前編
わたし宛ての、手紙を……受け取ってしまった。
学校から帰って、ポストを覗いたら、入っていた。
可愛らしいピンク色の封筒に、わたしの名前。
『マリーちゃんへ。あなたと仲良くなりたいです。夜六時の鐘が鳴るころ、クローバー畑の水車小屋まで来てください』
差出人の名前は無く、誰からの手紙かは分からない。
だけどもそんなことよりも、ずっとずっと、嬉しくて、どきどきして、わたしはもうフニャフニャになってしまった。
友達ができるかもしれない。学校で、おしゃべりができるようになるかもしれない。
もしかしたら、男の子かもしれない。君に恋をしたと告白をされてしまうかもしれない。
明日から、毎日が楽しくなってしまうかもしれないわ。
……ああ。だめ。考えただけで、笑いながら泣いてしまいそうだ。
◆◇◆◇◆
妹のマリーが、学校に通うことになった。それも王侯貴族の教養を学ぶ学園ではなく、市民が学問を追究するための学校ですって。
そう聞いた時、「大丈夫かしら」というのがあたしの感想だった。マリーは背が高く、大人っぽく見えるけど、まだ十二歳。世間知らずの男爵令嬢だ。庶民と一緒に学ぶだなんて……危なくないのだろうか?
思わず心配そうな顔をしていたのだろう、あたしを見て、マリーは明るい顔で頷いた。
「大丈夫です、アナスタジアお姉様。わたし、勉強が好きなことだけが取り柄ですから。それに授業の半分以上は自由研究で、それぞれが教材を閲覧して疑問点を教授に質問していくの。だから優秀な子はどんどん先に行くけど、後れている子も自分のペースでやっていけるんですって」
「……そう。なら、良かったわね」
見当違いのことを答える妹に、相槌は打ったけど、本当は何を言っているのかもさっぱりわからなかった。あたしは学校に行ったことがないし、マリーの喋る言葉は難しい。顔を背けたあたしに、マリーは笑顔で、「それにね」と続けた。
「学費も大丈夫なの。うちのお庭とか、ご飯とか、お掃除とか、今まで家政婦に頼んでいたぶん、わたしがすることになったから」
「マリーが!?」
あたしは思わず大きな声を上げたけど、マリーはにこにこしていた。本当に嬉しそうに、当たり籤を引いたみたいに笑っている。
「うん! お洋服もずいぶん売ってしまったけども……勉強するのに必要ないだろうって、お父様の言うとおりだし」
そういえば、マリーの服はひどく質素になっている。昨日までは一応、よそ行きの町娘程度の格好はしていたのに、今は色も柄も無い生成りのワンピース。まるで市民の部屋着だ。とても貴族の娘の格好とは思えない。
それでも……マリーは、綺麗だった。二つ年上のあたしより、もう頭半分背が高くて、手足がすらりと長い。ゆったりと波打つ赤い髪は、夕日に染まる水面のよう。大人っぽい顔立ちは、両親は可愛げがないというけれど、むしろあたしよりもよく整っていると思う。マリーは綺麗な子だった。
買ったばかりの教材を抱いて、綺麗な妹は笑っていた。
「明日、朝一番の授業は、わたしの歓迎会をしてくれるのですって。ああ楽しみ!」
それからマリーは、すぐに家事へと取りかかった。たくさんの薪を割り、夕食を作り、お風呂の湯を沸かした。今までも、マリーは業者を手伝っていたようだけど、さすがにひとりで全部やるのは大変だったらしい。真夜中までかかって、自分は食事も入浴時間も取れずに寝つぶれていた。
それでもまだ、マリーは元気で、笑顔だった。翌朝、すごく早起きをして朝食もこしらえた。皿を並べながら、肩をそわそわさせていた。
「急いで食べなくちゃ。転入初日から遅刻してはいけないわ」
あたしは笑ってしまった。
「まだまだ余裕でしょう? ほんとは歓迎会が楽しみすぎるだけじゃないの」
「うふっ、ばれちゃった」
クスクス笑う妹と、あたし。――その横で、お父様が眉を顰めた。
「……歓迎会?」
「はい。先生が、みんなでお茶会を開いてくださるのですって。これからわたしが馴染めるようにって」
お父様は、「そうか」と短く頷くと、しばらくは無言でスープを啜っていた。
「ではわたし、水浴びをしてから出発しますね。まだ早いけど――」
「待て、マリー。登校前に、家事を済ませる約束だろう」
お父様に言われて、マリーは首を傾げた。
「家事……なんでしょう? 昨日のぶんは片付けているし、朝食も……あっ、お皿洗いですか?」
「暖炉の煤を掻いてからいけ」
あたしと、マリーの顔が引きつった。
「それは……帰ってきてからではいけませんか?」
「駄目だ、今日は冷える。おまえが学校に行っている間、私達が凍えてしまうだろう」
「わ――わかりました。すぐに、急いでやります……」
「それと、昼間に使う水を、井戸から汲んで瓶へ溜めていけ」
「それでは、学校に遅れてしまいます!」
マリーは悲鳴をあげた。父は「ほう?」と挑発的な目で娘を睨む。
「おまえが言い出したことだぞ、マリー。学校へ行かせてもらう代わりに、家事を完璧にすると。家の者との約束も守れない娘が、学問を学んでなんになる。今からでも入学を取り消すか」
「…………畏まりました」
十二歳の妹は深々と頭を下げると、すぐに食堂を飛び出していった。
それからのマリーの仕事ぶりはすさまじかった。一言も口を利かず、手と足を動かし続け、驚くほど短時間ですべての作業を終えていた。
でもその活躍は、自分自身を犠牲にしたものだった。質素だけどもおろしたてだったワンピースは、煤と泥、マリーの汗でドロドロに汚れていた。
「これで……まだ間に合う。行ってきます……」
そんな格好のまま行こうとするのを、あたしは慌てて引き止めた。
「顔を洗って着替えなさい!」
「あ……ああ、そうでしたね……」
ふらつく足で、中庭へ向かうマリー。しかし今度こそ彼女は悲鳴を上げた。
「どうしてドンキが居ないの!?」
ドンキとは、うちで飼っているロバの名前だ。重い荷物を載せて跨がれば、馬ほどではないが、人の足よりずっと速くて楽になる。マリーはドンキに乗って登校する予定だった。
だけど、家畜小屋はもぬけのカラだった。
侍女のタニアがひょっこり顔を出す。
「あの駄ロバなら、さっき旦那様が乗って出かけましたよ。急なお仕事が入ったとかで」
そんな……。それじゃあマリーは重たい教材を持って、学校まで歩いて行くの? あんなに働いたあとで、時間だってもうギリギリなのに。
「マリー、今日はお休みする?」
あたしがそう呼びかけた時、マリーは、鞄を布紐で背に括り付けていた。深呼吸して、前を向く。
「いってきます」
「嘘でしょ? 無理よ絶対間に合わない!」
「走っていけば一時間で着くはず」
「で、ではせめて、服を着替えて、顔を洗って……」
「時間がないわ」
妹は、いつも穏やかで優しくて、内気で引っ込み思案な娘だった。だけど時々――本当に時々なんだけど、ひどく頑固で、強い。
「みんながわたしを待ってくれているの。行かなきゃ」
――綺麗だった髪と顔を、煤と泥で真っ黒にした妹は、駆け出していった。
それで楽しい日になったなら、良かったと思う。
だけど帰宅した妹は、もう見るからに落ち込んでいた。出かけた時より一回り小汚くなってて、服は所々破れ、小さく血のあとが着いている。
「ど、どうしたの……?」
「何度か、転んでしまったの。……思っていたより、道が悪くて」
ぼそぼそと答えるマリー。俯いたまま、あたしの顔を見ようとしない。
「それで、歓迎会に間に合わなかったのね」
「……うん。でも、少し遅れただけだったの。だけど……」
マリーは言葉を濁していた。それでもう、大体察しは付く。
……学校がマリーを歓迎したのは、マリーが『シャデラン男爵令嬢』だからだ。先生は、貴族の娘相手に教鞭を執れるという充実感を。男子は下心を、女子は憧れを持って、マリーの転入を喜んでいた。
だけど現れたのはずたぼろの少女。
マリーは、ひとの顔色をよく見る。自分を取り囲むひとたちの表情から、すべてを悟ってしまったんだ。だから何も言わず、そのまま静かに勉強だけして帰ってきたんだ……。
「マリー……」
「今日の復習と、明日の予習をしたら、夜ご飯を作ります」
そう宣言して、妹はふらつきながら、屋敷の奥へ消えていった。
それからマリーの生活は、忙しすぎるものになった。通学と学習、家事に追われて、早朝から夜中まで働きづめだった。髪を梳かす時間もなく、わずかな服はどれもこれもボロになった。あんなに綺麗だった妹は、姉のあたしも眉を顰めるほどずたぼろになった。
「行ってきます」
そう言って学校へ向かう妹に、笑顔はない。それでも一日も休まない。家事も、結局はちゃんと終わらせている。文句も言わない。
「あの娘は、あれでいいのよ。アナスタジアが気にすることはないの」
お母様はそう言った。
「あの子は好きでああしてる。あの子が選んだの」
「……勉強や、家事を?」
「そうよ。なんて自分勝手な……シャデランの金を使って好きなことばかりして。貴族の生活や綺麗な格好より、蛮族の暮らしに興味があるのね。悪い子。アナスタジアは、あんな風になっちゃいけませんよ」
「……でも……あたしだって、自分のぶんのご飯くらいは」
「まあ! なんてことをいうの!」
母は激怒した。
「お料理だなんて! 指を切ったらどうするのヤケドをしたらどうするの、あぁあなたのその美しい金髪が燃えでもしたらどうするのよ、駄目よ駄目、絶対に駄目、許しません。アナスタジアは金輪際、厨房に入ることを許しません!!」
そうしてあたしは、喉が渇いてお水を飲むのにも、ひとに頼まなくてはいけなくなった。それはとても億劫で、自由に出入りが出来るマリーを羨ましく思った。
……マリーは、通学も続けている。
学校ってそんなに楽しいのかな。家事も、やってみれば案外簡単なのかな。
……あたしより、マリーのほうが、楽しそう。
そう思うと、家事を手伝う気は失せた。哀れみもなくなった。妹は変わり者で自由人、令嬢失格……自分からドレスを捨てて、ずたぼろを着ているのだ。
――羨ましい。
――誰が優しくなんてしてやるものですか。
あたしはマリーと口を利かなくなっていった。
ある日のことだった。
夕方、そろそろマリーが帰ってくるかなというころ。
あたしはぼんやりと、屋敷の窓から外を眺めていた。そして男爵邸の門前に、子ども達が群がっているのを目にした。
……マリーの同級生? 男女四人、お互いを小突いたりふざけあっているようだ。
なんだろう。あたしはどうしても気になって、駆けつけた。子ども達はまだその場で喋っている。
「ホントに来るかな?」
「まさか、こんなんで騙されるわけないよ。だってアレ、オール『優』だよ」
「もし来たらそれも嘘ってことじゃん、先生に賄賂とか」
「ククッ、ありそう」
何か、雰囲気が悪い。あたしは思いきって声をかけた。
「ごきげんよう、ようこそシャデランの家へ。マリーのお友達ですか?」
子ども達は振り向き、あたしを見て、ウワッと不躾な声を上げた。
「男爵令嬢だ……本物の」
「わあ……きれい……」
「――なにかマリーに御用かしら? あの子はまだ帰ってきておりませんわ」
尋ねると、彼らはひどく心地悪そうに身を寄せ合い、へらへら笑って、何も言わずに去って行った。
マリーが帰ってきたのは、そのほんの少し後だった。
「あれっ、お姉様、どうしてこんなところに。どなたか来客をお待ちですか?」
「……別に」
マリーは首を傾げながら、教材の入った重い鞄を地面に置き、門前のポストを開いた。『督促状』と書かれた封書に渋い顔をしながら、郵便物を確かめて――えっ? と声を上げた。
「わ、わたしに手紙?」
マリーは封書を手に持ち、全身をぶるぶると震わせていた。あっ、それは……と思いながらもあたしは、マリーが封を開けるのを止めなかった。
ざっと文面を見て、目を見開き、息を呑む妹。薄汚れた、だけど整った顔がクシャリと潰れて複雑な表情になっていた。そして呟く。
「ああ、でも……夕食……お風呂を沸かさないと……。……の、水車小屋まで行って帰って……ああ、間に合うかしら……間に合うわけがない……」
声がだんだん泣き声になっていく。大きな身体を丸くして、マリーはしゃがみこんでしまった。
「だめだァ……」
大きくて強くて、賢くて、自分勝手に生きている妹……彼女の口から泣き言を聞いたのは、何年ぶりだったろう。妹よりも平らなあたしの胸が、ギュッと縮こまるような感じがした。
次の瞬間、あたしはマリーの背中を引っぱたいていた。驚き、振り向く妹に言い放つ。
「わたくしに任せて、お行きなさい」
へ? と、素っ頓狂な声を上げるマリー。仁王立ちになったまま、あたしは内心、「どうしよっかなー」とか思っていた。