ヨツクニという地
俺の勤め先は故郷から遠く離れたヨツコクという辺境の地にある。四方を海で囲われており、海の魔物の脅威に常に晒されている土地だと聞く。竜も時折立ち寄り街に大きな被害を出すらしい。それ以外のことはさっぱりわからん。とにかく落ち着いた土地でないことは確かだ。
ぶうといって汽船がとまると、小舟が岸を離れて漕ぎ寄せてきた。船頭は金属製の鎧を着ている。仰々しい奴である。日が強いので水と鎧がやけに光って目がくらむ。事前に送られてきた案内によれば、俺はここで降りるのだそうだ。俺は一番に汽船を降りて小舟へと乗り込んだ。俺の後に続く者はいなかった。
船に乗って岸へと向かっていると、海面からばしゃんと音がして、サハギンが二匹襲い掛かってきた。船頭は腰の剣を抜いたが、いかにも怯えたふうであったので、舟底にあった予備の櫂を「えいや」と構え、サハギンを代わりに引き受けた。座ったままで力任せに七尺ばかりの櫂を振り回すと、先端がサハギンの頭に当たり、鱗ごと骨の砕ける音がした。海面にどろりと赤黒いものが広がるのを見て、残ったサハギンは逃げていった。
「助かりました。おれ一人じゃ殺されてるとこです」と船頭が言った。「たいしたことでもない」と応じた俺は、学校はどこかと続けて訊ねた。案内には地図が乗っていたのだが、俺は天下御免の方向音痴だ。地図があったところで、見知らぬ土地で一人歩けるとは到底思えぬ。地図など俺にとっちゃ鼻紙以下の価値しかない。
船頭は「それなら俺が案内しましょう」と二つ返事で請け負った。世の中、情けは人の為にはならん。
陸へ降りて、小さな漁村を抜け、それから駅まで向かった。ヨツコクをぐるり一周する汽車が走っており、それに乗らなきゃ学校までは遠くてとても行けんとのことだ。有事の際にはここを黒色の軍用汽車が突っ走るらしい。見たくもない光景である。
汽車に乗って十五分ほどして、それから船頭に言われるまま降りた。駅を出ると、存外開けた景色が広がっている。道には石畳が敷かれ整備されているし、背の高い建物だって多い。田舎田舎と聞いていたが、これでは俺の住んでいた土地の方がよっぽど田舎だ。なんだか非常にみじめな気分になった。
船頭が車まで手配してくれて、車夫に一言二言告げた。車に乗り込んで揺られながら街を眺めていると、時折道行く奴らがこちらを見て、ぎょっとしたような顔をした。どこが物珍しいのかと思ったが、なんてことはない、右の頬にサハギンの返り血が付いていただけのことである。俺はクラリアから持たされた木綿のハンケチで頬を拭いた。
間もなくして学校まで着いた。車から降りると、五階建てで横に広い、大きな校舎が俺を見下ろした。負けじと見返していると、女が校舎から出てきて、「おぅい」と手を振りながら近づいてきた。あんな太ももをあらわにした服を着る金髪の知り合いはいない。
「先生ですよね? この学校に赴任してきた」
「奇妙な奴だ。顔を見ただけで当てやがった」などと言おうとすると、「すいませんね奇妙な奴で」と女は先んじて言った。いよいよ気色が悪い。
「先生の言おうとしてることなんて全部丸わかりですよ。ま、わたしに隠し事はできないんで、ひとつよろしく」
忙しく言い切った女は無理に俺の手を掴んで握手してきた。とりあえずこちらも名乗ろうとすると、「坊ちゃんですか」とにまにま笑いながら言われたから驚いた。
「言ったじゃないですか? 隠し事はできないって」
女は得意顔だった。遠路はるばるヨツクニまで来たってのに、ここでも「坊ちゃん」呼びはまいる。「名前で呼びゃよかろう」と言ったが、「嫌です」と突っぱねられた。嫌ですとは恐れ入った。
そもそも、教師捕まえて「坊ちゃん」たどういう了見だ。教師というのは教える師と書く。師というのは敬うもんだ。裏でこそこそ言われるならまだわかる。卑怯者だが、筋は通ってる。俺だって昔はどうしようもない教師には、裏でくだらんあだ名をつけたもんだ。だがこいつは初対面の真正面から「坊ちゃん」だ。馬鹿にしてるにも程がある。こういうのを相手に教えなきゃならんと考えると、もう教師が嫌になった。
俺は女の頭を小突いてやって、とっとと故郷に戻ることに決めた。さっと拳を振りかざすと、女は「暴力はんたーい」と言って逃げ出す。舐めた奴だ。なおさら仕置が必要だ。
「やーいやーい」と囃し立てる揺れる金髪を追いかけて行くと、両開きの大きな扉の前までやって来た。女の姿はどこにもない。中に隠れているのだろうと思い、扉を開けて入ると、道場のような部屋だった。金髪の姿は部屋にない。代わりにいたのは剣を腰にぶら下げた大男だ。無精ひげを生やし、肌がよく日に焼けて、頰にいくつか傷があるのが、にわかに歴戦の戦士の風格がある。
「女をどこに隠した」と俺が問うと、大男は「女とはなんだね」などと抜かしやがった。やけに野太い声だ。その風体と相まって、ぐっと圧されるような思いをした。だが負けちゃならん。「女を出しやがれ」と俺が今一度言うと、男は剣を引き抜き、素早く斬りかかってきた。
ぎょっと驚くと共に一歩後ろへ引く。空を切った刃を返し大男は逆袈裟へ剣を振る。見知らぬ女から馬鹿にされたと思ったら殺されかけるとは、なんて土地だ。ここに住むのはきぐるいばかりに違いない。こんな場所に来るんじゃなかった。クラリアの言う通り、家を出るべきではなかったかもしれん。
後悔する最中にも刃が次々と襲ってくる。こいつがきぐるいだろうが何だろうが構わん。今はやらねばやられるだけだ。弓を引くように拳を振りかぶった俺は、大振りの刃を避けると共に男の鳩尾へ一撃叩き込んだ。ぐうと唸った巨体の腹へさらにもう一発。仰向けに倒れ込んだ男の腕を蹴り飛ばし、剣を手放させ、いよいよ止めを刺そうというところで、「あいや待った」と男は言った。
「降参だ、降参。さすが元騎士というだけある。いやはや想像以上だ。これならうちの教師も務まるだろう」
「試しやがったのか、俺を」
「そうだ。半端な軟弱者じゃ追い返していたぞ」
ふざけやがって。それならそれで最初からそういえばよかろう。危うく要らぬ殺生をするところだ。怒りに腸煮えくり返しているところへ、男は立ち上がりながら「私はこの学校の校長だ」と名乗った。校長がこの様じゃ、以下共々こんな奴らが雁首そろえて並んでいるに決まってら。やはり、ここで断って帰っちまおう。弟にもクラリアにも「やっぱり」と言われるだろうが、鼻持ちならん奴の下で働くよりましだ。
そう思っていたところへ、校長は深く頭を下げ、「これまでの非礼をお詫びしたい」と丁寧な言葉遣いで謝ったから、とりあえず怒りは収まった。しかし教師という職への不安は拭えなかった。