ!? いつまでこんな所で立ち止まっているつもりだッ!!」
傘を投げ捨て、両の手で頬を叩いた。
時間の使い方に優劣は無い。
生まれつき、誰に教えられるでもなく、太陽はそう思っている。彼らでさえ、それは例外ではない。
その上で、今の自分は間違っている。太陽はそう思った。
このままでは、違和感の正体に気づくことができない。
赤く腫れた頬も気にせず、彼らに向かって1歩を踏み出し──目の前の光景に、瞬間目を見開いた。
──太陽の目の前に立つ2人は、乾いていた。
──物理的に、乾燥していた。
彼らの身にまとう衣類、頭髪、手荷物。その全てから雨粒が、水分が、一切合切取り除かれていた。スーツも学生服も、アイロンをかけたばかりの様に、ぱりっと伸びていた。
雨粒は、確かに彼らに付着している。太陽の目にはそう映っている。雨が降り注ぎ、彼らの身を包む。
水は蒸発する前に、次の水と混ざり合い、繰り返し繰り返し、何もかもを覆い隠す。
————だが、次の瞬間。何事もなかったかの様に、ビデオを数秒巻き戻す様に。
水が染み込み、濡れたスーツは。防水仕様なのか──水を撥ねて光るブーツは。毛先から水が滴り落ちる頭髪は————。
──全て、元に戻る。
雨に濡れる直前の姿に。瞬きよりも早く、一瞬で。
『リセット』されていると言っても良い。
その『リセット』が一定の間隔で、継続的に行われている。繰り返し繰り返し。何回も何回も。
これが、2人が濡れない原因。
太陽の感じていた違和感の正体だった。