2話「監視する者」
全体的に焦茶色を基調とした店内。
通りに面した大窓には常にレースのカーテンが降ろされていて、ビルに遮られ昼でもかすかでしかない自然光がさらに抑えられている。
そんな状況であって、本来の暗い茶色はむしろ影のように黒っぽく。そこに差すべっ甲色のペンダントライトの夕日さながらの光が、家具や調度品の表面に艶を引き、店内で黄昏の流れ星が如く輝いている。
優しく空気を揺らす弦楽のBGM、カウンターで気泡の爆ぜる湯の沸く音、シーリングファンが生み出すかすかな風。
演出ともいうべき効果たちが相まって、ここは石柱の街にあって物置通りに例外なく、時が止まって感じられる。
喫茶ベネチア。
今となってはほとんどが水に沈み、もう人は住むことができなくなってしまったその街の名を店主が付けたのは、これから遺跡となるかの場所に思いを馳せたからだという。
午前八時十分。
店はその一時間十分前から開店しているが、いつものようにペロとコロ以外に客の姿はない。
「ここのこの具合いを知っていての指定なんだろうな」
窓際のボックス席。
カップに指を引っ掛けたまま、ペロが言った。
「思った以上に筒抜けだったってことかもしれない。たぶん、はじめに連絡した時から?」
「まあ、警戒もしていなかったし。予想外といえばそうだけど……あのタイミングに連絡か。なんにせよ、今から来るヤツがキモチワルイってのは確定だな」
ふん、とペロが鼻を鳴らす。
「あのタイミングって?」
コロが首をかしげる。
「俺がメッセージを送信してからの返信が早すぎる、ってことだよ。しかも、俺たちがなにをしているのか監視していたうえでだ。俺たちの反応を待ってた、って感じがする」
それがキモチワルイ。
再びそう付け加えて、ペロはコーヒーを啜った。
「それってつまり、わたしたちがメッセージを送ってくるのがわかっていたってこと?」
コロが質問すると、ペロはカップを口につけたまま、「ただ監視してたってだけじゃない気がする」とまたカップを傾けた。
――チリリン
唐突に響いたか細い鈴の音に、自ずとペロとコロの視線が店の入口へ向く。
店に入ってきたのは、一人の男だ。
男は、見た目には三、四十代の姿。濃紺のスーツ、白色のシャツに淡い青色のネクタイ、茶色の革靴、靴と同色のハンドバッグ、といかにもビジネスマンのような姿をしている。
男は、そのまま入口正面のカウンターへと進む。
そんな男の行動を確認してすぐ、ペロとコロの視線は互いの正面に向き直った。
ペロがハンディデバイスの時間を確認すると、二人が入店してからまだ三分しか経っていない。
「ふぅ」
溜めた息を鼻からもらし、ゆっくりとした動作でペロはコーヒーを啜る。
「早く来すぎたね」
「まったくな」
「朝ごはんでも食べようかな」
コロがそう言ってカウンターを振り向いてすぐ、「おっ」と声をもらして固まった。
彼女の視線のすぐ前に、今入ってきた男が立っている。
「私、フラッシュと申します」
第一声、フラッシュと名乗った男は、そう言って仰々しく深々と頭を下げると、
「失礼」
と徐ろにコロの隣に腰を下ろす。
強引な男の態度で、押し込まれるようにコロはボックス席の奥へと腰をずらした。
「四六時中、監視してるのか? あんたは誰だ」
今までと変わらない姿勢のまま、ペロが男を睨めつける。
「私は、フラッシュですよ。それと、ターゲットから目を離さないのは基本ですから」
フラッシュは、ペロから送られる視線を気に留めるようすもなく、
「そんなことよりも」
若干座り直し、背筋を正す。
「山台工業の真実、あなたたちはそれを知りたいのでは?」
「……まあ、そうだよ。例のビークルがその秘密兵器だっていうんなら、そこんところを知りたい」
「そうですか」
フラッシュは納得したように頷いて、真っ直ぐにペロの目を見返した。
「山台工業――いえ、狩役乃永は、万物を破壊可能な兵器の開発を目論んでいます」
「それが秘密兵器? ビークルじゃなく?」
「山台工業が秘密に開発している兵器がある、という言い方のほうが正しいですが」
やっぱりあるのか。
ぽつりとこぼしたペロに、「何か思うところがあるようですね」とフラッシュが声をかける。
「噂がただの噂じゃない……こんなの、偶然とは思えない」
応えてすぐに、はっ、とペロは息を飲む。
その我に返ったような表情を、変化に乏しい顔で見つめるフラッシュ。
「現に偶然は起こり得ない。それも当然です。我々は常に選択肢をもって、その内の一つを選ばざるを得ないのですから。
だからあなたの思う偶然は、知性が得られる範囲での未必でしかないのでしょう」
そう言って、フラッシュは糸くずでも吹き飛ばすかのように息を吐いた。
「しかし、そんなことはどうでもいい。どうせ、辿り着くところまで行くのです」
付け加えられた言葉。男の口が淀みなく動くのを見つめていたペロの眉間に、ぐっとシワが寄る。
「あんた……」
より厳しい目で見つめるペロに、フラッシュは「だから、どうでもいいのですよ」とかぶりを振った。
◆
以前、男は山台工業に務めていた。
何を変わったことをしたでもなく、ごく一般的な上昇志向から転職したに過ぎない。
報酬について不満はなかったし、権力に興味はなかった。
それでも脳裏に転職が過ったは、会社で働く、という感覚が強くなったせいだった。しがらみとまではいわないが、とにかくそこから抜け出し、もっと自由に面白いことをしようと思ったのだ。
とはいえ、転職など考えたこともなく、会社の方針で技術者の名前が社外に出るようなこともほぼなく、ツテもなかった。
『山台工業』という名前は、これまで一度も見ることのなかった求人情報サイトに羅列された会社の中、いくつかある知った社名の内の一つだった。
よく考えてみれば前職のライバル企業だったのかもしれない。一途に技術者として向上心だけを抱いていた男は、気にもしていなかった。
だから、この時初めて山台工業の抱く企業理念を知った。
『我々は、起こし得ることを一つでも多く人の手で生み出す。人の偉大さは、万物を操る可能性を秘めていることだ。奇跡すら、自由自在に起こしてみたいのだ』
男は、ほとんど衝動的に山台工業の中途採用に応募していた。
不思議と不採用にされる気がしていなかったのは、当時それだけ自分の腕に自信があったからだろうと、今にして思う。
衝動的だったから、務めていた会社を辞めるのはこれからだ、と伝えたのは山台工業から採用の連絡が来てからだった。
だから当然というべきか、山台工業がどういった職種で応募しているかもわかっていなかったため、その時人事から『当社の核となる部署に行ってもらいたい』と伝えられた時に、初めて募集がマシンデザイナーだったことを知った。
そうして山台工業に務めることになると、配属当初から、『思いつくままにしてもらって構わない。研究に必要なものがあればできる限り揃えるつもりだ。費用のことは一切気にしなくていい』と言われていた。
思いつきで飛び込んだはずが、思いがけない待遇だった。初めこそ戸惑ったものだが、会社から仕事として与えられるものが一つもなかったことや、与えられた居室から望む光景があまりにも素晴らしく、あっという間に戸惑いなど消え去った。
鍵が用意されていない居室。
どの端末にでも自在にアクセスでき、同じ部署で働く同僚たちの研究内容は全て閲覧できること。
彼らとは互いの部屋を行き来し躊躇なく情報交換がされ、そういう明け透けな環境に誰も疑問すら抱いていないこと。
まるで、学生時代に戻ったかのような気分を感じられた。
だから、旧財閥系企業を辞めたのは、秘密の多いビジネスというものに疲弊し、まるでそれがストレスだったかのように、男の記憶は上書きされていた。
だが、かすかに残った一般的な社会人としての感覚が、この状況が異常だと伝えてもいた。
すると、男の違和感のような戸惑いを察したのか、すぐ隣の部屋の主だった技術者が教えてくれた。
『そもそも秘匿、隠蔽が技術開発にとって重要だと考えることが、実はおかしいんじゃないかと思う。
どんな天才でも自分以外からインスピレーションを受けて発明がされている事実がある。
それを独占欲から隠したとして、そんなものは自己の探求心や成長というものを捨てた結果の欲望でしかない。
本来、発明を志す者は、宇宙と張り合うことを生きがいとする。膨張し、発見される、そういう究極の欲望。発明者は、決して満たされないその呪いを受け入れて楽しむのだ』
男にとって彼の言葉は、目が覚めるような衝撃だった。
ビジネスというものの性質を、技術者である自分自身が気にしていたことを実感させられた言葉だった。
それからというもの、同じ部署で働く仲間たちと切磋琢磨し、さらに男は己を磨いていった。
当時は、無垢に働いていた甘美な時間だった。今思い出しても、これ以上ないほどに。
だが、そんな人生で最も充実していた時間が、とある目論見によって作り出されていたのだと知った。
巧みに自由を錯覚させていたかの社内でも秘密にされていた部署――"0+1(ゼロワン)ラボ"は、とある明確な目的を持っていたのだ。
ゼロワンラボで生み出された技術は、実はそこを監督していた一人の人物によって選別されている。と教えてくれたのも彼だった。
その人物は技術者として紛れ込み、技術者として助力するようにして、男たちに自由を錯覚させ実は導いていたのだ、と。
狩役乃永。
山台工業最高責任者の座についた今でも、アレは本心を明かしてはいない。
当時、狩役が求めていたのは、ニュークリアやレーザーという強力なエネルギーを自在に操るのに必要な"器"の技術だった。
強力さは、歴史上巨大に始まり、技術が研磨され徐々に小型化されてきた。
しかしそれは、大量生産を目的とした小型化であって、無尽蔵に生み出すという点でいえば、大きな欠陥が無視されている。
欠陥とは、組み込むこと、の必要性だ。
いかに巧みな技術で力の収縮技術が開発されても、そこには組み込まれるパーツが必要で、組み込むための技術も別途必要とされる。
そこに注がれる技術再現のための疲労、生じるミス。それらはリスクでしかない。
重要であるにも関わらず、工夫が足りていない過程だ。
その、リスク、である部分を皆無にするものとして、狩役は"入れ物"に目をつけた。
人体が生命維持のために必要なものを生み出すように、その入れ物自身が持続的に必要な力を生み出せすことができれば、生産的なリスクは無くなる。そんな理屈だった。
もし、アレが独裁主義者だと気づいていたら、決して技術開発などしなかった。
だが実際は、興味、探求に弱い我々の性質を熟知していた狩役によって、男を含め仲間たちももれなく誘導されていた。
誘導されていた、と信じた時にはもう遅かった――。
New-Chrome、Growing-Gold、Meta-mitcontorion。
これらは、男たちが生み出したものの中でも特別なものだ。
この三種の粋を軸に作り出されたのが、"機体Ωシリーズ"だ。
それが最早世界各国で普及してしまった超高性能介護ロボットなのは言うまでもない。
『メンテナンス不要』の文言のその意味を各国技術者が理解した時には、もう手遅れだった。
機体Ωが自国に配置されること。それは、『膨大なエネルギーを生み出し続ける破壊困難な、殺戮兵器転用可能な機械』が、いち企業に手綱を握られたまま自分たちの土地を跋扈することになる。という意味なのにだ。
結局、いつ暴走するとも知れない危険な存在の侵入を許してしまった各国は危険と知りつつも、機体Ωの返却も破壊もできなくなった。
山台工業が人類を想うふうに浮かべる笑みを、戦々恐々と監視し続けることしかできなくなってしまったのだ。
長年囁かれ続けながらも世界規模で争いが生じないのは、機体Ωを招き入れた各国が、何を考えているのかわからない山台工業の動向を気にするあまり余裕を失くした結果だ。
これを機体Ωの功績と呼んでいいものかはわからない。
ただ、各国一部の少数派によって一時期、山台工業製品の不買運動が行われていたのも事実。
山台工業が善意の企業と感じるか、それとも、不買運動を促した当時のローカルメディアが裏で吉國から巨額の支援を受けていた事実に疑問を抱くか。
山台工業は調べれば調べるほどに明らかに怪しい。だが、なんにせよ弱さを知った世界は機体Ωを受け入れる外なかったのだ。
大昔に起きた感染症パンデミック。
当時はそれもまた某国の策略である、ワクチン利権のためだなどと実しやかに噂されたものだが、恐れるべきは人の利や謀略ではなかった。
そして、現代と結びつくその仮説を唱えた友人は唐突に死んだ――。
◆
唐突に始まった語りを止め、フラッシュはふいに沈黙した。
すると、それを見計らったかのように、カチャカチャ、とソーサーの上でカップが踊る音が響く。
三人の視線が音のする方へ向くと、今カウンターの奥から出てきたばかりの店主が、一客のカップとサンドイッチを乗せたトレーを抱えて持ってくるところだ。
「ありがとうございます」
テーブルの端に置かれた薄く湯気が立つカップと、サンドイッチの皿を見て、フラッシュが店主に会釈する。
「でも、サンドイッチは……」
と、フラッシュが話す最中、ふいに脇から伸びた腕がそれをさらう。
「ありがとう、マスター」
コロの微笑みに店主は会釈で応え、またカウンターの奥へ去って行った。
ひとつ咳払いをし、フラッシュはまたペロを向き直る。
「とにかく、山台工業は危険ということです」
「はいそうですか、って。今の話を鵜呑みにできるほど無知じゃないよ」
ペロは短く嘆息し、頭を振った。
「秘密の部署で秘密の研究を行っていた、なんて。いくら根拠を口で語られても、信じらるわけないだろ。それに、会社の陰謀かなにかに感づいた友人が死んだ、とか。ますますだね」
それと。
「機体Ωの発売はだいたい二十年くらい前。感染症パンデミックはもう、百年も前のことだろ。機体Ωが原因だっていうのは無理があるだろ」
はは、と乾いた笑いをこぼすペロ。
「そうでしょうか。これはあくまで計算できる範囲でのことです。
当時の感染症パンデミック、そこに治療薬が開発されるのは必然でしょう。そしてウィルスが生物であれば、不能にすればいい、と解決方法は決まっていたといえる。
つまり災厄に対する解決の準備は、科学という形でもって常に整っていた、ともいえます」
ですが、とフラッシュは言葉を切る。
「そんなことはどうでもいい。準備ができていた以上、何が起こったとしても確実に解決されたはずですから。それが偶然であっても必然であっても関係はない」
「……なにを言いたい?」
「人が感染したウィルス、付加を得てそれに対抗しようとする細胞。生じるのが、単純な回復だけではない、と発想するのは難しくないでしょう」
ペロに向いているフラッシュの視線が、覗き込むような印象に変わった。
「後遺症です」
「後遺症……」
「人々は、感染症からの回復やワクチン、治療薬、経済活動、果ては生活そのもの……と、大なり小なり影響を受けました。その結果は、事実としての後遺症を煩わせ、実質の後遺症として社会全体に残った。だから、人と社会は実は機動力を奪われていた、今までできたことができなくなっていました。
そもそも進化の極点にいると考えられた人類です。それは、退化と呼べることでした。
そこをきっかけとして、加速度的に普及したことがあります。
人類は、猿人や新人と呼ばれていた頃から、強大なものへ対抗するために己ではなく、道具などのような、いわば他力に頼ってきました。
だからこの時も、人類は反射的に他力をあてにしたというわけです。同類ではなく、自らの知性で生み出した退化しない別の存在――」
フラッシュに目で促され、ペロは神妙に口を開く。
「ロボット……か」
いかにも、とフラッシュが頷いた。
「つまり、かのパンデミックは、人類が極点にいることを自覚し、相も変わらず知性で進歩しようと動き出す新たなきっかけだったとも考えられます。
そして、かのパンデミックが起こらなかったとしても、利便性を理由に、確実に、人類は同類ではない別の存在を生み出したことでしょう。
だから、わかりますか? 人類が幾何学を理解できる以上、今ここにあるこの時代は来るべくして来た場所に過ぎないのです」
一息つき、フラッシュはカップを傾けて喉を湿らす。
上下する喉仏をじっと見つめるペロが、ぴく、と眉を反応させた。
「友人は言いました。『人類は、人類にはない進化を起こす別の体を必要とするに違いない。いい加減世界は自覚するはずだ、現状の人類の進歩は常に肉体的な退化と隣合わせだ』と。
そのきっかけとなるのが、かのパンデミックから生じる後遺症だと、そう話したのです」
またひとつ息を漏らしたフラッシュに、「ちょっと待て」とペロが手をかざす。
「あんた今、幾何学、って言ったか?」
「ええ」
「火……科学じゃなくてか? なぜ幾何学なんだ」
「半端な知性では決して理解できないからですよ。ある程度賢いとされる猿や犬や鳥のような生物であっても、物の使い方――結果の想像、とでもいいましょうか。それができても、形そのものに意味を見出すことはできていません。
つまり、幾何学なのです。人類が進歩したきっかけは、おそらく」
フラッシュの話を聞くなりペロは前のめりになり、目口を見開き、驚愕を露わにする。
「だれから、それを聞いた?」
突如彼が口にした言葉に、フラッシュは大きく首を傾げた。
「だれ、というのはどういうことでしょう。これは、私が辿り着いた一つの結論です」
「自分で、考えたのか……? 考えついた?」
「ええ、まあ。とはいっても、私個人的な確信です。それが、どうかしたのですか?」
「いや……」
明らかに言葉を濁し、ペロは前のめりになった体を背もたれに戻す。
「……で、だとしても。あんたの友人ってのが、今のことをある程度予想できていたとしても。死んだってことの意味がわからない。狩役に目論見があることにせよ、単に未来の想像が具体的だったにせよ。それが暗殺されたってことは、あんたの友人はなにかしたのか?」
ペロが言うと、フラッシュは小首を傾げた。
「はて、私は友人が暗殺された、などと言いましたか?」
「そういう口ぶりだっただろ。でも……違うのか?」
「いえ、あなたの推察は正しい。私もそう考えていますが、しかし真実かどうかは今もわかっていません。なにせその調査中、私は死にましたから」
「はあ?」
唖然と声を吐き出し、ペロは前のめりになる既まで背もたれから体を離した。
長いため息。気が抜けたように、すぐにまたペロの体は背もたれに引き返す。
「そもそも、さ。今聞いた話が全部、辻褄というか時系列的におかしいんだよ。見たところ四十代……。見た目でいえばあんたは、六十年前のサイトを更新したにしては若い。不自然なんだよ。まさか、生まれ変わりだなんていうなよ……」
あんた、いったい何者だ。
三度身体を起こし、ペロは最初の質問を改めて口にした。