89 移住してみた
移動に際してはニールが責任を持って、イーストと麹の元と製造記録を運んできている。
さすがに製造途中の大きな桶類は運び出せないが、これらはジョルジョ会長と事前に話してあってイザーク商会が買い上げる、まだ処理が必要なものは以前から手伝いに来ていた職員が作業を引き継ぐ、ということで了解していた。
結局領主からの差し押さえは来ないことになっただろうが、もし来ていたとしてもジョルジョ会長が「これらはハックの個人財産ではありません」などと抵抗してくれたはずだ。
「まあ、そういうことなら」ダグマーが膝を擦りながら笑った。「ハックが脱獄囚だっちゅうことならこちらも関わりを考えにゃならんが、追っ手がかかることもなさそうだな」
「裁きにかけられる前で、正式な罪人にはなっていないはずですからね。領主様が替わったら、もうそんな奴がいたことは忘れられるんじゃないかと」
「そういうことになりそうだな」
「一応マックロートに行った後、イザーク商会とも相談してその辺は探りを入れておこうと思います」
「それがいい」
その後、家主と護衛たちも交えて、今後の予定を相談した。
できるだけ早くマックロートに向かいたいが、もう午後になっている今から出発ではこの先の宿泊がうまく合わない。明日の朝早く発って、プラッツからマックロートの標準旅程で二泊目とするアクス村を目指すのがいいだろう、という話だ。
アクス村には、広く旅行者に開放されている簡易宿泊所がある。小屋に毛の生えた程度の施設だが、一応屋根の下、板の間で休むことができるのだそうだ。
そのアクス村を朝に発って、その日の夕方頃にマックロートに着くのが普通の日程らしい。
こちらは子どもの足なのでそうそう予定通りにはいかないかもしれないが、早朝出立など早めに行動して何とか明後日の到着を目指そうという話に落ち着く。
「では済みませんダグマーさん、今夜一泊お世話になっていいですか」
「おう、そこの土間を貸すしかできんが、自由にしてくれ」
本当に家の中は狭く、ようやく家族四人が囲んで座る居間と、全員で休む寝室しかないらしい。
居間を借りてもこちら全員で横になることはできないので、揃って土間を使わせてもらうことになった。土の上に板を敷いて持参の夜具を並べれば、今までと大差のない就寝態勢が作れる。
何にせよかなり寒くなってきたこの季節、屋根の下で眠れるだけで大変ありがたい。
この夜は土産にしたノウサギをみんなでわいわい調理して、焼肉とスープで賑やかな食事をした。
これも土産に持参したイーストでナジャが手本としてパンを焼いてみせると、ダグマーの妻と子どもが大喜びしていた。
ついでにこちらの翌日の旅食とする分も、焼かせてもらう。
早朝出立の予定なので、いつも以上に早い就寝になる。
念のためにと、護衛二人が交代で見張りをしてくれた。ブルーノとともに協力を申し出たが「旅慣れていない奴は、身体を休めることを優先しろ」と説教を受けることになった。
翌日は夜明けとともに出立し、日が暮れて間もなくアクス村に着いた。
簡易宿泊所に一泊し、また夜明けを待ってそこを発つ。
天気が崩れることもなく、子どもたちもそれほど疲労を見せず、なんとか旅程をこなすことができた。
ブルーノとルーベンが荷車を引き、ニールと二人でその後ろを押す。護衛二人とサスキアは周囲に警戒を続け、小さな子たちが疲れてくると背負ったり荷車に載せるなどして、進行の足どりを保った。
女の子たちも疲れを見せない確かな徒歩の進みで、やはり前世の人間よりはこうした体力が優れているようだ。
街道が南に進むにつれ、周囲に人の手が入った畑などが散見されるようになってくる。
そうして夕闇が沈んでくる中、遠目にそびえる石の防壁をかすかに見つけることができた。
先頭を歩くディルクが、大きな声を上げた。
「見えたぞ。マックロートの町だ」
「おーー」
荷車を引くルーベンが、跳び上がるようにそちらに首を伸ばす。
子どもたちの大半が、ここまで来るのは初めての経験だという。サスキアとニールが、プラッツに来る途中通り過ぎてきた程度らしい。
対して護衛の二人は、商会の荷物運搬についてたびたび往復している。ディルクは数年この町に住んでいたことがあるという。
目標が視認できて、さすがに疲れが見えてきていた子どもたちの顔にも、明るさが戻ってきた。
近づくにつれ、壁の景観がはっきり分かるようになってくる。
やはり石を積み上げたらしいそれはプラッツのものよりいくぶん高さがあるようで、何より建設してから年月を経ているらしい落ち着きが見える。
もともとは他領から攻め込まれるのを防ぐために造られたもので、最近は魔物の噂に合わせて補強がされているらしい、とアルトゥルが説明してくれる。
門には衛兵が二人立っていたが、ディルクが商会から預かってきた通行証を見せるとすぐに通してもらえた。
壁の中もしばらくは畑が続き、その合間に人家がある程度のようだ。
それが進むにつれ、石造りの家の間隔が狭まってくる。半刻も進むと、プラッツに劣らない町並の外観を見せてきた。これが、あちらの町の何倍もの広さで続くという。
間もなく闇が落ちてきて、そんな観察を続けることもできなくなってきた。松明に火を点け、足を急がせる。
やはりこちらでも暗い中の外出は避けるというのが常識らしく、かなり歩いても辺りの歩行者はぽつぽつ数えるほどしか見かけられない。
イザーク商会の支店まではさらに半刻程度かかるが、住み込みの支店長がいつでも訪ねてくるように待っている、ということだ。
プラッツならもう町を横断しきるのではないかと思えるほど歩いた末、道案内の護衛はやや太めの小路へ角を曲がった。
「うん、やはり屋内に灯りが残っている。支店長が控えているのだろう」
「会長の指示通りだな」
ディルクの声に、アルトゥルが頷き返す。
かなり暗くて見にくいが、少し先右側の大きな二階建てを指さしているようだ。
「あれがイザーク商会の支店だ」
「よーし、ようやく到着だ」
ブルーノの応えに、子どもたちは歓声の元気もなく大きな安堵の溜息をついている。
建物の横手に回って、ディルクは木戸を叩いた。
「プラッツのディルクです。連絡した一行をお連れしました」
「了解」
やはり待ち受けていたらしく、すぐに返答があった。
がたり、と閂を外すらしい音が返る。
応対したのはまだ幼さを残す小僧らしい身なりの少年で、開いた戸口から身を退けて訪問者を通した。
ぞろぞろと土間に入ると、奥から青年と中年の境目かと思われる身なりのいい男が出てきた。
戸口を開いた少年の他には奥を歩き回る若い男が一人見える程度で、閉店後の建物内に職員は動いていないようだ。
「よく来ました。支店長のユルゲンです」
「ブルーノです」
「ハックです。お世話になります」
他の紹介は不要だろうという判断で、二人だけ名乗ることにした。
子どもたちは入ってすぐの大部屋で休ませて、二人は護衛とともに奥に案内される。簡素な応接室という趣の部屋で、テーブルを挟んで支店長の向かいに腰を下ろした。
こちらはいつも通り、ブルーノは傍で立ち合っているだけでほとんど口は挟まない。支店長も理解したようで、ほぼ一対一の応対になった。
「強行軍で疲れただろうね。今夜はまずここで身体を休めてほしい。高級旅館のような世話はできないが」
「ありがとうございます。一部屋貸していただけるだけで十分です。明日には住処を探そうと思いますので」
「それなんだがね。会長からの指示で、急遽よさそうな貸し物件を見つけてある。プラッツで使っていたものと同程度の大きさで、住居と作業場に使えそうなのをね」
「ああ、それは助かります。さっそく明日、見せていただけますか」
「うん。正直言うと、南方へのイーストの出荷はもう在庫が尽きそうな状態なんでね。できるだけ早く製造を再開してもらいたい。今日届いた連絡では、アイディレク商会とヘラー商会への卸しは今後不要ということなんでね。その分、イーストは造っただけ我が商会の収益になる。この機を逃さず増産を進めていきたいんだ」
「そうなんですか。両商会への卸しは不要になった? 何かあったんですか」
かなりのところ予想はついていたのだが、一応初耳のふりで問い返しておく。
「ああ、君たちは向こうの詳しい様子は聞いていないんだろうね。ハイステル侯爵領の軍がプラッツに攻め入ったことは知っているのかな」
「はい、それだけは。僕は向こうの領主邸で拘束されていて、その侵攻の騒ぎのどさくさで逃げ出してきたんです。もう必死で町を出たので、その後のことは分かりません」
「うん、その辺の報せが今日、本店から届いたよ。侯爵領軍は領主邸を攻め落として占拠、その他町には被害が出ていない。それで事実上、プラッツの町というかこれまでの男爵領はすべて、侯爵領に組み入れられたということになるようだね。
うちの本店は侯爵領軍から指示を受けて、通常営業を継続。アイディレク商会とヘラー商会はどうも、男爵との癒着といったような不祥事が見つかったらしく、営業を止められているということだ」
「なるほど、そうなんですか」
両脇では護衛たちが、安堵の顔になっている。
町には被害が出ていないという話で、残してきている妻子たちへの心配が一応晴れたということだろう。
「会長が軍の上層にハックくんの処遇を尋ねたところ、該当する若者は見つかっていないということだったので、無事そちらに向かっていると思われる、と手紙には書かれている。しかし何だね、領主邸で拘束されていたというのは」
「身に覚えのない罪で裁きにかけると言われたんですが、どうもあの領主様がイーストの権利を奪おうとしたのではないかと思います」
「何と――まあ、あり得ないことでもないか」
「ええ。近くにアイディレク商会とヘラー商会の会長の姿も見かけたので、両商会もそれに絡んでいたのではないかと。それが事実なら事前の決め事に従って、今後あちらにイーストの卸しはしなくてよいということになりそうですね」
「そういうことになるね。まあ詳しくは、会長が探りを入れているだろう。とにかくもこちらでは、イーストの製産稼働をできるだけ早く果たしたい」
「分かりました」
「これも正直なところ、話には聞いていたわけだが、こんな子どもたち中心の集団であのイーストが造られているなど、なかなか信じがたいものがある。早々にこの目で見て納得したいという思いもある」
「それは、当然でしょうね」
この日は休んであとは翌日のことにしよう、と部屋を辞するところで、支店長に呼び止められた。
「ああそうだ、ハックくんに、トーシャという人から伝言があったよ」
「ああ。トーシャ、こちらを訪ねたんですか」
「うん、五日前かな。しばらく街を離れるので、ハックくんが来たら伝えてくれと。西の山中を調べに行く、戻ってきたらまたこの店に連絡を入れる、ということだ」
「そうですか、ありがとうございます。西の山って、何かあるんですかね。妙な噂とか、聞いていますか」
「ああ。噂だけだけどね。見たことのない動物の目撃情報があったとか」
「なるほど、そうなんですか」
やはり、魔物出没の可能性を見て、捜索に行ったらしい。
まあ、そちらはすぐに気にしても仕方ない。戻ってくるのを待つことにしよう。
その夜は全員で大部屋に雑魚寝、翌日は朝から店員に案内されて目星をつけてあったという貸家に移動した。
確かに、プラッツで借りていた物件と大差ない、かなり古びているがそれなりに広さはあるようだ。
みんなで簡単に中を点検して、支店長に賃貸契約と桶類の入手を依頼する。
女の子たちに掃除を頼んで、ニールと二人でとりあえずできるところからイーストの製造に手をつけた。
商会から木材を購入して、ブルーノとルーベンには何度目かの容器類製作を始めてもらう。