32 説明してみた
思ううち、山の縁に日輪が形をなしてきた。
毎日の、当たり前の現象なのだろうに。手前勝手に、そこに荘厳なものを感じてしまう。
その頃になって少し、うとうとすることができた。
がたりという物音に、目を開く。
戸口から医者が覗き込んできたようだ。
窓の外は、すっかり陽が昇った後だ。
「今は、落ち着いているようだな」
「はい」
それでも発作の合間というだけで安心はできないという判断だろう、アドルフは難しい顔のまま患者の首に手を当てて脈を診ていた。
その目が、わずかに丸く見開かれる。
「妙だな」
「どうしました?」
「脈も落ち着いている。少し熱も下がったようだ」
「そうですか」
「小康、というには落ち着きすぎだ。こんな経過は見たことがない。まあしかし、油断しないで見ていこう」
「はい」
気を緩めてはいけないと思いながらも、深い安堵の息が漏れた。
何度か診察し直しては首を捻り、アドルフ医師は外来の対応に戻っていく。
朝を迎えてからは発作を起こすことなく、トーシャはこんこんと眠り続けていた。
「二時ほどで戻るから」と言い置いて、医者は往診に出ていった。
病状が変わる様子がないのに一安心して、『収納』から出したパンと干し肉を囓る。
そのまましばらく様子を見ていて、まだ午まで間がある頃だった。
「う……ん」と小さく呻いて、トーシャが目を開けた。
「ん……」
「目が覚めたか、分かるか?」
「……お前……ここは?」
「医者の家――まあ病院だ」
「助かったのか……俺」
「ああ」
わずかに上体を起こすのに手を貸して、水を飲ませてやる。
一息、深々と吐いて、トーシャは瞼を閉じ開きした。
「昨日森で見つけたんだけど、覚えているか?」
「ああ――魔物に攻撃されて――崖から落ちたんだ」
「そう。河原近くで倒れていたのを見つけて、衛兵と一緒に運んできたんだ。左腕に大きな切り傷と、足を捻挫しているらしい」
「そうか……あ、いや……」
ぼんやりした目を左右に揺らせて、記憶を辿っているようだ。
少しずつ顔つきははっきりしてきているが、まだ熱はあるらしく目の下から頬が赤らんでいる。
「大丈夫か? まだ熱があるようだ。何も考えず安静にしていた方がいいと思うよ」
「ああ――いや、わけ分からんままで、落ち着かねえ。俺、何だか酷く苦しんで、暴れてなかったか」
「ああ。昨夜はまあ、酷かった。正直言うと、医者が匙を投げた状態だった」
「――って、え? どういうことだ」
「土痙攣病っていうんだそうだ。つまりはまあ、破傷風だ」
「破傷風? そんなの――この世界の医療じゃ、助からないんじゃないのか!」
「まあ――だから、医者が匙を投げた」
「え、え? それで何で――そうか、お前、何かしたのか?」
「まあ、そういうことになるな」
「何をした?」
「ペニシリンを作って、飲ませた」
「ペニシリンだあ?」
赤らんだ顔で、目が真ん丸になった。
まあ、当然の反応だ。
「そんなの――昨日の今日だろ、できるわけがないじゃねえか!」
「ふつうに考えれば、まあ、そうだよなあ」
「どんなインチキやらかした!」
「いや興奮するな、落ち着け。熱が上がるぞ。ゆっくり説明するから」
「……頼む」
ほとほと疲れた表情で、大きく息をつく。
そんな病人に、もう一度水を飲ませてやった。
「……お前そんな、医学とか薬学とかの知識、あったのか?」
「あるわけないよ。ふつうの現代日本人、高校生の常識程度だ」
「そんなんで、どうやって……」
「まあしかし、ふつうの常識程度で、思いつきはするだろう。破傷風にはペニシリンが効く、ペニシリンはカビから採れるってことくらいは」
「まあ……そうだな」
「しかしふつうは、そこまで知ってても実際に作ることはできない。前に観たタイムスリップもののテレビドラマでも、医学知識のある主人公が江戸時代で、さんざん苦労して何ヶ月もかけてようやく作り出したというくらいで」
「だな」
「御都合主義満載のドラマでも、その程度だ。それを超えるなんていったら、ますます御都合が過ぎると、視聴者なり読者なりに石を投げられるかもしれないけどな。しかし僕にはできるんだ」
「どういうことだ?」
「考えてみたら分かるけどね。ペニシリンを手に入れるための最大の障害は、ちゃんとそれを含むカビを見つけることと、そこからペニシリンを抽出する方法を見つけることだ」
「だな」
「それが、簡単にできるんだよ。『鑑定』と『選択収納』で」
「はあ?」
改めてまた、トーシャの目が真ん丸になった。
これもまた、当然だ。
自分でも、思いついて試してみるまで信じられなかったのだから。
「順番に、話すよ。昨夜遅くなって、君に土痙攣病の症状が現れた。医者には、こうなったらもう助からないと宣告された」
「……おう」
「どうにかできないかと、さんざん考えた。とは言っても、考える選択肢などほとんどない。医学の知識などまるでないんだから。思いつくのはさっきも言ったように、ペニシリンだけだ。それを含むカビを見つける、『鑑定』ならそれが分かるかもしれない」
「ああ」
「で、とにかくやたらめったら、カビを探した。ここの台所と、あと当てになるのは、こないだ行って閉まっていたろう、あの料理屋くらいだ。そこの親父に頼んで、あるだけカビの生えたものを探してもらった。幸いその中に『鑑定』が【ペニシリンを含む】というのを見つけることができた」
「おう」
「すぐそのカビから『ペニシリンだけ収納』ってのをやってみたんだが、さすがにそこまでうまくはいかなかった」
「ああ」
「それでも希望は出たわけだからさ、店の親父に銀貨一枚払ってあるだけカビを譲り受けて、ここへ戻ってきた。まずは落ち着いて手順を踏もうと思ってさ。最初にその中から『ペニシリンを含むカビだけ収納』した。それを取り出して、少し水を加えてすり潰してから『ペニシリンだけ収納』をやってみたら、今度はうまくいったんだ」
「おお」
「それでペニシリンを溶かした水が手に入ったわけで、君に飲ませたんだ」
「………」
これで何度目か、トーシャは深々と息をついた。
大きく見開いていた目が徐々に緩み、数度瞬いて。
「何だかあちこち突っ込みどころ満載の気もするんだが……とにかく、俺のために苦労してくれたんだな。ありがとう、感謝する」
「どういたしまして」
「それにしても、あれ――ペニシリンってのは、注射とか点滴とかで使うんじゃないのか? 飲んで効くのか」
「当然、注射も点滴もここにはないんだからね。飲ませる以外、方法はない。ああ、一応試しに患部に直接振り掛けるってのもやってみたから、正確にはどっちが効いたのかは分からないけどな」
「……マジかよ」
「それでも、まったく勝算がなかったわけじゃないんだぞ。昔父親の蔵書で読んだんだけどさ、医学博士号を持つ『マンガの神様』と呼ばれる人の作品で、そんなシーンがあるんだ。確か『注射より量は必要だが、飲ませて効かないことはない』とか説明が入っていた」
「マンガあ……」
「結果的にそれが真実だったらしいわけだから、マンガと言って馬鹿にするものでもないってことだね。ちなみにその話の中では、ほとんどカビをすり潰しただけで飲ませて効果があったことになっていたと思う。今回のこっちも、『収納』で抽出がうまくいかなかったらそうするしかないと思っていた」
「……そうか。そのマンガの神様って人に、感謝の祈りを捧げるべきか」
「だよね」
ふうう、ともう一度深い溜息。
心なしか、トーシャの表情に生気が増しているように思える。
「確かにもう結果オーライなんだから、細かいこと言っても仕方ないのかもしれんが。『ペニシリンを含むカビだけ収納』したって言ったよな。カビだって生物だろう。『収納』できたのか」
「生物というか、植物だよね。いやさ、この点僕らも、数多の小説の登場人物も作者も正確に考えていないんじゃないかという気がするんだけどさ。『生きている生物は収納できない』という条件について」
「どういうことだ?」
「動物の生死は、まあいい。心臓が止まったかどうかとか、そんなところで判定できるんだろう。しかし、植物はどうなんだ。木から切り取った枝とか、土から引っこ抜いた草とか、『収納』できるよね。実際僕の『収納』はまちがいなくそうだし、小説の中でもまず例外なくそうなっているはずだ。でもさ、そういった枝や草、死んでいると言えるか? 後から土に植えてやったらまた根を出して成長するなんてこと、あるあるだよね」
「……ああ」
「だからさ、植物に関しては正確なところ、『収納』できるかどうかは生死の違いじゃないと思うんだ。元の幹から切り離されたとか、生えていたところの土から離されたとか、そんな辺りが『収納』の条件になっていると考えられる」
「まあ……そうだな」
「だとしたらカビの場合は、生えていた食品とかそんなのからこそげ落としてやれば『収納』できる、と考えていいんじゃないか。実際、できたし」
「……なるほど」
頷き、トーシャは仰向けの頭をやや仰け反らせた。
ゆっくり何度か目を瞬かせ、思いを漂わせる様子だ。
「何にせよとにかく、助かった」
「ああ、助かってよかった」
「しかし参ったぜ、あの魔物には――あ、そういえばあいつ、どうなったんだ?」
「……ああ」
少し迷ったけれど、正直に話すことにした。
こちらがあっさり倒したと聞いたら本人は失望するかもしれないが、その顛末は今後トーシャにも関係してきそうだ。
「僕が、倒したよ。崖っ縁にいたところへ頭の上から岩を落としてやったら、下へ転げ落ちていった。止めは刺していないけど、動かなくなっていたから死んでいると思う」
「……そうか」
「衛兵たちには詳しく話していないから、たぶんトーシャと相討ちになったと解釈しているんじゃないかな。訊かれたら、話を合わせておいてよ」
「いやそれだと、魔物征伐が俺の功績になってしまうぞ。もしかすると報奨金みたいなのも出るかもしれないのに、お前それでいいのか?」
「『収納』を知られるわけにいかないからね、剣を持ったトーシャが何とかしたということなら、みんな信じるだろう」
「……分かった。とりあえずそういうことにして、後でもう一度話し合おう」
「しかしトーシャ、もしかして、あんなでかいのとは思わずに狩りに行ったのか?」
「ああ、ガブリンって聞いたんでな。てっきり征伐に手頃なやつだと思っちまった」
「ゴブリンだ」「スライムだ」などと聞いただけで深い説明も請わずに「それなら退治できる!」と飛び出していく主人公は小説の定番だが、現実にやる奴がいるとは思わなかった。
実際にもの凄く強いゴブリンやスライムが登場する作品も他にあるのに、彼らは何をもって自分の手に負えると確信できるのか、長年の疑問ではある。
「それにしたってあの図体、離れていても大きさに気がついたんじゃないのか」
「いや、魔物を探したいって『鑑定』を使いながら森の中を歩いていったんだがな。光って報せを受けたとき、あいつ蹲っていたようなんだ。『鑑定』でも【二足歩行の魔物。ガブリンと名づけられた。雑食で、獣や人を食う。特に人肉を好む】と出ただけなんで、大きさが分からなかったんだ」
「それにしても、もう少し慎重に行くべきじゃ」
「反省しているよ。それにしても、ガブリンだぜ。あんなでかいのとは思わないだろう」
「こちらのガブリンが、小説やゲームのゴブリンと同じ意味とは限らないしなあ」
「まあそうだが」
「もし同じ意味だとしてもさ、そもそもゴブリンってのはヨーロッパ辺りの空想上の存在で、見た目とかにも決まったものはないはずだろう。よく『小鬼』とか訳されるけど、この『小さい』とかいうのは曲者で、数学でいう『命題ではない』ってやつだしさ。大きい小さいは何かと比べてのもので、それ一つで確定するものじゃない。もしかしてもっと巨大な鬼が他に存在しているなら、あいつでも十分小鬼なのかもしれない」
「……お前、相変わらず妙な理屈こねやがるな」
「お陰様で。昨日はそんな余裕なかったのが、少し平常に戻ったようだ」
「……それはよかった」
枕の上で顔を横向けて、くく、と笑いに喉を震わせる。
こちらも安心して、身体の力が抜けてきた。
「それにしても本当、参ったぜ。戦闘力成長のために魔物を狩らなきゃいけないのに、あんなのが相手と来ちゃ」
「そうだよなあ」
「ふつう、魔物征伐といったら、弱いやつから順番に現れるものだろう。あの管理者《神様》、よっぽど意地が悪いんじゃないのか」
「そこは、否定できないな」