後編
「……なんだ、この黒い物体は」
お父様が呟く。あたしは言った。
「おそらくパンであろうと存じます」
「では、あっちの黒い物体は?」
「お肉ではないでしょうか」
「その黒い塊はなんだ」
「……ニンジンか芋? えーとなんだったかしら……」
ひとつひとつ、丁寧に答えてあげたのに、お父様は癇癪を起こし、テーブルを叩いた。
「マリーはどこだ! 炭ばかり並べおって、私に復讐しているつもりか!」
復讐って何よ、普通の親なら「こんなに大失敗するなんて、熱でもあるのか?」と言うところじゃないの? そう思いながらも、あたしは黒いパンに黒いジャムを塗る。
「マリーは風邪で寝込んでしまいました。仕事ならわたくしが代わりますわ。食事も、作り直しましょうか」
「だめよアナスタジア! あなたにやらせるくらいなら、ママが働くわっ」
お母様が席を立つ。そう言うと思ったわ、どうぞ行ってらっしゃい。
厨房に駆け込む母親を、半眼で見送る。
――とりあえず、家のことはこれで良し。マリーがいなくなったことを、家族は誰も気付いていない。
マリーは今頃、『待ち合わせ場所』に到着した頃だろうか。
行ったところで、楽しいことにはならないだろうけどね。
あの手紙……すべての文章は見えなかったけど、どこかで待ち合わせようと、マリーを誘い出す内容だった。うきうきとやってきたマリーを見て、みんなで指さして笑うつもりなのよ。
投函していたあの少年達には、明らかな悪意があった。悪戯、イジワル……いや、イジメだわ。
可哀想なマリー。きっと酷く傷つくだろう。
そうすればきっと、弱音を吐くわ。学校になんか行きたくないって。勉強なら家でも出来る。もうあんな、ずたぼろにならなくったっていい――
あたしは黒いスープを啜った。
……それはそうとして、どうしてどの食べ物も、黒くて不味くなったのかしら?
◆◇◆◇◆◇◆
手紙にあった、水車小屋まで辿り着いたとき、辺りはもう真っ暗になっていた。
誰もいない。もしかして遅れてしまったかしら。いいや、家を出てからずっと走ってきたから、まだずいぶん早いくらいのはず。
わたしはずたぼろの服で汗を拭うと、小屋の戸にもたれかかり、息をついた。
ああ……どきどきする。
わたしはポケットから、あの手紙を取り出した。差出人が無いから、誰からのものか分からない。
隣の席のシエラかな。忘れ物の多い子で、何度か鉛筆を貸したことがある。後ろの席のミレイナかも。背中を突かれて、振り向くとナンデモナイと手を振られたことがある。まさか廊下側の席のケイン? 日直のわたしがプリントを集めて回ったとき、彼一人だけが手で持ち上げて渡してくれた。他の子は机に置いたままか、丸めて投げてきたのに、優しかった。
それとももしかして。いや、きっと――
手紙を胸に押し抱いて、わたしは夜空を見上げ、ほうと息を吐いた。
今日はなんて嬉しい日だろう。わたし……本当はずっと、お友達が欲しかったの。
◆◇◆◇◆◇◆
夕食を終え、風呂に入り、寝間着に着替える。
そんな時間になってもまだ、妹は帰ってこなかった。
……おかしい。いくらなんでも遅すぎる。イジワルをされて嫌なことを言われたら、すぐに泣いて駆け出したはずなのに。
イジメっ子たちだってまだ子供、そんなに夜遅くまで出歩けるわけがないわ。
……まさか……まだ待ち合わせ場所で、ひとりでいるなんてことは……ないわよね?
「……マリーのばか。友達なんてできるわけないのに」
あたしは髪をとかしながら、呟いた。
夜が更けて、家の灯りがすべて消えた。
「おやすみなさいアナスタジア。今夜も良い夢を……」
お母様はいつものとおり、あたしの髪を撫で、頬にキスをして、部屋を出ていく。あたしはベッドの中でぼんやりと、天井ばかりを見つめていた。
時々頭を動かして、開けっぱなしの窓を見る。シャデラン家の門はずいぶんと錆び付いて、開けばけたたましい音が鳴る。マリーが帰ってきたら、わかる、はず。
……だけど、いつまでたっても音がしない。あたしはとうとうベッドから起き出し、窓から顔を出した。
……視界全部、まっくろけ。村の灯りもほとんどなくなって、月と星だけがわずかに草木を照らしていた。
こんな闇の中を、たったひとりで、女の子が……?
マリーは夜まで働いていることがよくあった。こんな闇でも平気なんだろうか。あたしには無理。大体お母様が許さないわ。こんな夜中に出歩いたって知られたら、二度と部屋からも出してもらえないでしょうね。
そんなの嫌だ。闇は怖い。あたしには無理よ。マリーだって、本当は……。
あたしは呟いた。
「……ばかマリー」
直後、あたしの低い鼻先に、ぽつっと冷たい滴が落ちた。雨だ。
ぽつ、ぽつ、ぽつ――少しずつ、強くなっていく。
あたしは叫んだ。
「――もう! ばかな妹!」
クローゼットを開き、服を漁る。なるべく走りやすそうな靴を探し、水を弾きそうな外套を羽織って、あたしは部屋を飛び出した。
◇◆◇◆◇◆
ぽつぽつと降り始めた雨は、やがてざあざあと、大きな音を立てわたしの上に降り注いだ。
わたしは自分の腕を抱き、身体を縮めていた。
服の中にしまい込んだお手紙が、雨で濡れてしまわないようにして。
……遅いな。
今、何時だろう。少なくとも待ち合わせの六時はずいぶん前に過ぎたと思う。もしかしたら真夜中なんじゃないかな。
そう何度も思った。でももし、時計を確認しにこの場所を離れたら……その一瞬の間に、待ち合わせ相手が来てしまったら。
きっと悲しみ、そして怒って帰ってしまうわ。そうしたら二度とお友達になることはないだろう。
こんな夜遅くなって、雨が降っていたらなおさら、せっかく来たのにって思うよね。
わたしはここを離れるわけにはいかない。
それにしても遅い。今日は来られなくなったのかも知れない。
家を出る前に、用事を言いつけられたとか。途中で転んで怪我をしてしまったとか。
もしかして――わたし、場所を間違えた?
その可能性が頭をよぎり、わたしはハッとした。
もうびしょ濡れの服をまくって、手紙を取り出す。気をつけていたのに、封筒もかなり濡れてしまっていた。紙を破かないように、そうっと手紙を取り出す。
夜闇の中、どうにか文字を読み取ろうと四苦八苦。その時ちょうど雨雲が途切れ、かすかな月明かりが手元を照らした。
ぼんやり浮かぶ文字を、目を細めてやっと読み取る。
「クローバー畑の水車小屋……合ってるわ……」
ぼうっと見つめている間に、わたしの髪からボタボタと水がしたたり、手紙を派手に濡らしてしまった。慌てて封筒に戻そうとしたが、紙も指も水浸しなので上手く開かない。
そしてうっかり、破いてしまった。アッと思ったときにはもう、封筒の側面が抜けて、一枚の紙みたいになってしまう。せめて便箋を挟んで護ろうと、封筒を開き、挟もうとして……。
封筒の内側が見える。字が書かれていた。
『 ブス 』
「……あ……」
……それで……わたしは、やっと気が付いたの。
わたし、嫌われていたのね。
……そうか。……そうか。
ざあざあと雨は続いている。
びしょ濡れになってしまった、二枚の手紙。仲良くなりましょうという便箋と、ブスと書かれた封筒。どちらも捨てることも抱き留めることも出来なくて、わたしはその場に立ち尽くしていた。
……帰ろう。
夜の家事を放り出してきてしまったから、眠る前に、片付けないと。
明日の朝も早いわ。いつもの家事があるし、いつものように学校がある。
学校には……行かなくてはいけない。わたしが行きたいと言ったんだもの。高い学費がかかっているのだもの。
わたしは学校に行きたかった。お姉様と違い可愛くないわたしは、せめて教養だけでも身につけないと、何の役にも立てないのだから。
……家の役に立ちたかった。誰かに求められ、褒められたかった。
よくやったマリー、ありがとうマリー、両親にそう言われながら、頭を撫でられてみたかった。
そのために服を売って家事をして、毎日汚れても通ったの。ずたぼろになって走って行って、おはようと挨拶しても無視をされ、物を投げられ、鼻を摘まむ真似をされても、それでも。わたし。
わたし……。
「う……」
喉が震える。手の中で、『ブス』と書かれた手紙がクシャリと潰れた。
「う。う……っ。ぇ、あっ。あ――……」
ざあざあと雨は続いている。
◇◆◇◆◇◆
「――水車小屋って、どこよ!」
ぶら下げたランタンに向かって、あたしは叫んだ。
「シャデラン領は農村よ、水車なんて山ほどあるわっ! わかるわけないじゃないのっ!」
いちいち大きな声を出しながら、走る。体力的にはどう考えても非効率だけど、こちとら深窓の令嬢、自分で声を出しながらじゃなきゃ、夜道を一人で行くなんて出来ません。
「はあ。疲れた……眠い……足痛い……」
ダッシュと早歩きを交互に繰り返しながら、進む。
「はあ……はあ……ゲホッ。はあ、そんなに遠くはないはずだわ、きっとウチから学校までの間よね。とりあえず水路沿いに、学校まで行けば良いんでしょ。はうー。うー!」
そんなあたしの唸り声に、まさか共鳴したのだろうか……遠くから、ウウウと犬っぽい声がした。野犬……もしかして狼!? あたしは震え上がった。今すぐ踵を返し、屋敷に逃げ帰りそうになったけど、踏みとどまる。
やっぱり危ない。怖いわ、怖くて怖くてたまらない。
こんな所に……妹を一人、置いておけるものですか。
妹はまだ十二歳、あたしより背は高いけど、あたしよりも二つも幼い子供なの。
あたしがこんなに辛いんだから、マリーはもっと辛いはず。
マリーは妹で、あたしはお姉ちゃんだもの。
家を出てから、四つ目の水車小屋に到着した。ぐるっとあたりを回って確認する。マリーはいなかった。
「――次っ!」
あたしは再び駆け出した。
いつの間にか、雨はもう止んでいた。明るい月と星明かりのなか、あたしはマリーを探して走る。
◇◆◇◆◇◆
いつまでも、雨は降り続けている。月と星はもう明るいのに、大量の水がわたしの頬を伝い、顎に溜まって落ちていく。
もう水浸しになって、滲んで見えなくなった手紙の文字。だけどいつまでも手放せず、わたしはただ、それを濡らし続けていた。
「――ァ……ああ、あーっ……!」
涙が止まらなくて動けない。
もう夜も遅い。早く帰らなくちゃいけない――帰る? どこに。誰の元に?
シャデランの家に、わたしを待っているひとなんて誰もいない。
本当は分かっていた。どれだけ学校へ通っても、両親がわたしを褒めることはない。どれだけ勉強して家事をして、家の役に立つって認めてもらえたとしても、愛してはもらえないんだって。分かってた……全部分かってたの……。
天を仰いでただ泣き叫ぶ。
「あ――っ………………」
その時、誰かに呼ばれた。
「マリーっ!!」
わたしの泣き声よりもずっとずっと大きな声で、わたしの名を呼ぶ声がした。
アナスタジア・シャデラン男爵令嬢は、美しい。完璧な金髪と青い瞳、年よりも小柄で華奢な身体を、いつも煌びやかに着飾っている。
その姉が、目の前にいた。
「……お……お姉様?」
びっくりして、涙が止まる。
確かに、姉だった。けれどその姿は変わり果てたものだった。天使のように愛くるしい顔立ちは汗だくで、髪はボサボサでぺしゃんこ、服も濡れ鼠になって、足下は膝上まで泥だらけ。一度だけわたしの名を呼んだきり、姉はもう喋れないようだった。しゃがみ込み、俯いている。
「マ、はあはあはあはあ、マ、リ、ひ、はあはあはあはあはあぜえっぜ、ぜっゲホッ。ゲホゲホげほウエッ」
わたしは慌てて、自分の服を引き裂いた。なるべく綺麗な部分を使って、お姉様の顔を拭く。だけど姉は乱暴に、わたしの手を振り払った。
「お姉様、大丈夫ですか?」
「だいじょーぶじゃない、マリ……ッ、マリー、バカ。ほんとバカ。信じられないバカ……」
「ごっ、ごめんなさい?」
ぺこりと下げた頭を、姉に引っぱたかれた。
「帰るわよ」
それだけ言って、姉は背を向けた。
わたしは後ろについて、歩き出した。
二歳年上のアナスタジアは、わたしよりも背が低い。骨格から違うのだろう、どこもかしこも華奢で、後ろ姿はまるきり子供のよう。
ぺしゃんこになった髪に、泥だらけの服。足下は可笑しいくらいにふらついて、今にも真横に倒れそうだった。
それでも、姉は前を行く。
わずかな月と星明かりに、濡れた金髪をキラキラ煌めかせて――姉は、わたしの前を歩いて行く。
「ふー。はーはーはー……げほっ。オエッ」
時々咳き込み、えずきながら。
わたしは姉に駆け寄った。小さな背中に抱きつき、持ち上げる。姉の身体は羽のように軽く、わたしは簡単に彼女を背負うことが出来た。
姉はずいぶんぼんやりしていたのだろう、わたしに背負われ、数歩あるいてから、「んえっ!?」と素っ頓狂な悲鳴を上げた。
「マリー何してるの、下ろしなさいっ」
「わたしはずっと立ってただけだから平気」
「そういう問題じゃないっ! あなたは妹っ……」
「身体はわたしのほうが大きいわ」
姉の両足をしっかり捕まえて、わたしはのしのし、夜道を歩く。いつもの通学や、薪や水桶を運ぶよりも全然らくちん。お姉ちゃんは本当に軽いなあ。
「……ばかマリー」
姉は諦めたのだろう、わたしの肩に額を置いて、脱力した。
真っ暗闇の夜道を、ちいさなランタンとちいさな姉と一緒に、家へと帰る。
わたしは歩みを進めながら、背中の姉に語りかけた。
「――ありがとうございます、お姉様。
わたし、大丈夫です。家事も、勉強も続けます。……少しでも、お姉様に近づきたいから。
……イジワルされたって、大丈夫。わたしにはお姉ちゃんがいるもん……」
シャデラン家の門が見えてきた。錆び付いた鉄門を開くと、いつもけたたましい音が鳴る。
お父様達に気付かれないよう、そうっとそうっと開いたけど、やっぱり少し鳴ってしまった。
それでも起きない、熟睡している姉。
「いい加減、さびを落とさなくちゃいけませんね。油はまだあったかしら?」
答えられない姉に向けて、わたしは独り言を言いながら、シャデランの屋敷に帰ってきた。
お読み頂き、ありがとうございました。
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