86 派手にやってみた
現時点で、建物の外壁に密着している限りは見張りの目につかないようだ。ここを離れて敷地を横断するなどの動きをしたら、さすがに見咎められそうに思える。
見張りの関心を別な方に向けられたら、話は変わるだろうか。
――それでも、予防線は張っておくべきだろうな。
本格的な行動を起こす前の下準備、もしものための対策、ということになるか。
それこそ見張りに見咎められないようにと体勢を低め、ほとんどしゃがんだまま五メートルほど建物から離れ、作業をする。
手早く終えて、元の場所へ。
見渡しても、北側の見張りたちに変わった動きはない。
少しの間神経を尖らせて周囲を窺ってみたが、気づかれた心配はなさそうだ。
屋敷の中も変わらず静まり返っている。
よし、と深く息をつく。
それでは、本番に入ろうか。
――派手にやってみますか。
建物の外壁に手を触れ。
「地面より上にあってこの壁から連続して接している固体を、すべて『収納』」
と、念じる。
想定通り、目の前の建物一切が消え失せる。
そうして一瞬だけ待ち。
純粋な建物部分だけを、元の場所に取り出した。
一拍遅れて、どたどたどたという衝突音。続けてあちらこちらから悲鳴が炸裂した。
「わーーーー!」
「きゃーーーー!」
「ぎぇーーー!」
「何だこりゃーーー!」
一切の固体を消したのだから横たわっていたベッドも床も失い、建物内にいた者は全員、一瞬にして落下の憂き目に遭ったことになる。
すぐに建物だけ戻したのは、さすがに三階の者を一階まで落下させては命にかかわるだろうという配慮だ。このタイミングなら、復元した二階の床が受け止めたと思われる。
それでもまちがいなく、三階にいた者は二階に、二階の者は一階に落下したはずだ。
もし一階にいた者が床下に落ちてまだ立っていたら、一階の床と交わることになって建物の復元に支障があったはずだから、そんな者はいなかったと思われる。たとえ一階に人がいたとしても落下とともに床下にひっくり返って、床の復元の邪魔にならなかったのだろう。
兵舎でも同様のことが起きているはずだが、あちらでは一階の住人はすべて就寝中だったはずで、めでたく床下に横になって落ち着いていることだろう。
実際に覗いたことがないので知識はないのだが、もしも二段ベッドのような形になっていたらそこそこ悲惨な状況になっていそうだ。まあそこはそれとして、死者は出ないものと信じておくことにする。
とにかくもそうわけでまちがいなく、全員が落下の末、慌てふためいている現状のはずだ。
怪我人がいたとしても、打撲くらいか。運悪く骨折した者くらいはいるかもしれない。
よけいな家具も道具も一切が消えているのだから床との衝突のみ、不慮の切り傷なども生じる可能性はまずない。
しかしまったく無傷ですぐに動き出せる者は、おそらく皆無だろう。
それよりも、重要なことがある。
復元したのは純粋な建物部分だけなのだから、絨毯や家具類やその他の一切合切が、あの屋内からは消え失せているのだ。
領の重要書類も、金銭も、さらには武器庫が同じ続いた建物内だったからほぼすべての武器も、ということになる。
さらに。
「痛たたたーーー」
「誰か、助けて――」
「何だ、何があった――」
「何だどうした、お前の格好――わあ、俺も!」
連続して接している固体すべてが消えたことになるのだ。
建物の床に触れていたベッド、夜具、身につけていた衣類のすべてがその対象になったはず。
免れたとすれば、たまたまそのとき立っていて靴や靴下と接触していなかった衣類や装飾品のみ、ということになるだろう。
つまるところ要するに。今屋内で落下の痛みにのたうち回っている人々ほぼ全員が例外なく、全裸の状態のはずだ。
もし、兵舎が二段ベッドだったら――いやいや、金をやると言われても見たくない、恐ろしい光景ができ上がっていそうだ。
とにかく何をどう考えても、何処でもすぐまともな行動を起こせるはずがない。
訳の分からない悲鳴、雄叫びが、時を追って音量を増してくる。
――さて、この隙に逃げ出すことはできるか。
いろいろ様子を窺って考察はしていたが、事を起こしてまだ数分も経っていない。
観察の向きを変えて、その場から振り返った。
これも予想通り、北の端にいた見張りの兵たちが異変に気づいてこちらへ駆けてきている。
おそらく表側の正面門に詰めていた兵たちも、屋敷に駆け寄っていることだろう。
建物の出し入れに音は立たない。その他もののすべてが、消えただけ。
そのときたまたま建物に目を向けていた者がいたとしたら一瞬の消滅に気がついたかもしれないが、それだけなら目の錯覚としか思えないだろう。
というわけでおそらく、外で気がつく異変は人間の落下音と悲鳴だけのはずだ。
静まり返った深夜のことだから、近所の家々の人を目覚めさせるほどの騒音になったかもしれない。
表側の兵たちはすぐに気がつくだろうが、北側に離れていた見張りたちはどうなるか、これは事前に読めなかった。
接近する兵たちが建物だけに注意を向けて他の動きに気がつかないようなら、助かるわけだが。
しかし、身を屈めながらそっと移動を始めると。
「お、誰か人がいるぞ」
「曲者かもしれん、捕らえろ!」
寄ってきていた二人の兵に、たちまち見咎められていた。
このまま林の方へ逃げ果せるのは、難しそうだ。
それでもまだ、駆け寄る兵士たちと百メートル以上は離れている。
辺りは、十分暗い。
張っておいた予防線、下準備のネタなら、使えるはずだ。
というわけで、近づく見張り兵の前。
曲者は――姿を消した。
比喩とかものの喩えとか、そんなものではない。
見張り兵二人の視界の中、闇に紛れて不鮮明な状況で、明らかに姿を消したと視認されたはずだ。
今し方曲者を認めた場所に駆け寄り、周囲を見回しても、影も形もない。
辺り一面、異状は認められない。
キツネにつままれた思い、となるか。見まちがいだったと納得するか。それ以外どうしようもないだろう。
ただ二人、呆然と立ちすくんでいる、はずだ。
もうこちらから、見て確かめることもできないのだが。
――忍法土遁の術――なんちゃって。
さっき用意していたものを、使ったのだ。
地下二・五メートルの深みに、縦二十メートル、横三メートル、高さ三・六メートルの直方体状の空間を作る。そこにすっぽり入る、先日作っておいた石の板製のシェルターを据えておく。
あとは地面からシェルターの天井を貫通するまで、人が余裕で滑り下りることができる斜めの穴を開けておく。
そこまで事前に準備しておいたので、今はその穴に滑り込み、通過後に穴を塞いでおくだけだ。
中で薪を取り出し、火を点けて照明にする。
絶えず『収納』から新鮮な空気を補給し、一酸化炭素中毒には気をつける。
この空気の補充は、中にいても地上からの『収納』が可能だ。
上で困惑する兵たちも、まさか二・五メートル土を掘って下を確かめようという気にはならないだろう。
というわけで、石床に座って一息つくことができた。
やろうと思えば、何日もこの中に立てこもることもできるだろう。
――やりたくもないけど。
それでもほぼ完全に安全な立場を手に入れたことになるはずなので、落ち着いて現状を確かめようと思う。
今、領主邸の中は建物そのもの以外すべての物品が消え失せて、剥き出しの床の上で人々が落下の痛みにのたうち回っている、という状態のはずだ。
表門に詰めていた見張り兵たちが駆けつけて、怪我人の介抱を始めているところか。
もしかすると、近所の住人たちも異変を聞きつけて集まってきているかもしれない。
当分は、そのてんやわんやが続くことだろう。
おそらく、夜明けまでにいろいろが落着すればいい方だ。普通に考えて、混乱はもっと続く。
何しろ、領主邸の中には何もないのだから。怪我の治療の道具も、寝かせるベッドも寝具もない。
それどころか被害者のほとんどは全裸で、それにすぐ着せる衣服もない。何とか近所からそのようなものを調達するのが急務となるだろう。
近所の民家や商店を叩き起こして、無事調達できるかさえ疑問だ。
とにかく何しろ、そういったものを買い求める現金もないのだ。
その辺、領主の威光で何とかできるものなのだろうか。知らない。
まあとにかくもそんなことで、囚人が脱走したことに気がつくまでには当分かかりそうだ。
もしかすると人々の頭から完全に忘れ去られてしまっているかもしれない。
――できうることなら、あの看守が餓死する前には思い出してもらいたいものだが。
そんなことが推察され。こちらに捜索の手が伸びるということはしばらくないと思われる。
ただ、北方向から駆けつけてきた見張り兵たちは邸内に入るだろうが、四隅の見張りは複数名いたらしくまだ残っているのがさっきも見えた。
それを考えると、今すぐここを出て逃走することが可能か、まだ確信は得られない。
派手なことを仕出かしてしまったわけだが、やり残しや失態がないものか、少し落ち着いて考察しておきたいところでもある。
しかし、地上を覗き見ることもなかなか困難なので。
とりあえずまず、収得物を確認することにした。
改めて思い返すと、こんな広範囲で雑多なものをいち時に『収納』したのは、初めてだ。
そう考えて中を探ると、面白いことが分かった。
どう表現していいか苦しむのだが、『収納』の中を捜し回ることができる。
視覚的に形などが見てとれるわけではない。何というか、感覚的に認識できるという感じが近いだろうか。視覚ではない何らかの感覚で捉えることができるバーチャル空間、とでもいえばいいか。
とにかくもそんな感覚で認識できて、捜し回ることができるわけだが。
今回『収納』したのは屋敷ごとで、直後にその建物だけがこちらからは消え失せたことになるのだが、残された物品はすべてそのままの位置で、言わば宙に浮いている状態に落ち着いているようなのだ。
その中をこちらの感覚は、ふわふわ漂うように物を探して回ることができる。
試しに、一階奥の豪奢な部屋を覗いてみる。
重厚な机椅子や書棚のようなものが並べられているそこは、どうも領主の執務室らしい。
机の引き出しなども、開かなくても中のものを確認できる。
しっかり確かめるためには、『取り出し』して実際に見てみればいい。
一枚の羊皮紙を出してみると、どうも領の収支決算書の類いのようだ。当然、領主の机周辺にそうした重要物が保管されているのだろう。
上の方の引き出しには、何かの印のようなものも見つかる。現代日本のような印鑑社会とは違って、そうそうあちこちに存在する類いのものではない。おそらく重要な用途のために用意されているのだろう。
――これを失って、この先領主の任を恙なく続けることができるのか。
他人事ながら、心配なところだ。
部屋の隅には他に、金庫と思しき重々しい箱状のものが据えられていた。
当然施錠されているが、何の障害もなく中を覗くことができる。
すぐに数えることはできないが、かなりの金額が保管されているようだ。
これも前世現代のように銀行などないのだから、領の所蔵金ほとんどがここに集められているのではないか。
あまりに大金過ぎて、我が物として使うにはかなりのためらいを覚えてきそうだ。まあ、どうするかは後で考えよう。
その他、邸内をざっと見回ってみると。
当然ながらやはり、人間以外のすべてがそのままの形で残っているということでまちがいないようだ。
現実の方とは逆に、こちらからは魔法のように人間と建物だけが消え失せた、という感覚になるだろう。
家具や絨毯などもそのままなので、部屋の区別がとりあえず分かる。ベッドには寝具と、そこに寝ていた人物の衣服がそのままの形で残されている。
二階の一部屋に入ると、どうも客用寝室のようだ。
ベッド枕元のテーブルに、小ぶりの鞄のようなものがあったので『取り出し』してみると。
見覚えがある。ヘラー商会会長ゲルハルトがいつも肌身離さず持ち歩いているもののようだ。
中を覗くと、いくつかの書類とそこそこごつい鍵が入っていた。
書類の内容はすぐにはよく分からないが、どうも店の権利書なのではないかというものが混じっている。とにかくもこうしていつも持ち歩くのだから、重要なものなのだろう。
鍵もおそらくは大切なもの、商会の金庫とかそういったものなのではないかと思われる。
面白いことに、隣の寝室にはアイディレク商会会長マグヌースの同様の鞄が見つかった。
もしかするとこの世界で、こうした立場の人物共通の習慣なのかもしれない。
留守中の自宅や店の安全が信用できず、大切な書類や鍵などは常に持ち歩く、といったような。
だとすると。
――これらを失って、この先商会長の任を恙なく続けることができるのか。
他人事ながら、心配なところだ。
あけましておめでとうございます。
今年もよろしくお願いいたします。