6話「行くべきところ-2」
ハンディデバイスを立ち上げると、わたしはすぐに発信履歴を開いた。
ずらりと並ぶのは、『ペロ』の名前ばっかり。『アッシー』の名前は画面を一度スクロールしただけで見つかった。その点、過去を破棄した人間は今がわかりやすくていい。
三コールと、体感で半。
『よお、コロ。今は出先だから、待たせるよ』
アッシーは、いつものタイミングにいつもの調子で通話に出た。
「どれくらいかかる? 今から林理沙のところまで行きたいの」
『へえ。お急ぎで?』
改めて訊かれると、ふと冷静になる。
なぜわたしは急ごうとしているんだろう。
「……別に急いではいないけど」
『ふーん』
「いいから、とにかく来て」
『はいはい。少しそこで待ってて』
「うん、わかった」
プツ、と通話が切れてから、彼の言う少しがどのくらいか訊きそびれたことに気づいた。
でも、そういえばアッシーの口から正確な到着時間なんて聞いたことはなかったかもしれない。
「なによあなた、慌てて。珍しいこともあるのね」
声がして、真千子がすぐそばにいたことに少し驚いた。
「慌ててる? わたしが?」
人から言われても、まるで自覚はない。
ただ、今すぐにでも上山宮と話がしたい気持ちが、心臓をこそばゆくさせるのを感じてはいた。
すると真千子は、「見るからにそうじゃない」と呆れたように笑みを浮かべる。
「カミヤマミヤ、だっけ? それと、ハヤシ? もしかして、あなた昔のことを思い出したのかしら」
「ううん。昔のことじゃない。初めから知ってる人」
「……そういうのを昔のことっていうんでしょうが」
「でも、そうじゃない。そういう感覚じゃないの」
今のわたしの感覚を口で説明するのは難しい。
頭を過るどの言葉もどこか微妙に違っていて、なかなか口に出すことができなかった。
「まあ、どうでもいいわよ」
真千子は笑って、わたしの肩に触れた。
薬指を除いた全部の指にはめられたゴツゴツとした指輪の感触が伝わる。
「とにかく、そんなに気にしないことね。所詮過去のことなんだろうし、今のあなたにとって意味のあることとは限らないわ。変に期待すると、期待通りじゃなかった場合に都合のいい結果を求めがちよ、人って」
「どういう意味?」
「人は根本的に前向きすぎる、ってこと」
人が前向きだから、都合のいい結果を求める?
まるで意味がわからない。
「それってどういう……」
どういう意味なのか。
質問は、すぐそこで鳴ったクラクションに邪魔されてしまった。
反射的に振り向くと、路肩に停められた二輪ビークル――もとい、大型バイクに跨った女の人がこっちを見ている。
大きなサングラスに半分は隠れてしまいそうな小さな丸顔。ショートヘアーに薄い青の髪色。
バイクに乗っているにも関わらず、防具らしいのは長袖のジャケットだけで、腰から下はショートパンツにミドルブーツとやけに露出が多い。
その肌艶からして、年下。
「コロちゃーん、こっちこっち」
その見覚えのない女の人が、ふいに満面の笑みでわたしを呼んだ。
「だれ?」
隣で真千子が囁く。
「知らない人だけど……」
わたしが記憶を探る間に、真千子が「運び屋よ」と声を漏らした。
「あなた自分で呼んだんじゃない」
「でも、わたしが呼んだのはアッシーだよ。アッシーは男の人だし。それに、まだ五分も待ってない」
わたしが言うと、真千子があんぐりと口を開けた変な顔でこっちを見る。
「まさか、あなた知らなかったの? ドントウォーリーは客を十五分以上待たせないのがポリシーよ。だから、ツーマンセルが基本なの。まったく……、ただ利用しているだけじゃ、経験するだけ時間の無駄になるじゃない。もったいないわね」
真千子はフンフン鼻息を荒くして、「ほら、さっさと行きな」とわたしの背中を押す。
若干不安を感じながら彼女に近づくと、
「どうぞ」
と私に胸元から取り出したサングラスをよこした。
「乗って。話は走り始めてからね」
愛想良さそうに微笑む口元が、表情を覆い隠すサングラスのせいで信用しきれない。
このタイミングのよさ。フラッシュに監視されていたことを知ったばっかりで、もし彼女がニセモノだったら、と考えてしまう。
なかなかバイクを跨ぐ気になれず真千子を見ると、真千子は小さく頷いてわたしに手を振った。
「ドントウォーリー、ってさ」
躊躇するわたしに見知らぬ彼女が囁く。
わたしは重い脚を思い切って振り上げ、バイクに跨った――。
モーターが徐々に回転数を上げて優しく音階を奏でる。
それが、一オクターブほど上ったところでロングトーンに変わった。
『初めましてだね。コロちゃん』
ふいに聴こえた声は、頭の奥に直接響いている。
初めての感覚だけど、たぶんこれが骨伝導ってものだと思った。
「あなたは、アッシーの?」
ただの質問に、彼女は『あはは』と笑った。
『アッシーって呼んでるんだっけ。そう、バディだよ。あいつ、ああ見えて結構仕事の効率いいんだよね。だから、こういう代行はほとんどないの。だから大体はデータ収集ばっかりで退屈だよ』
そして彼女は、『私のコードネームは、フォルミカ』と名乗った。
『ミカ、でいいよ。それともアッシー二号とか?』
「ううん。アッシーは大抵男の人だから、あなたはミカでいい」
『そ。じゃあ、本題……、の前に支払いか』
そう言ってミカは左腕をこっちに伸ばした。
袖口からは、あの緑色の光が見える。わたしは、そこにハンディデバイスをかざした。
『毎度あり。で、本題だけど。林理沙について調べたことの結果報告ね。結論からいうと、やっぱ怪しいみたい』
「怪しい、って?」
『簡潔に言うと全部なんだけど。まずは、ID。林理沙は、上山ミズホの娘、だから上山宮の孫のはずなんだけど、ファミリーネームが違う。これはそもそもパートナーシップを申請していたのなら、相手のものを受け継いだってこともあり得る。
けど、違ったの。林理沙が誰かとパートナーシップを結んでいた記録はない』
つまり、未婚。
ただ、名字が変わるのはなにも結婚とは限らない。
「養子になった、ってことじゃないの? その前の名前を使ってるだけ、とか」
『正解、そういうこと。それなら、ちょっと変わっているけど、親子でファミリーネームが違うことの辻褄は合ったわけだ。だけど、そもそも林理沙について正確な出生わからないの。捨て子か、それとも記録を消したのか……わからないけど。なんにせよ、林っていうファミリーネームは謎だね。これだけでも十分怪しいんだけど、その母親もかなり変だよ』
「母親、って上山ミズホって人?」
『そうそう。その上山ミズホなんだけど、彼女にはパートナーがいた。その名も、"田中・ファタ・フーツィン"。一応、男性みたいだね』
そう言うミカの声が、わずかに震えるのを感じた。
『でね、上山宮のパートナーの名前が、高橋・タタ・アヤって名前の女性なの……ぷふっ』
堪えきれないといった漢字で、ミカが吹き出す。
人の名前がそんなに面白いのだろうか。
『わかる? どっちの名前もね、発音的に父を意味する言葉になるんだって。ほんと、バカみたいだよね』
ミカは、ハハハ、と楽しげに声を弾ませる。
「偶然そういう名前ってだけかも」
『たしかにね、コロちゃんの見方も正しいかもしれない。
でも、記録上でいうと、上山宮より先の人たちにおかしなところはないの。もちろん、両親どっちにも"母"とか"父"とかいう妙な名前の人はいないし……。ちなみに、上山宮、上山ミズホ、どっちのパートナーも一応外国籍だったから、本人より先の情報はまだわからない。とまあ、ここまでが怪しいポイント1ね。
で、怪しいポイント2なんだけど。林理沙の母親――上山ミズホと、林理沙はどっちも、デリバリーも旅行業者も利用した記録がないってこと』
「それ、本当?」
口走ってから、話している相手が信頼できる非合法の運び屋だとペロに聞いていたのを思い出した。
『もちろんだよ。その手の情報を間違えたら、商売にならないもん』
「そうだね」
『で、だ。このご時世、一度もデリバリーも旅行業者も利用したことがないってどう思う?』
「たとえば、買い物は近場で済ませていて、旅行は他の誰かと一緒に行っていただけなら、あり得ると思う」
林理沙の家の無闇な豪華さを考えると、過去の鬱憤を晴らした結果なのかもしれない、となんとなく合点がいく気もする。
ミカは、『たしかに今どき珍しいけど、それもぜんぜんあり得るね』と首を縦に揺らす。
『だけど、ビークルなしでそうするのはやっぱり難しいと思うよ。もしかして、ビークルも人のを借りてたとか言っちゃう?』
「あり得ると思う。人の少ない集落だったら、相乗りみたいなことが日常的にあっても変じゃない」
『人が少ないっていうか……廃村だよ?』
「ハイソン?」
一瞬、ミカが何を言っているのかわからなかった。
「村が廃れてたってこと?」
『そう。正確にいつから、っていうのはちゃんと調べないとわからないけど、上山宮が住んでいた時から過疎が進んでいて、住人は数名、高齢者しかいなかったってことがわかってる。ちなみにその住人たちは、日用品のデリバリーを利用していたよ』
つまり、上山ミズホが生活していた時期にはすでにそうだった、ということ。
だとしても、近所の誰かが運転できるのなら、年齢なんかには関係なくビークルは相乗りだったという可能性がないとはいえない。
とはいっても、もしそうなら上山宮や上山ミズホが運転免許を持っていたかが気になる。
会って話した林理沙を思い浮かべて、彼女が運転している姿を想像した。
するとふと、わたしの脳裏に黒いビークルのことが浮かんだ。
思わず、あっ、と声が漏れた。
「ビークルが停まってた……」
甲府の家だ。林理沙が住んでいるというあの家に、ビークルが一台停まっていた。
『林理沙の家に、かな?』
「うん。黒いビークルが」
どうしてこんな簡単なことに気がつかなかったんだろう。
表札もチャイムもない家、異様に人目を気にする彼女の様子、山台工業のビークルの存在。
彼女が嘘をついているかもしれない、と言ったニセフラッシュの発言。
林理沙が隠したかったのは、脱税なんかじゃない。
『ま、結局は怪しい人たちってことだよね。今さらシロクロ言ってる場合じゃないかも』
「うん」
言わずもがな、彼女はクロ。だから、彼女の口から聞いた話は一つも信用ならない。
だったら、確信するしかない。
林理沙に会えば、上山宮のことも赤のカードのこともわかる。
「急いで」
わたしのお願いにミカの小さな笑い声が響き、『だよね』、とモーター音が一段階高く上がった。