67 凶事に駆けつけてみた
ふだんよりは遅い頃合から、一日の動きを始めた。
町を挙げての騒動の後なので、壁工事は一日休止となったらしい。
イザーク商会も後片づけに追われているということで、いつもの職員派遣はこの日はなしという連絡が来た。
一方で、今後の打ち合わせとイーストの卸しのために来てもらえないか、ということだ。
他の商品についてはこのごたごたで落ち着いた販売もままならないが、パンだけは需要があって注文が殺到しているという。町民たちも家に戻って、まず心落ち着けて食事がしたいということだろう。
ルーベンを助手に、この日の卸し分のイーストを荷車に積んで、出かけた。
道すがら料理屋にナジャを送り、イーストの必要分も配達しておく。
商会に荷物を下ろし、ルーベンは帰して、会長の部屋に招かれた。
こちらのイーストとミソの仕込み作業に、ほぼ支障はない。今日から従来通りの作業ができている。
商会の方はさすがに規模が大きいので、商売の再開に一日かかる。避難に当たって、商品のほとんどを厳重に片づけてしまっているのだ。
そうした話を擦り合わせて、それでも翌日からは完全に従来の動きに戻れるだろう、という確認になった。
「何にせよ、大きな被害にならなくてよかった」
「まったくですね」
「正直なところ、こんな慌ただしいことでなければ、うちの商会はマックロートに移転するのも構わないのだけれどね。ハックくんたちに支障がなければ一緒に移動してもらって、あちらを拠点にイーストの製造販売をする方が、王都などへの展開に都合がいいとさえ言える」
「ああ、そういうことになりますね」
「今まではこの町を中心に身の丈に合った商売を心がけていたわけだが、イーストがありさえすれば、全国を相手にできるからね。こんな辺境を拠点にし続ける理由はない」
「ですね。僕たちも、住みやすい環境があれば、移動に支障はありません」
「そういうことだろうね。ただし今の話は、まだ公にしないでもらいたい。うちうちに、領主様から引き留められているんだ」
「ああ、領主様にとって、イザーク商会に離れられては都合が悪いということになりますか」
「せっかく、税収が大きく増えているところだからね。いろいろ待遇をよくしてくれる提案を受けているよ。私としてもここは生れ故郷だから、すげなくしたいつもりもない。というわけで、今回のようなここにいられない事情が起きないうちは、しばらく現状維持だね。それでもこの機会に、ハックくんの意思を確認しておきたかった」
「分かりました。我々の方も、いざというときはこの町を出ることも厭いません。むしろこちらの商会よりも不安定な立場なので、例えば前回のような強権的な仕打ちを受けるようなことがあれば、即座にこの地を捨てるということもあり得ます」
「うむ、それは理解できる」
「最悪こちらと連絡をとる暇がないという事態もあり得ますが、その場合はマックロートの支店に連絡を入れるということで了解していただけますか」
「うむ。あらかじめ支店に話を入れておこう。そうそうあってもらっては困る話だが、想定はしておくに越したことはないからね」
「はい」
秘書のような職員に覚書を記入させながら、会長は何処か苦笑いふうになっていた。
少し肩の力を緩めたように、口調もやや世間話めいてくる。
「まあ我々にとってはそういうことで、何処かへ移転というのも考えられないことではない。今回の件が空騒ぎに終わって心底安堵しているのは、領主様がいちばんだろうね」
「そうですか」
「一瞬にして領都を失うというのがたいへんな事態だというのはもちろんだが、そうなるともう、領主様はその地位が危ういだけでなく、生命の危機に陥ることさえ現実になってくる」
「そういうことになりますか」
「もともとこの地は領主様が隣の侯爵領から奪取したもので、その隣の領とは今もって戦闘状態なのだからね。本拠を失って砦を構えることもできない状態では、攻め込まれたらひとたまりもなく壊滅だ」
「ああ」
「そういうことだからおそらく、今日の領主様は神に感謝の祈りを捧げるお心持ちだと思うよ」
「……はあ」
そちらの事情まで気を回す余裕はなかったが、確かにそういうことになるのだろう。
この地は、周囲の領の力関係や地形的特性の事情などの言わば絶妙なバランスの上で領有が成立していて、何かが崩れただけで存続は困難になりかねないと、以前に聞いたことがある。
「それでなくてもここのところこの町は、神の恩恵を受けているとしか思えないような事象の中で危機を免れることが続いていたわけだしね。現実に魔物が現れて騒ぎになったのは、もうふた月ほど前のことか。その魔物たちが同士討で大量死したとか、町に押し寄せる直前でハックくんと友人が征伐してくれたとか、際どく防壁の建設が間に合ったとか、本当に奇跡としか思えないことが続いていたのだからね」
「はあ……そう、でしたね」
「あのときの魔物たちは、一匹や二匹でも町の中に入れたらたいへんな被害が出たのではないかということだが。それに加えて、そのどさくさでこの領に、隣の領から兵が押し寄せたのではないかと言われている」
「そうなんですか」
「この領には魔物相手に兵力を割いている状態で、他領からの侵攻を防ぐ余力はないからね。その上他領にとっては、これ以上の魔物の南下を止めなければならない、という出兵の大義名分が立つわけだし」
「ああ」
「疑いなくこの町には、侯爵領の間諜が何人も潜まされているはずだからね。魔物の侵入を許したら数時間も待たず、隣からの兵が雪崩を打って押し寄せてきただろうと言われている。魔物を止めるという大儀の上なら、王家から非難を受けることもないだろうし」
「はあ」
――何とも、血生臭い話というか。
「何にせよ今回の噴火の件は、初動の偵察の兵が大げさに伝えたらしい程度で終わって、本当によかった。町民たちの安堵はもちろんだが、領主様はまちがいなく命存えたと神に感謝の心境だろうね」
「はあ……」
正直なところ、今回の件が空騒ぎに終わったこと、ここの人々にとって本当によかったものか、確信は持てない。
昨夜の動きならほぼ住民に死者は出さずに終われたと思われるが、次に噴火があった場合どうなるか、何の保証もないのだ。
もっと大規模な噴火や溶岩流が生じたら、避難が間に合わないということもあり得る。またそうでなくても、今回特に被害が出なかったことに気が緩んで、次には適切な避難が成功しないということも考えられる気がする。
――だからといって、自分のしたことを後悔するわけじゃないけど。
会長との話を終えて、商会を後にする。
町中は午を過ぎようとして、すっかりふだんの空気を取り戻した様子だ。商人たちは忙しなく歩き回り、職人たちは木槌の音を響かせる。東の方に離れて見える畑には、農作業の人が小さく動いている。
うちの加工所でも、子どもたちが作業に精を出しているのが見えてくる。
協力して庭で桶を運んでいたブルーノとルーベンが、こっちを見つけて笑顔を向けてきた。
足どりを速めて、敷地内に入る。
その拍子に、右目の端に少し気になるものが映った。
町の北端に建物などは少なく、数百メートル離れた門に続く道の一部が見えている。そこに、気忙しい足どりを急がせる衛兵の姿が数人横切っていったのだ。
――北門で、何かあったのか?
そちらを向いて立ち止まっていると、ブルーノが声をかけてきた。
「どうした、何かあったのか?」
「北門の方へ何人か、衛兵が急いで向かっていっているんだ。何か起きているのかもしれない」
「何かって? 噴火は収まっているよな」
「ああ、しかし――」
前回の小噴火の後のことを思うと、妙な胸騒ぎが治まらない。
「大事はないと思うが、ちょっと見てくるよ」
「おお、気をつけてな」
「俺も行く!」
駆け寄ってきたルーベンを連れて、北へ向かった。
防壁のすぐ手前で道を折れ、少し進むと門が見えてくる。
やはり、いつにない人数の兵が集まっているらしい。まだ整列などをする様子はなく、門を囲むように集って、口々に話し合っている様子だ。
「何なのあれ? 兵士がいっぱいいる」
「やっぱり、北の方で何かあったんだろうな」
ルーベンと会話しながら近づくと。
衛兵の集団の中に、異質なものが見えた。とはいえ、こちらにとっては見慣れた――。
「トーシャじゃないか」
「おう、久しぶり」
剣士姿の相手もすぐに気づいて、手を挙げてきた。
近づくと、集団の間を抜け出てくる。
長旅から戻ったばかりというくたびれた風情だが、ひと月ほど前に別れたときとほぼ変わらない身なりだ。
「何かあったのか?」
「ああ、今小隊長に報告していたんだが――」
久闊を叙するなどという余裕もないらしく、勢い込んできた。
「いや、俺は今、北東の山地から戻ってきたところなんだがな。山の中で、かなりでかい魔物がこっちに向かっているのを見つけたんだ」
「でかい? あのガブリンよりもか?」
「遠目で見ただけなんだがな。たぶん、比べものにならない」
「マジかよ」
「まるっきり特撮の怪獣みたいな外見でな、高さ十メートルぐらいはあると思う」
「わ……」
これが他の人なら大げさな見まちがいや遠目の勘違いという可能性も考えるところだが、『鑑定』持ちのトーシャにそれはあり得ない。
周りに配慮して明言を避けているようだが、本人の頷きようが明らかにそれを認めていた。
「おお、ハックくんだったな」
「あ、どうも」
がやがやと落ち着きのない言い交わしが止まない衛兵の中から、顔見知りの小隊長が出てきた。
余裕のない緊張の表情で、頷きかけてくる。
「どうも非常事態のようだ。君にも、知恵を貸してもらえないか。前のオオカミ魔物のときは、君の判断が役に立ったと聞いた」
「はあ。できることでしたら」
「トーシャくんに聞いたと思うが、見たこともない大型の魔物がこちらに近づいてきている。今のところ一匹だけのようだが、ここに接近を許したら造作もなく壁を越え、町民を襲うということになりそうだ」
「はあ、おそらく肉食なんでしょうね」
「確かめちゃいないが、まちがいないだろうな。離れたところで食い散らかされたノウサギを見つけたし、今まで遭遇した魔物は例外なく人肉を狙ってきていたし」
トーシャの付言に、頷く。
体高十メートルということなら確かにあっさり防壁を越えそうだし、人間の一人や二人程度腹に収めたとして、それで満足するということも期待できそうにない。
「超大型のトカゲが直立したみたいな見てくれなんだがな」さも不快そうに、トーシャは顔をしかめた。「冗談みたいな話だが、口から火を噴いていた」
「はあ?」
周りを慮って、「特撮映画の怪獣のよう」という表現は避けているが、ほとんどそれ以外表現のしようがないもののようだ。
『ゴ○ラかよ』と思わず口走らなかった自分を、褒めてやりたいくらいだ。
代わりに、ほぼその感慨を込めた目配せを、友人と交わしてしまう。
「そこの森の向こうまで入っていった偵察の者が、遠目にそいつを確認した。十名ほどの先発隊がすでに、足止めに向かっている。残りも即刻出発するところだが、何か知恵があったら聞かせてもらいたい」
「分かりました」
ルーベンを振り返り、仲間たちへの伝言を頼む。
そういう事情で出かけることになるが、そのまま待機していてもらいたい。この話は、まだ外に広めないこと。
「分かった」と頷いて、少年はたちまち駆け出していった。