87 脱出してみた
その他、何と言っていいか分からないが、面白いことが判明した。
一階中央付近には、一度ちらりと見たことがある、舞踏会などに使えそうな大広間がある。
大雑把に確認したところ、客用寝室やお嬢様、侍女たちの寝室などがすべて、二階でその真上にあるのだ。
ということは。
それらの寝室で休んでいた人たちはすべて、今現在大広間でのたうち回っていることになる。
おそらく、全裸で。
商人たち、お嬢様、侍女たち、その他諸々の混成で。
それをそのまま、救助に駆けつけた下っ端の兵たちや近所の町民たちやに目撃されたとしたら。
いったい、どういう状況だったと思われるやら。
不思議現象で上階から落ち衣服が消え失せた、と素直に信じてもらえたなら喜ばしいわけだが。
普通の常識なら、その混成、その身なりで真夜中一つ部屋に集まっていた、と想像されることだろう。
兵士たちだけなら、口外禁止を命じることもできるだろうが。この混乱の中で、間に合うものだろうか。
ましてや、一般町民にまで知られてしまったとすると。
――人の口に戸は立てられない、というからなあ。
他人事ながら、心配なところだ。
その後、兵舎やその端の武器庫の方も確認していった。
おおむね、予想通り。大量の剣や槍、弓矢、投石機など、おそらくこの領の所有する武器のほとんどが消え失せていることになるはずだ。
まあとにかく、総括としては。
領主邸の住人、兵士たちのほぼ全員が、全財産を失って打撲でのた打っていると考えて、まちがいない。
特に領主と商会長たちは、その地位保全が危ぶまれるほど大切なものを失っていると思われる。
――ということだ。
少し心残りなのは。
全財産を失った中に、エルンストとハインリヒは含まれているだろうか、という点だ。
年齢的に、エルンストは兵舎住まいで対象に含まれているか。
もしかするとハインリヒは家庭を持って住居が別で、免れているかもしれない。
そうだとすると、残念だ。
領主を含め、その他の人物に関して後悔などはない。
小説などによく「他人の命を奪おうとしたからには、自分も奪われる覚悟があるのだろうな」という科白が出てくるが。
他人の全財産を奪おうとした者、協力した者、傍で見て楽しんでいた者たち、自分も奪われる覚悟を持っていたものと解釈しておいていいだろう。
「さて」
他人に聞かれる心配はないので、しばらくぶりに口に出して独りごちてみた。
「逃走を始めることにしますか」
このシェルターの使用を決めたとき、先の策も考えておいた。
もちろんこのまま人目を忍んで地上に戻り、柵を越えるのが最も手間がかからないのだが。
まだ北方面に残っている見張りに見つかる危険が大きい。
だとしたら、手間がかかってもこのまま移動するのが安全だろう。
このシェルターの二十メートルの長辺は、およそ西北西の方向に向けてある。
現在地点からその方向へ、町の防壁に突き当たるまで推定約四百メートル。
もっと北向きの方が壁までは近いのだが、それだと北方の岩山にぶつかってしまうのだ。その岩山の西側を目指すには余裕を考えて西北西ということになる。
だいたいその近辺には川や林などもなく、西の街道とほどよい距離になっていると思われる。
つまりは壁を抜けた先まで、地中を進んで町を脱出しようという目論見だ。
まず、シェルター内の最前部に立ち。
前方の地中、幅と高さがシェルターの外寸と同じで長さ十八メートル分、土を『収納』する。
次にその場で、ひょいと三十センチ見当、垂直跳びをする。
即座にシェルターを『収納』、またすぐに十八メートル前進させた位置に『取り出し』する。
結果、着地した位置はシェルターの最後部になっている。
後方の地中十八メートル分が空洞になっているので、そこに土を『取り出し』しておき、自分は前方に徒歩移動する。
以下、同様。この操作を、四十回くり返す。
一回の操作で十八メートルだから、四十回で七百二十メートル地中を前進していることになる。
操作一回分に一分もかからないので、三十分前後で四十回を数えることができた。
余裕で防壁を越えたはずだ。
慎重に外を窺いながら、天井から地上まで斜めに通路を開ける。
物音、しない。
水などが流れ込んでくることもない。
確認の上、石の台に登って天井の穴に入る。
三十度程度の傾斜に細かく段々をつけた長い石の板を固定し、手と足のとっかかりをよくして登っていく。
地面に顔を出して、周囲を確認。
真夜中なので当然闇の中だが、後方には遠くわずかな町の灯りが見えていた。予定通り、数百メートルは離れたか。
安全を確認して地上に這い登り、シェルターを『収納』、地中の空洞に土を戻しておく。
周囲は草地で、以前岩山を抜けて西門を目指したとき通った近辺と思われる。
――脱出成功。
闇に目が慣れると、町の壁がやや鮮明に見えてきた。
少し右手が西の門になっているようだ。
そこから南西に向かう街道が続いているはずなので、現在地から南に向かう見当でそれに突き当たると考えていいだろう。
一息つき。
まず『収納』から、エディ婆ちゃん手製の鞄を取り出して背負う。
昼間ずっと背にしていたものを領主邸の応接室で下ろして、脇に置いていた。その後のばたばたで回収の機会をなくしていたのだが、さっき『収納』の中を覗いてそのまま置かれているのを確認したので、めでたく取り戻したということになる。
いやずっと『収納』したままで身軽に歩き出してもいいのだが、背負い慣れたこれがない道行きは、何となく落ち着かないのだ。
現在の鞄の中身は初期とほぼ同じで、毛布と着替えなどが少し入った程度だ。
次に手頃な木の枝を取り出し、火を点けて松明にする。
誰に見られても不自然のない、旅人の外見のでき上がりだ。
そうして、まずは街道目指して歩き出した。
――南へ。
街道はまず南西に延び、やがて徐々に南向きになりながらマックロートへ続く一本道のはずだ。
隣の領都マックロートまで、この町から徒歩で三日程度の道のりと聞く。
途中、いくつかの村の傍を抜ける。ここから最も近いムンドリー村までは約一日弱の旅程で、朝早くプラッツを発った旅行者が最初の宿泊地にするのが普通らしい。
ブルーノたちとの打ち合わせで、避難した一行はまずその村のダグマーの家を頼ることにしている。
そこで「最大一日はハックが追いつくのを待つ」という約束だ。追いついてこないようなら、そのままマックロートを目指して旅立つことになる。
子どもたちの出発は日が暮れた頃合いのはずで、そのまま夜を徹して歩いたとしてもまだムンドリー村に着いていないと思われる。こちらが休みながら進んでも、十分村で追いつくことができるだろう。
街道は夜に歩いてもそれほど危険はないという話だが、それでも好きこのんで夜行を選ぶ旅人はそれほどいないようで、見渡す限り人影はなかった。
道幅は、東方面よりやや広いか。馬車や牛車でも何とかすれ違うことができそうだ。
土ざらしの路面だがよく踏み固められていて、夜でも何かに躓く心配はあまりないだろう。
ということで、悠々と歩き出す。
一応後ろからの追手と、予想が当たれば前方にありそうな接近に気を払いながら、自分のペースで足を動かしていく。
――今頃プラッツではどんなことになっているかな。
領主邸で大騒ぎが起きて、一時間以上経ったことになる。
一連の騒動は、まだ収まらないだろうか。
情けなくのた打つ人々は、せめて着衣を用意してもらっただろうか。
全員の怪我の治療は、まだ終わらないかもしれない。
被害の全貌把握も、まだかもしれない。
――そもそも、何がどうして起きたかさえ、理解が及ばないだろうなあ。
いくら考え何人の知恵を集めても、「どうして」の部分は無理だろう。
例え原理に理解が及ばなくても、全員が下の階に落下したことだけは否定しようのない事実だ。
また調べれば、屋敷内のすべての物品が消え失せていることが分かる。
本当にまったく理解は及ばないだろうが、一瞬にして屋敷のすべてが消失し、すぐに建物だけが復元された、ということだけは想像がつくかもしれない。
しかしどう考えても「どうして」だけは納得のしようがない。
落ち着く先は、おそらく一つしかないだろう。
「神罰」の一語だ。
それ以外の説明を思いつく者がいたらそちらに驚いてしまいそうなほど、誰がどう考えてもこれ以外の解釈はないだろう。
その解釈の中、この先あの領主周辺はどうすることになるか。
予想が当たれば、「どうする」の余裕さえ間もなくなくなってしまうかもしれない。
――さてさて、どうなるものやら。
そのまま歩き続けて、三時間ほど。
予想の答えらしきものが、はるか前方から聞こえてきた。
忙しない馬の足音だ。
脇の林に隠れて、やり過ごす。
三騎の騎馬兵らしき速駆けが、脇などに目もくれず過ぎていった。
当然、目指す先はプラッツだろう。
それからさらに一時間以上進んで。
今度はさらに大勢の、足音が前方から聞こえてきた。
また、脇に隠れてやり過ごす。
一糸乱れない、と形容したくなるほど整然と、速歩で数百人、あるいは千人に上りそうな軍勢が過ぎていった。
軍のしるしなどは分からないが、おそらくハイステル侯爵領の領兵だろう。
このご時勢だ。
侯爵領の間諜のような者が、プラッツに潜まされていないはずがない。
この夜の領主邸の騒動、聞きつけないはずがない。
すぐに全貌は理解できないだろうが、少なくとも領主邸は大混乱、領主と周辺は負傷して動けない、程度の情報を掴む。
必ずや即座に、味方軍にその情報が送られるはずだ。
イザーク商会で聞いた話では、マックロート支店との緊急の通信には「伝書犬」が使われるそうだ。名前の通り文書を訓練した犬に運ばせるもので、徒歩三日のマックロートまで一日程度、徒歩一日強の領界まで数時間で到達するらしい。
そんな方法を使ったか、あるいは間諜などならもっと速い手段、伝書鳩のようなものを用意しているかもしれない。
このタイミングで兵が侵攻してきたということなら、後者の方が近いと思われる。
噂に聞いた限りで、侯爵領は領界に増兵を進めているところとか。
そこへ男爵と周囲の兵が戦闘不能状態と聞き、対峙していた男爵領兵を強引に突破して、領都を目指してきたのではないか。
最初の情報は不確かでも、先行した騎馬兵がさらにある程度探りを入れることができる。
あの領主邸での騒ぎ、ほど近い西門からほとんど丸見え状態だろう。
ほぼ当然の成り行きで、今通過した兵たちはプラッツに到着次第雪崩打って攻め込むことになる。
その結果は、あらかじめの予想を超えているはずだ。
何しろ今の男爵領には、武器も軍資金もほぼないのだから。
その上ほとんどの兵が、打撲で戦闘困難状態。
応戦どころか、籠城めいたこともまったく不可能だろう。
攻め込まれたら、何の抵抗もできず全面降伏しかない。
西門から攻め込んで、五百メートル程度先の領主邸に直行。即時降服で終戦、以外あり得ない。
領主邸以外の民家などに、まったく被害が出る余地さえ考えられないだろう。
侯爵領の目的は以前の領地を取り戻すことで、いたずらに民衆を傷つけるつもりはないはずだ。
聞いた限りでは領民たちも、領主が誰であるべきという拘りがないようで、よけいな抵抗を見せることもないだろう。
――あと数時間で、男爵領が一つ消滅する。
ほぼ何の感慨もなく。
確信を持って、軍勢の後ろ姿を見送った。