第一話
「クラリス・シエル・アクチュエル!
花とレースの国、ジャルダンが王子、アンドレ・クレル・ジャルダンは、そなたとの婚約をここに破棄する!」
レースをふんだんに使ったドレスシャツに細目に仕立てた胴衣、光沢のある真紅のサーコートを身につけたアンドレ王子はいかにも目に優しくはなかった。ジャルダンの第二王子アンドレは、美しいものを尊ぶこのジャルダンにおいても一際「美」に対するこだわりが強く、こだわりが過ぎて時にルールを逸脱してしまうことがある。
彼のこだわりは、思い込みと同義でもある。
そんな彼の「美」へのこだわりを体現しているのか、彼の右腕には金髪桃目の小柄な少女がしがみついていた。金髪を結い上げもせず背に流し、フリルをこれでもかと盛りに盛ったピンクのドレスを身に纏っている。
今宵は、花とレースの国ジャルダンの建国記念式典の前夜祭。
きらびやかな王宮のホールには、その名に相応しく色とりどりの花が飾られ、ジャルダンの紳士淑女達が集っている。ジャルダンの今年の流行は、体のラインを美しく見せるタイトなシルエットのドレス。頸、襟元、デコルテ、袖口などにレースを上品にあしらうおしゃれが流行っている。
前夜祭の開始まではまだしばらく時間があるため、男爵や子爵といった下級貴族は上級貴族や王族の入場前にホールに集い、夜会の開始を待っていた。
ジャルダンの第二王子アンドレが中央扉を自ら開け、足音高く入って来たのは、そんな時だった。
金髪桃目の少女を腕に絡みつかせたまま、未だ座るものが不在の王座の前までやって来ると、ホールを見渡し大声で叫んだのである。
ホールがざわめく。
その声は、専用の扉の前で入場のために待機していたクラリスの元にも届いてしまった。
クラリスは、銀のベールで目元を隠し、虹色の鱗が散りばめられた扇を開いてため息を隠した。
(人の名前を大声で叫ばないで頂きたいものですわね。
これ、出ていかなくてはいけないのかしら…)
クラリスは、主人至上主義の黒髪メイドとの会話を思い出していた。
「ねぇ、マヤ。
やっぱり欠席してはダメかしら?」
美しい銀の髪を丁寧に梳り、優雅に結い上げていた黒髪メイドに話しかけるのは、銀糸に北国の湖のような深緑の瞳を持つ佳人。
「姫様、これは順番です。
ジャルダンだけをとばす訳にはいきません。
…お分かりでしょ?」
マヤと呼ばれた黒髪メイドは、クラリスの項とこめかみに絶妙な後毛を落とし、真珠の髪飾りを添える。
「だって〜
ジャルダン、目が疲れるのよ。
キラキラしくて…
あ、なんだか、お腹も痛くなってきたわ…」
わざとらしく腹に手を当て、悲しげに眉を下げるクラリスに銀のベールを被せながらマヤは答える。美しい湖色の瞳がベールで隠される。
「もぉ!
お役目ですから、頑張って下さいませ!
建国祭が終わりましたら帰れますよ。
あ、道中、マルタのカフェに寄りましょう。
いかがですか?」
マヤの提案に気を取り直したクラリスは、虹色の鱗が散りばめられた扇を手に立ち上がった。
「それなら頑張れそうだわ。
マルタのサンドイッチを楽しみに乗り切るわ!」
「…どうしてこんなに食べ物にこだわる姫になってしまったんでしょう…
しっかり、ネコを被っておいて下さいませね。」
ため息をつきつつ、クラリスの立ち姿を隙なく確認していくマヤ。
「3匹くらい、被っておくわ!」
「そうして下さい。
マヤは、姫さまが入られる南扉に控えております。
ネコが逃げ出したら捕まえて差し上げますよ。」
にっこり笑って、主人を促す黒髪メイド。
「夜会は戦場です。
姫様、参りましょう。」
「聞こえないのか!
クラリス・シエル・アクチュエル!
出てこい!」
ホールの玉座の前で叫ぶ第二王子アンドレ。…と、そのおまけの金髪桃目女子。
ホールのざわめきが次第に大きくなってきた。
二度も大声で名を呼ばれ、クラリスは出ていかざるを得なくなってしまった。
そして、傍に控えている黒髪メイドの怒気が可視化できそうな勢いになってしまっている。
「…マヤ。
扉を開けて頂戴。」