1話「赤いカード」
三角屋根と風雨の汚れを隠さないビルがデコボコに並ぶ街の頭上、雲ひとつなく晴れた空を見上げ、コロは一つため息をついた。
「ねえ、ペロ。空が水色って言ったのは、だれ?」
太陽光で触れていられないほど熱されたステンレス製の柵越し、コロの目下にはコンクリートの壁に挟まれて、ざらざらと音を立てて河が流れる。
その水の色は深い緑色に濁っていて、空の色とはかけ離れている。
「知らんけど。たぶん、水より空の方を後に見つけたヤツだね」
「ふーん。じゃあ、昔は近かったってこと?」
「……なにが?」
たい焼きを片手にコロを見つめていたペロの表情に、ふと怪訝なものが浮かぶ。
「だから、水の色」
コロは柵に体を預け、腕を伸ばす。
下方五メートルを流れる河を撫でるように手を揺らし、
「下と上で全然違う。河の水は緑色に見えるから」
「あー、そういうことか」
ペロは、こくこく、と首を上下に揺らし、たい焼きに頭から齧りつく。
「だとしたら、空色って言葉もあるじゃん。そいつは空の方を先に見つけたヤツだよ。だから、見たヤツの好きに決めていい色、ってことだろ? 水の色も空の色も」
もぐもぐ。
ペロの咀嚼分、間を置いて、「はあ」と感嘆するような声を漏らしてコロが背後を振り返る。
「つまり、どーでもいい、ってこと?」
たい焼きの二口目を齧りながら、ペロは深く頷いた。
「それが、どーでもいい、なんだ……」
ポツリと呟き、コロはまた空に視線を向ける。
視線の先には、階段に腰を駆けたペロとその背後に大きなビル群がそびえ立つ。
皆平らで、一様に黒い窓ガラスを身に纏ったビルたち。どれもこれも似通った姿のそれらは、高さと看板、それから屋上の彩りが、さながら自己表現かのように違っている――。
コロとペロ。二人がいるここは、花菓子町と呼ばれている。
昔、大地震により水に埋もれ抉れた土地に新たにされたその名は、夜に灯の花が咲き乱れ、色とりどりの贈り物が飛び交っていた当時の町柄から付けられた。
もともとの名を使用する案もあったが、亡くなった二十万の人々への手向けと、今を素晴らしい未来へを変えていくという意志の働きによって上書きされることとなった。
地震の影響で生まれた巨大な溝は、復興のための動脈たる運河として変えられ。河の周辺の崩壊した町にはその心臓部たる倉庫街としての使命が据えられ、当時は当時として活気づいていた。
しかし、それも今や昔。
地震から数十年の時を経て復興が進み、倉庫街も少しずつ意味を失っていった結果、数多くの倉庫たちは潰されて高層建築物に建て替えられている。
その変容の波は、復興のために働く人々を労っていたそばの風俗街にも及び。運河を隔てて片側は、古い時代、過去の一切を感じさせないコンクリートと鉄とガラスで出来た巨大な柱が立ち並ぶ人の庭へと姿を変えた。
そこは今、最先端的な人々が集まる『若者が働いてみたい街ランキング一位』へと、まさしく歴史の変貌を象徴する場所となっている――。
「ほい」
ペロは、ぼんやりと空を見上げる遠い位置のコロに、残ったたい焼きが入ったフードバッグを差し出す。
そこに徐に近づいたコロはビニールを受け取ると、「なにを買ったの?」と中身を覗き込む。
「お好み焼き」
「たい焼きじゃなかった?」
「だから、たい焼きのお好み焼き味」
「たい焼きの、お好み焼き? それってどっち?」
「たい焼きだよ」
「でも、お好み焼きだって言った」
妙に食い下がったコロの発言にペロは片眉を釣り上げる。
「まあ、それがどーでもいいってことでもある」
「食べたヤツが考えればいいってこと?」
「そういうこと」
うまいから食ってみろよ、ペロが言うと。
スンスン、と立ち上る香りに鼻を鳴らし、コロは紙袋に包まれたたい焼きを頭だけ出して齧る。
瞬間、コロの目は見開かれ、
「んーーっ」
その瞳には日の光とは違う輝きが満ちてキラキラと輝く。
「うまいだろ?」
ペロがしたり顔で訊くと、コロは両手にたい焼きを抱いたまま忙しなく首を縦に振った。
そうして、二口、三口と嬉しそうにたい焼きを頬張るコロを、ペロはぼんやり見つめていたが、すぐに手持ち無沙汰になって手を伸ばす。
と、その手が近づくなり、コロがくるりと体を背けた。
「おい、なんでそっち行くんだよ」
しかし、コロは何も答えない。
もぐもぐ。
「いやいや、お前の分を取ったりしないって。もう一個入ってるだろ?」
ペロがコロの手にぶら下がるフードバッグを指差す。
「…………」
「コロ?」
「これは、違う……」
「違う、ってなにが?」
「これは……」
コロは言うなりさらに体を捻り、スタスタとどこかへ足を進め始める。
「え……、え?」
ペロが立ち上がると、コロの歩く速度がわずかに増す。
「おい、コロ」
負けじと大股で近づき、ペロが腕を伸ばした途端、ついにコロは駆け出した。
「ちょっと、待て! 逃げんな!」
ペロは慌てて後を追うが、コロの足は速い。
あっという間に開く差に、ペロの目つきが変わる。
「そっちがその気なら――っ」
急加速するペロ。
ぐん、と縮むコロとの距離。背後から急に近づく気配を察したコロが一瞬振り返り、そしてまた加速する。
追ってまたペロも加速。
人気のない河川沿いの広場には、二人の足音がやけに喧しく響いていた。
そんな二人の行く先には、花菓子町と隣町とを結ぶ橋が見える。
それは、少し窪んだ位置にある広場からは二、三メートルほど高いところにあり、そのため広場に架かる橋の下はトンネルになっている。
一直線に進むなら、当然そこをくぐることになるわけだが、目前に迫るトンネルを前にコロの足がわずかに緩む。
それは、跳躍する前兆。走って溜めた力を膝のバネに転換される瞬間だ。
しかしペロは、足を緩めない。
その行為にペロの思惑が感じられるが、前方を行くコロにはそれがわかるはずもない。
後を追う者としての優位を最大限利用し、コロの膝が速度を吸収し始めた一瞬早くペロが跳躍する。
「って、あれ?」
だが、飛び上がったのはペロだけだった。
空中に残されたペロの目下のコロはというと、まるで何事もなかったかのように歩いている。
走る勢いだけでなく、逃げる気すら失ったかのように見える彼女の振る舞い。
ペロは小首を傾げたまま、橋桁に激突する。
その鈍い物音は、コロの耳に届いていた。
しかし今はそれどころではなく、もっと気になるものがそこにあった。
薄暗いトンネルの中、白い照明に照らされる異様なものは、灰色のトンネルには不似合いな青色にも関わらず、さも当然のようにそこに佇んでいる。
中の何かを箱型に覆うブルーシートの塊は、道幅の三分の一ほどを占めていて歩くのに邪魔であり、通行のために存在するわけでないことはひと目に明らかだ。
「なんだろう……」
コロの釘付けになった視線は、偏にその中身が気になっていることを示している。
目立つような場所にあって目立たないようにしている感じ、その割隠れる気もない不思議な包み。
湧き上がる好奇心からか、どこか浮足立った様子でコロがそこへ近づくと。
チチチチ。音がした。
音は、陰になっている向こうから聴こえた。
一筋、ブルーシートに見つけた裂け目に伸ばした手をコロは引っ込め、奥の陰を覗き込む。すると。
「ん?」
コロは、そこでしゃがみ込むもじゃもじゃでボロボロな男と目が合った。
「なんか用か、ネエちゃん」
だが、男はすぐに目線を足の間でチリチリと鳴るヤカンに落とす。
「なにをしているの?」
「なにって……お湯沸かしてんだよ。見ればわかるだろ」
「お湯を?」
と、コロは辺りを見回す。
「アンプがないけど」
「あ? そりゃそうだ、道端にそんなもんあるかよ。見ればわかるだろ」
「じゃあ、どうやってお湯を沸かすの?」
「あーん?」
多少苛立ったように唸ると、男はまたコロに顔を向けた。
「なんだ、あんた。喧嘩売ってんのか? こんな家もねえようなヤツがお湯なんか沸かせるわけねえってか?」
「違うよ、おじさん。お湯は、アンプで電力を増幅して沸かすの。だから、そう。家っていうよりも、コンロとかポットとかのデバイスも必要だよ?」
コロが小首を傾げると、男も反対に小首を傾げる。
「あんた、なにを言ってんだ? さっきから」
「お湯の沸かし方だけど」
「いや、そうじゃなくてよ……」
続けて何か言いかけたものの、男は口を半分だけ開くに止め、代わりに「あー、なるほどな」と納得したように首を前後に揺らす。
「これだろ」
言って男は、ヤカンをよけてみせた。
そこに残されているのは、上向きの四本の爪が花びらのように広がった小さな壺がある。その雄しべがある位置からは、青い炎が溢れて揺れている。
「ネエちゃん、これ見たことねえんだろ」
「……うん、ない」
「だと思ったぜ」
男は得意げに鼻を鳴らす。
「これはな、ガスバーナーってんだよ。知ってるか? ガスだよ、ガス。な?」
「ガス……」
「やっぱり知らねえか。まあ、無理もねえわな。俺がガキの頃は教科書に載ってたんだがよ。最近は電源だコンセントだってもいわねえんだろ?」
「それは、わからないけど。そうなの?」
「あん?」
男は不思議そうに首を傾げ、徐にガスバーナーの上にまたヤカンを乗せた。再びヤカンが、チリチリ、と鳴り出す。
「で、なにか用か?」
「別に用はないけど」
くるりと身を翻し、コロが当初の目的を達成しようとブルーシートの裂け目を捲ろうとすると。
「おいおいっ」
男の慌てたような声がトンネルに響く。
「人んちになにする気だよ」
「人んち? ここ、おじさんの家なの?」
見りゃわかるだろ、と男が頷く。
「でも、おじさんは家がないって言ってたよ?」
「そりゃ、ねえさ。見りゃわかるだろ」
「じゃあ、ここはおじさんの家じゃないよ」
一応、といった感じで男に注意をし、コロがブルーシートの隙間に腕を突っ込むと、また「おいおい!」とほとんど荒らげるように男が声を上げた。
「なに? うるさいなあ」
不満げに唸るコロ。
「うるせえじゃねえ! そこは俺んちだって言ってんだろっ。勝手に入るなっ」
「なんで?」
「なんで、って……」
男が言う間に、コロはそこに頭を突っ込んだ。
背後で、「あー!」と男がまた声を上げた。
コロが覗き込んだそこには、地面に敷き詰められたダンボールとエアマットレス、小さな引き出し棚が一つと、それからビデオレシーバー、と小さな部屋が出来ている。
一見すれば期待できるような価値のあるものはないように思えるが、こんな部屋でも一箇所だけわずかな望みを賭けられる場所があった。
コロは、室内に体を潜り込ませ、一番奥にある引き出し棚へと手を伸ばすが。
ふいに両足を掴まれ、思い切り引き倒される。
「ふぐっ」
不意の攻撃に思い切り腹を床に叩きつけられ、コロの口から間抜けな声が漏れた。
そのまま、ズル、ズル、と部屋の外に引きずり出されるコロ。
「あんた……ハア、ハア。いい度胸してるじゃねえか……ハア、ハア、ハア……」
うつ伏せのコロに、男が声をかける。そこについ先ほどまでの怒りは感じられず、荒い呼吸が苦しげだ。
「もう、帰れ」
コロの両足から手を離し、男はまた陰に戻る。
その足音に耳を澄ませていたコロは、男が遠ざかり初めた瞬間にまた部屋の中へと潜り込もうとするも、「こら!」、と男の怒号と共にまた外へ引きずり出されるのだった。
「いい加減に……ハア、してくれ……」
ちょっと痩せろよ。
両膝に手をつき、もはや息も絶え絶えといった様子の男。
コロはようやく部屋への侵入を諦め、立ち上がって男を振り返る。
「あの引き出しになにが入ってるの?」
「そんなの、あんたに関係ないだろ」
「もしかして、宝物だったり?」
コロが訊くと、男が「はあ」と大げさにため息をつく。
「俺みたいな家なし……いや、石の家に住んでねえ人間が、お宝なんて大層なもん持ってるわけねえよ。あそこにはな、若い頃のもんを入れてんだよ。ネエちゃんが見たって面白くもねえさ」
「なーんだ、そうなんだ」
「ああ、そうだよ」
疲れたように言って、男は今一度「もう、帰んな」とコロを促した。
こくり、とコロがひとつ頷き返して来た方へ向き直すと、日差しの向こうの壁に張り付くようにしてペロが顔を覗かせていた。
「コロー、お前えー」
髪を乱し恨めしそうな目つきで抗議するペロに、コロは「大丈夫?」と口元を歪ませる。
痛いよ。と、ペロが頭の脇を撫でた。
コロはすぐにその患部と思しき側頭部に手を伸ばしかけたが、ガサ、と自分の手首で揺れたフードバッグを見て動きを止めた。
「そうだ」
そして三度くるりと向きを変え、佇む男に近づく。
「これ、あげる」
コロは、そう言ってフードバッグを差し出した。
「なんだよ、急に」
「お礼、かな。部屋を見せてもらったから」
「見せてもらっただあ? 勝手に入ったんだろ」
「ハハハ」
気のない笑い声を上げるコロ。
男は、フン、と鼻を鳴らしてコロの手からフードバッグを受け取る。
すると、
「ちょっと待ってろ」
と、身をかがめて部屋へ入っていく。
「あ、もしかして……」
男の行動にコロが付け加える、「いいよ、ただのお礼だから」。
コロが声をかけると、中から「そうはいくか」と男の声がした。
「タダは怖くねえが、借りは怖えもんだ」
そう言って再び部屋から顔を覗かせた男は、ほらよ、と手に持っているものをコロに差し出した。
「なに……、これ?」
コロが受け取ったのは、一枚の赤い板切れだった。
大きさは一般的なトランプと変わらない。それは、厚みもまた然り。
だが、それの放つ赤色は少なくとも尋常ではなかった。
その赤色は、右から左、左から右へ、手の動きに合わせてさざ波のように変化し、またところどころで星の瞬きのように強く発色する。
白みがかった赤色から、真紅、先の黒に匹敵するほどの濃い赤色へ、見る角度によってグラデーションの中にもグラデーションが生じ、それはありとあらゆる赤色を魅せてくれる。
あまりの美しさに、コロはカードに釘付けになって目が離せなくなっていた。
口から溢れる吐息は艶かしく、今にもその薄っぺらなカードに吸い込まれてしまいそうなほど、うっとりと表情を緩ませている。
だがふと、コロは赤色のうねりの中に奇妙な物を見つけた。
それは、この魅惑的な赤色の中にあって、その全てに無関心に浮かび上がっている傷のようなものだ。
「レッドヘアーズ?」
『REDHAIRS』。
カードのわずかな厚みの内側に、アルファベットでそう刻まれている。
「今朝、河を浚ってたら見つけたもんだ。どっかの高級店の会員証かなんかだろうし。いらねえからやるよ」
男の発言に、コロは思わず顔を上げた。
「えっ、いらないの?」
「いらねえよ。俺には必要ねえ」
「ありがとうっ」
満面の笑みを浮かべて一礼し、コロはカードを胸に抱いて小躍りしながらペロの元へ駆ける。
その背中を、男はじっと見送っていた。