45 最期の時
腸に針を突き刺すような痛みで、ミカヅチの意識は覚醒した。反射的に起き上がろうとして、さらなる激痛に全身が硬直した。
筋肉に力を込めても、痛みが増すばかりで反応が鈍かった。大が子供の頃、怪我をして骨にヒビが入った時、無理に動かそうとしても痛くてまともに動けない経験があった。今の痛みは、それが全身で起きているようだった。
(何があった……?)
必死に自問する。気を失っていたのは果たしてどれほどだろうか。
首を動かすと、隣でティターニアがうつぶせに倒れている姿が目に入った。
「ティターニア……!」
震える声で名を呼ぶが、完全に気を失っているようで、ぴくりとも動かなかった。
声をかけながら、ミカヅチは先ほどの事を思い出していた。伽彦が最後に攻撃をしかけた瞬間、ティターニアはミカヅチをかばう姿勢をとったのだ。その為、衝撃波の影響をティターニアがもろに受け、ミカヅチは早く目覚めることができたようだった。
「また、守られちゃったか……」
ヒーローになって以来、なんとか共に戦えていると思っていたが、どうしてもいざという時は守られる対象として見られてしまうらしい。
泣きたくなるような痛みを必死にこらえ、ミカヅチは上体を起こした。守られていながら、ずっと寝たままでいるわけにはいかない。
ティターニアの向こう側に、真尋と瀧彦の姿を確認できた。二人は間に誠人を守るようにして倒れていて、こちらも身動きしない。三人とも、大きな外傷はないようだった。
足音を聞きつけて、ミカヅチは顔を向けた。
先程と同じく、部屋の奥で鎮座する蝗神の姿が見えた。そしてミカヅチの前方数メートルほど先のところで、伽彦が蝗神に向かって歩み寄ろうとしていた。
「お待ち……ください、我らが、神よ……! 今、そちらに……!」
既に伽彦の体は、四本の副腕は全て消え去り、人間の姿に近くなってきている。足首をくじいたのか、右足を引きずるようにして、這うような速度で歩を進めていた。
ミカヅチ達との戦いで全身に傷を負い、まともに動くこともままならないはずである。しかし伽彦は自分の体の事など全く気にしていなかった。その顔は恍惚としていた。世に数多いた殉教者と同じく、自己犠牲となる陶酔感に浸りきっている。
「くそ……!」
このまま伽彦を蝗神の下に行かせれば、彼は蝗神の贄となる。そうすれば完全に蝗神の封印は解け、外の世界に妖虫の群れが解き放たれることとなるだろう。
ミカヅチは立ち上がろうと四肢に力を込めた。しかし体は鉛の服を着たように重かった。何とか腰を浮かし、膝に手をついて立ち上がろうとするが、一歩歩くとすぐに膝が抜けて、地面に転がった。
このまま目を閉じれば、どれだけ楽か知れない。
例え追いついても、まともに戦う力など残っていない。幻を使うなど無理だ。自分の中にある力は全て、満身創痍の体を癒やす事で精一杯だった。
全身から、ありとあらゆる力が抜けていくようだった。
もういいぞ、と心の奥で声がした。
お前はよくやった。このまま寝ても誰も咎めはしない。そうしたらどうだ。
「嫌だ……!」
弱い心を追い払うように、ミカヅチは言葉を吐き出した。
近くに落ちていた棍を掴み、もやがかかった頭で集中する。全身に残っていたものをありったけかき集める。
今何もやらないで、何がヒーローだ。
「ふっ……!」
呼気と共に、腕だけで振った棍は鞭となって長く伸び、伽彦の足首に絡みついた。
ミカヅチは体を縮めて、柄を離さないように全身で固定する。もう引っ張る力もない。
足の異変に気付いて、伽彦は振り返った。先程までの歓喜の笑みから一変し、冷たい目でミカヅチを見下ろしていた。
「まったく、しつこい奴だな……!」
伽彦は吐き捨てるように言うと、足首とミカヅチをつなぐ鞭をつかみ、そのまま引っ張った。
重傷を負っているはずの身でありながら、その怪力は健在だった。ミカヅチの体は抵抗する事もできず、そのままずるずると引きずられていく。
「ぐっ、く、く……!」
地面に体中をこすられながら、ミカヅチは鞭を離すまいと必死にしがみつく。
少しでも時間を稼ぐ。そうすればティターニアが、真尋達が目覚めて、伽彦を止めてくれる。最早何の力も残っていない体を、ミカヅチは信頼だけで何とか動かしていた。
引きずられる動きが終わったと感じた時、ミカヅチの体が浮き上がった。
伽彦が左手でミカヅチの胸元をつかみ、そのまま視線の合う位置まで持ち上げていた。
「いい加減にしてくれよ……」
荒い息を繰り返すミカヅチの眼前で、伽彦がにらみつける。その顔は泥と血にまみれ、疲れ果てていた。
「諦めなければ、全てがうまくいくとでも思っているのか?」
「俺は、今やるべきだと思うことを、やれるだけやってるだけさ」
「そうか。だが無駄な事だよ。あれが見えるだろう?」
伽彦が右手で、背後を軽く指差す。指差した先、伽彦の肩越しに見えた空間に、奇妙なものが宙に広がっていた。
それは霞を集めて作った、三メートル四方ほどの半透明の幕が宙に広がっていた。幕には何か別の場所の像が映り、透けて見える奥の壁の岩肌と二重になっていた。
幕に映っているものに、ミカヅチは息を飲んだ。和洋折衷のデザインをした屋敷の広間のようだった。
鬼門屋敷か。一瞬そう思ったが、ミカヅチはすぐに考えを改めた。映像内の屋敷の内装は、何十年も使われていなかったようにボロボロで、ほこりをかぶっている。あれはよく似ているが、違う屋敷だ。
葦原市にある、大達が葛垣村に飛ばされた原因となった幽霊屋敷の広間だった。
「蝗神様の作った、外の世界との扉だよ」
伽彦が言った。
「蝗神様の封印を解き、俺達はあそこから外の世界へと出ていく。もうこの世界に用はない。お前たちはあの葛垣村で、好きに生きるがいいさ」
「そうは……させない……」
「本気で言ってるのは分かるよ。だがもうその体じゃ、俺を止められない」
ゆらり、と左手がミカヅチに迫った。首をねじ切るか、頭を握りつぶすつもりか。いずれにせよ、死は避けられない。
何か逆転の手はないか、必死に考える。全精力を使ってひたすら考えている間も、その手が伸びる。やがて致命の一撃が迫り──
「やめなさい!」
鋭い声に、伽彦の手が止まった。眉をひそめつつ、声の主へと顔を向けた。
いつの間に来ていたのか、ティターニア達が倒れている付近に、日美香が立っていた。
言葉を発するだけでも恐ろしいのか、全身が軽く震えている。その震えを止めるように、両腕を胸元で組んでいた。その顔はわずかに怯むような色を見せながら、強気の姿勢を崩さなかった。
「なんであんたがここにいるんだ……」
「もうやめて、伽彦。これ以上はやめるのよ!」
「黙れよ。あんたにどうこう言われる筋合いはない」
不快感に露にしながら、伽彦が吐き捨てるように言う。彼がこれほど強い感情を見せるのを、ミカヅチは初めて見た。
「親が言うのは当然でしょう? 私はあなたの母親なのよ!」
「母親? 母親っていうのは、自分の欲の為に子供を売り渡す人間のことかい?」
伽彦の皮肉に、日美香が体をすくませた。伽彦は蔑むような目で日美香を見つつ、口角を釣り上げた。
「別に気にする事はない。あんたがこの人間を売り渡した時、伽彦という人間は既に消えているんだ。消えた人間に対して負い目を感じる必要はない」
「嘘よ! そんなの嘘よ! あなたは私の子、瀧彦の兄なのよ! そうでしょう? 家族を守るって言ってくれたじゃない!」
「ああ、約束はしたよ。だが約束という意味では、我らの神との約定の方が遥かに先だ」
伽彦の言葉を聞き、蝗神が嬉しそうに吠えた。禍蟻たちと同じように顎を噛み鳴らす仕草を見て、伽彦はうっとりとした表情を見せる。
「蝗神様の復活が成った後、あんたとの約束を守ろう、母さん。俺があんたを孕ませてやる。子供を産んだら元の世界に帰るといい」
「そんな……」
「嫌かい? じゃあ瀧彦と一緒に、眷属に推薦しよう。俺達全員で、神の祝福を受けるのさ」
「やめて!」
その叫びは果たしてどちらに向けられたものだったのか。
何か硬いものが、肉とぶつかる音がした。
伽彦は呆然とした表情で、自分の背中から胸に向かって生えた刃の、緑の輝きを見つめていた。
「兄ちゃん……ごめん、兄ちゃん……」
「たき、ひこ……? 痛いじゃ、ないか……」
ぼそりと呟くと、伽彦の全身から力が抜けた。手を離されたミカヅチと一緒に、伽彦の体が地面に落ちる。倒れてわずかに痙攣する伽彦を、瀧彦は膝をつき、すすり泣きながら見下ろしていた。
「瀧彦!」
一瞬遅れて、日美香が駆け寄った。そこにいつもの強い母親の姿は全くなかった。自分が何をすべきかわからず、ただ瀧彦を抱きしめるだけだった。
瀧彦はとりとめのない言葉を、涙混じりに呟き続ける。伽彦は完全に力を失い、光を失いつつある瞳で、家族を見ていた。
「ごめん、兄ちゃん。でも、俺、守らなきゃ。村を、守るのが八十神だから。兄ちゃんから教わった事だから……」
ミカヅチは体を起こしながら、目の前の家族を見ていた。
母のただ一度の過ちで、あまりにも多くの破壊と混乱が生まれた。そして混乱を鎮める為、子が最もつらい選択をしなくてはならなかった。
彼らにかける言葉を、ミカヅチは持っていなかった。
「これは……」
ミカヅチは声のした方に顔を向けた。真尋とティターニアが目を覚まし、体を起こそうとしていた。
「終わったよ。伽彦さんは、もう……」
ミカヅチの声をかき消して、蝗神が吼えた。復活を成し遂げられぬ怒りから、轟々と嵐のような声を上げながら、必死に楔を抜取ろうともがく。肉を焼き、火花を散らしながらも、その楔はびくともしなかった。
やがて、蝗神の肉体に変化が起き始めた。体がパキパキと音を立て、体の水気を搾り取られるように細く、乾いていく。
蝗神を封印した九段家の初代当主は、実に周到な術を施していた。まず九段の血で蝗神の肉の封印を解き、八十神の血で楔を引き抜く。この二つが同時に行われない限り、封印が再度行われるように術を施していたのだ。
蝗神は、何かにすがろうとするように両手を伸ばした。断末魔の悲鳴を上げながら、その手も石へと変わっていく。
やがて声が途絶えた時、蝗神の全身は元の石像の姿へと戻っていった。




