64 復旧作業してみた
ゲルハルトが非を認めて「責任をとる」と言い出したことで、領主も二人の会長もこれ以上彼を追い詰めることは思い留まったようだ。
本人も言うように、土地の売買自体は法に触れていないという点がいちばんの理由だろう。
加えて、領にとっても二商会にとっても、ヘラー商会を潰すような真似は利益にならないのだ。
領では二つの大商会を優遇して、これまで経済が支えられている。
アイディレク商会とイザーク商会にとって、長期的にはヘラー商会を衰退させて自分が伸し上がりたい思いはあるだろうが、今は時期が悪い。
マックロート以南の地域での販路はヘラー商会が最も堅牢なものを築いているので、これからそちらに進出を志している二商会としては、先に現存のルートでパンの販売を広げてもらうのが最も効果的なのだ。
一方ヘラー商会にとっても、現状のプラッツからマックロート付近まででのパンの売上げと王都に至る拡大を比べると、桁違いの予想が立っている。今回の遅延分の補償で損益を出してでも、その後の分を手放すわけにはいかないのだ。
結局ヘラー商会が、領と二商会、孤児たちに対して、この三日分の本来得られたはずの利益を計算して賠償する、という形で話は決着を見た。
「まず素案を提出しろ。領の会計で、それを確認させる」
「は、畏まりました」
商会同士のやりとりとしては、二つの商会の被害分を最大限埋めるという方向で落着したことになる。
孤児たちに対しても、失われた分は補う、という格好だ。くり返すが土地売買自体に問題はないので、転居に伴う費用や追い出されたことへの慰謝料などは生じない。
言ってみれば、形だけ騒動前に戻された、というような。強制転居の事実だけがなかったことにされたような、という感覚だ。
前世のような人権意識はないせいだろう。領主も会長たちもそんなことに気を払うつもりはないようだ。
ただゲルハルトから「あの小屋に残されていたもの一切を改めて譲り渡そう」という申し出があった。
聞いて、ジョルジョが呆れたように目を剥いた。
「つまりは、カビが生えた製品は要らぬから押しつけようというわけですか」
「あ、いや……」
「それは、邪魔でしょうからね」思わず苦笑で、答えていた。「いいでしょう、お引き取りします」
「いいのかね、ハックくん。そんな役立たずのものを」
「ええ、桶だけは不足しているので助かりますから。洗って使うことにします」
「そ、そうか」こちらの気が変わらぬうちにとばかり、ゲルハルトが畳みかけた。「ではこの後すぐに、新しい作業場へ届けさせよう」
「お待ちしています」
不要品処理という以上にヘラー商会にとって、この返却で子どもから物を取り上げたという悪評を緩和したい目的がありそうだ。
ジョルジョは気遣ってくれているようだが、大人しく受け入れることにする。
一通りのの話し合いを終えて、ゲルハルトはそそくさと退席していった。
続いてマグヌースが辞去する。
こちらも腰を上げかけていると、領主が顔を向けてきた。
「ハックは災難だったな、今回の件」
「あ、はい」
「俺としても、申し訳ないことをした。あの土地のことは気を払ってやると言っていたのに。奴の言い訳に近くて情けないが、土地管理の担当者が知らぬうちに手続きを終わらせていたのだ。俺の耳に入ったときには、もう手遅れだった」
「ああ、そうなのですか」
「まあ、そういうことだ」
「それ自体は、近々移転を検討していたところでしたので、実害というほどのことはありませんでした」
「それならいいのだがな」
いかつい髭の顔が、やや安堵ふうに緩んでいる。
ジョルジョとともに帰途に着き、イザーク商会で今後のイーストとミソの出荷について確認した。
先の席で「町で必要分の半量程度は明日から卸しを再開できる」とした発言を数字的に説明し直すと、会長は安心の顔になっていた。
ヘラー商会が返却してくるという桶類についても、説明しておく。
「ゲルハルト会長には意趣晴らしの意味であんな言い方をしましたけど、たぶんミソはカビを徹底的に除いてやれば、使えるはずです」
「そうなのかい」
「麹というのもカビの仲間みたいなものですけどね。麹はミソの中全体に定着していて、カビは表面だけですから。一日二日で侵入してきたものに、中身までは負けません」
「ほう。そうすると、ミソは予想より早く出荷が戻れそうということになるのか」
「ですね。我々としては、収入源の被害が減ることになります」
「そいつは愉快な話だ。ゲルハルトの奴が知ったら、悔しがるだろうな」
「そういうことですね。さすがにイーストにカビが生えたものは、諦めるしかないと思いますが」
笑い合って密談を終え、住処に戻る。
作業場では、ニールとナジャに小さな三人も加わって、イザーク商会から派遣の三人とともに、イーストとミソの仕込みを続けている。
イーストと麹の元を繁殖させる部分はニールが別室で行い、それを製品化に向けて加工する工程を、人手を借りて広い作業場で進めているという格好だ。
進展を確認していると、ヘラー商会からの使いが訪ねてきたという報せがあった。
見ると、荷車二台に桶と木の枡がびっしり乗せられている。
会長が言っていた返却分、カビが生えたミソとイーストのものだ。
「カビなどが移るとたいへんだから、みんなはそちらから出てこないようにしてくれ。とりあえず隣の物置に搬入して、最初は俺一人で処理する。後からニールだけに手伝ってもらうから、そのつもりでいてくれ」
「分かった」
こちらの作業員たちに申し渡すと、素直に頷きがあった。
今の作業をしていて「カビが生える」という点は日頃から徹底して注意していることだから、こう言っておけば絶対に邪魔されることはないはずだ。
ヘラー商会の人たちに指示して、桶を物置に運び込ませる。
そこそこ広い土間の奥に、桶にニールが記入した印を元にして順番に並べさせ、使いを帰した。
窓を開いて、換気がよくなるように気をつけ。
入口側の空所に、『収納』していた桶と枡を取り出しておく。
搬入の様子を身内の作業員たちの目から遠ざけたのは、もちろんこのためだ。運び入れた桶の数を見ていないのだから、ここで増えていても誰にも気づかれない。
搬入した桶の蓋を取ると、中の表面は見事な緑色になっていた。
正直一言で言って、気持ち悪い。
――カビの胞子をぶち込んだ本人が、言うことじゃないけど。
一通り確認して、隣の作業場に顔を覗かせた。
「ニール、手伝ってくれ」
「うん」
いろいろ作業用の必要物を抱えて、物置に戻る。
奥と入口に離して置いた桶類を指さして、説明した。
「入口側のはほとんどカビの被害がないやつだから、作業が終わるまで開かないようにしてくれ。とりあえずやるのは、奥のやつからカビを取り除く作業だ」
「うん。でもこれ、カビとったら、使える?」
「そのはずだ」
さっきジョルジョにしたのと同様の説明をすると、素直に頷きがあった。
ミソの表面からカビをこそげ取る。作業場に常備している度数の高い焼酎のような安酒を振りかけて、再発生を防ぐ。
そういった作業を、二人で黙々と進める。
作業の間も飛び散っているだろうカビの胞子を周囲の空気中から『収納』し続けて、できる限り再発生を防止する。
その労務を終えると、ナジャと小さな子たちを呼び寄せて室内の掃除を手伝ってもらった。最後に桶の外側をもう一度酒で拭き、雑カビ除去を徹底する。
「ありがとう。これでかなり、失った分を取り戻せる」
「よかった」
ニールとナジャが笑い顔を見交わしている。幼年組もつられて、満面の笑顔だ。
あとはニールとともに、戸口側に並べた桶の中身の点検に移る。
蓋を開くと、カビなどは見られない。ずっと『収納』していたものだから、まあ当然だ。
当初昨日出荷できる予定だった桶のミソを少量すくって口に運ぶと、問題ない品質になっているようだ。
「大丈夫そうだな」
「うん」
ニールも味を確かめて、頷く。
これらについてはカビなどよりも、『収納』によって麹の分が消えて風味が変わるのではないかと案じていたのだ。
しかし味見の限りでは、その問題はないようだ。まだ発酵中の麹でも『収納』にあたっては、ミソと同化した一つの製品扱いになっているのかもしれない。
作業場に戻って「ミソの大部分が救われた」と告げると、イザーク商会からの派遣職員も一緒に喜んでくれた。
「では、今日の出荷分もできているのかな」
「ええ、いつもよりは量が減っていますが、出荷は可能です」
「ではすぐにも、私が運んでこよう。店では待ちかねているはずだ」
職員の一人が、勇んで荷車を引いていった。
その後はナジャたちに任せて、いつもより遅いがニールとノウサギ狩りに出た。
内臓肉と一緒にデルツの店にイーストを届け、明日からナジャの手伝いも再開できると告げると、大喜びされた。
間もなく午後の荷運びを終えた四人も帰ってきて、この日の作業予定を終えることができる。
ようやく新居に落ち着いて、小さな子たちを中心にみんなで庭を走り回って遊ぶことになった。
「ようやく落ち着いたか。一時はどうなるかと思ったぜ」
「うむ、まずは一安心だな」
「それでも、今後安泰とは確信できないけどね。どの商会にとってもこれは、できることなら手段を選ばず独占したいもの、というのがはっきりしたと言える」
「マジ、油断できねえな」
「うむ」
夜の話し合いで、ブルーノやサスキアにも溜息が絶えないことになった。
それでもそれから数日、イーストの製産は順調に量を増やし、出荷を続けることができた。
その後どの商会からも妙な動きはない。おそらくのところ、というか当然、販路の拡大で手一杯なのだろう。
九の月の終わりが近づくと、すっかり秋らしい風が感じられるようになった。
気温が低くなると発酵に影響が出るはずなので、注意深くニールに記録をとらせながら、製産を進めることになる。
こちらではイザーク商会での荷物運び業務はやめにして、四人はイーストとミソの仕込み作業に専念することになった。商会からの派遣も続いている状態で、ただ人手を交換するのも妙な話なので。
孤児たちが単純作業しかできないというなら別だが、こちらでの手順には大人以上に手馴れているのだ。今ではこれだけで、十分な給金を出すことができている。荷物運びは向こうで、別の人手を募ればいい。
防壁工事とノウサギ狩りは、以前と同様に続けている。
そんな日常もますます落ち着いてきていた、二十八の日のことだ。この日もそれぞれの仕事を終えて日が低くなってきた庭で、子どもたちが遊び回っている。
そんなときだった。
ずずずずーーん。
という鈍い響きとともに、地面が揺れ出した。
以前のものより確実に強く、長い。
「きゃあーー」
「何いーー」
驚いた子どもたちが、集まり抱き合っている。
辺りを見回し、声をかけた。
「みんな、家から離れてこっちに集まれ!」
「わあーー」
前世の都会と違って、周囲に危険な落下物などはなさそうだ。
倒れる危険がありそうなのは、老朽化した建物くらいのものだろう。
前の路地への出入口近くに全員を集めて、固まらせる。
幸い、間もなく地震は収まった。
近所の民家からも住人が出てきて、きょろきょろ様子を窺っている。
先日挨拶をした向かいの主人、エルヴィンという初老の男がこちらに「大丈夫か?」と声をかけ、さらに近所を見て回っていたが。
いきなり道の真ん中に立ち止まって、声を張り上げた。
「な、何だ、ありゃあ?」