28 義一の日誌
『──私が何故この文章を人に読まれないようにしたか。その理由を説明すると、昔、ある疑問を抱いた事が始まり。
もう何年前になるだろう。私と妻の間に真尋が生まれ、同時期に八十神家の道元と日美香さんの間に、瀧彦君が生まれてすぐの頃。両家に生まれた子を祝って、宴を開いた時の事だ。
村の者は皆、村の繁栄を願って飲みあかし、久しぶりに村が活気に包まれて大騒ぎとなった。
宴もたけなわとなった頃。私達夫婦の近くに、伽彦君が現れた。
彼は美しい顔で、私達と真尋を興味深そうに眺めていた。周囲は大人だらけだ。彼としてはあまり面白くなく、真尋を眺めに来たのだと思った。
ほろ酔いでいい気分になった私は、彼に
「君も弟ができて良かったね。おめでとう」
と言った。別になんという事はない。ただの挨拶だ。それに対して、伽彦君は特に表情を変えずに、こう言った。
「うん。でも、僕と違ってただの人間だけどね」
急に酔いが冷め、背筋が冷たくなった感触を、私は今でも覚えている。伽彦君はすぐにその場を走り去っていったので、その時はそれ以上追求する事はできなかった。
ただの人間ではない。何気ないその一言が、私の中に言い知れない不安を植え付けた。確かに、伽彦君は並みの人間ではない。天才と言っていい少年だ。
人から教えられた事は、すぐに身につく子だった。一度見たら大体の事を覚え、二度三度と見たら完璧に模倣する事ができた。我々に代々伝わる気虫術も、道元で十八、私でも十二までまともに扱えなかったのに、彼は六つの時点で使えるようになっていた。
しかし、その時に彼が言った事は、そういう意味ではないような気がした。九段の術師の血筋に生まれた直感というべきか。その言葉に、どこか邪悪なものを感じたのだ。
伽彦君がただの人間でないというなら、彼は何者なのか。
その後、私は密かに伽彦君について調べた。興味深かったのは、彼は言葉をしゃべる前から、近くの人の物真似を好んでいたという事だ。
子供なら珍しくはない行動かもしれない。だが彼は、楽しいからやっているというわけではなかったらしい。いつも薄い笑みを浮かべて、自分の行動にどんな反応が返ってくるか、いつも観察していたという。
今思うと、それは彼なりの感情の学び方だったのだと思う。人間ならどういう時にどう考え、どう反応し、どう行動するのが正しいのか、彼は学び続けていたのだ。
日美香さんの、彼への対応も気になった。よくできた息子で手がかからないのは事実だが、瀧彦君にばかり目をかけていて、伽彦君への対応はどこか一歩引いたようなところがあった。
まるで何かに怯えているような。
もちろん、この程度の事は考えすぎ、ただの言いがかりと一蹴される内容であるのは分かっている。しかし、当時の私は彼の一挙手一投足、全てが気になっていた。
それから彼は驚くべき成長を遂げていった。気虫術をあっさりと使いこなし、十代前半の頃には禍蟻を狩る事ができるようになっていた。
そしてついに去年、私は決定的なものを見た。
私は村の近くにあるはずの、妖虫の巣穴を探すため、仲間と共に山奥を探索していた。日が暮れ始め、森が闇に包まれ出した頃、私は仲間とはぐれてしまった。
夜は深く、闇に体が溶けてしまいそうな気がした。それでも灯篭の明りを頼りに、あらかじめ決めておいた合流地点に向かって歩き始めた時、闇の奥で妙な音がした。
私は妙に気になり、そちらに向かって歩き出した。もしかしたら妖虫が群れで集まっているのかもしれない。となれば巣穴が近くにあるのか。そう思って灯の範囲を絞り、足音を立てないようにゆっくりと近寄った。
そして数分歩いた先に、村の道場ほどの広さの空間があった。そこには無数の禍蟻が集まり、輪を作っていた。そしてその中心部に、村の子供が寝かされていた。
子供は眠っているのか、身じろぎ一つしなかった。いつもならば、妖虫は村人を見つければ競うように襲い、食い漁る。しかし、子供を囲う禍蟻たちは身じろぎもせず、何かを待っているように並んでいた。
私一人であの子を助けるには、あまりにも数が多すぎた。一体どうすれば、せめて仲間を呼べたら。そんな考えを巡らせていると、禍蟻の群れの中から、彼が姿を現した。
それは紛れもなく、伽彦君だった。左手に持った松明の光で、全身が真っ白に照らされている。いつもと変わらない薄い笑みを顔に貼り付けて、彼は子供に向かって歩を進めていった。
よく見ると、彼の右手には奇妙な虫が握られていた。蜘蛛か蠍のような不気味な節足動物が、その脚をうねうねと動かしている。
禍蟻達が顎をかみ鳴らす不気味な奇祭の中、主役となった伽彦君は、その虫を子供の腹に押し付けるように載せた。
耳が裂ける程の、子供の絶叫が届いた。
告白する。私は恐ろしくて動けなかった。子供を助ける行動すらとれず、仲間を呼ぶ事すらできず、ただ目の前で起きている事を見ているだけだった。私は弱虫の愚か者だった。たとえ私がその報いとして無惨な死を遂げても、閻魔が私を地獄の底の底に送っても、私は不平不満を口にできはしない。
数十秒か、数分経っただろうか。伽彦君が虫をのけた後、子供は目を覚まし、起き上がった。そして周囲に集まっている妖虫を恐れもせず、口元が裂けるような笑みを浮かべたのだった。
ああ、その時私は理解した。伽彦君が言った、「ただの人間ではない」その意味を。蝗神は妖虫だけではない、ついに人間の肉を利用して、その眷属を増やす術を手に入れたのだ。そして伽彦君はその尖兵だったのだ。
その後、どうやって逃げたか、私は覚えていない。
村に帰った後、私はこの事を誰かに話そうと思った。だが誰に話せるだろう。既に蝗神の眷属は、村にどれほどいるかわからないのだ。
それどころか、村を二分する八十神家の嫡男が蝗神の眷属だと、誰が信じるだろう。父の仁斎ですら、私の気が狂ったと考えるかもしれない。村を崩壊させないためにも、完璧な証拠が必要だ。
私はただ一人、この事を胸にしまい、彼らに対抗する術を見つけようと決心した。いつか彼ら蝗神の眷属を見分ける術を手に入れた時、それと共に皆に打ち明けよう。
既に蝗神の封印は、かなり弱まっているのかもしれない。私は村の為、奴を再度封じなければならない。誰にも頼らずに。
もし私が亡くなった後、この日誌を読む者がいたならば、どうかマレビトの協力を得て、葛狩村の為に戦ってくれるものである事を願う──』
読み進めていくほどに、部屋の空気が重く、苦しいものに変わっていくようだった。葛狩村の未来に関わるとてつもない内容に、大は背筋が冷たくなるのを感じていた。おそらく綾も、真尋も同様だろう。
「伽彦さんが、そんな……」
真尋がうめくように言った。呆然とした顔から、彼女の心中でどれほど大きな感情が渦巻いているかが、大にも感じ取れた。
綾が険しい顔で呟いた。
「あの巣穴で、杏ちゃんもイドマの持った妖虫に寄生されようとしていたわけね」
「うん。義一さんが日誌を読まれたくなかったのもわかるよ。もしこれを他の人に読まれたら、村は大混乱だ」
葛狩村の人口は千人にも満たない。仮に伽彦の世代から人間の子供に妖虫を寄生させてきたとして、果たして村の何割が妖虫の手の者となっているのか。そしてそれを見やぶる方法をつかめない限り、これを知った者は疑心暗鬼に陥り、互いに同士討ちを続けることだろう。
そしてこのまま妖虫の寄生が気付かれなければ、人知れず村は支配される。やがては九段と八十神も支配下に置かれる事だろう。否、既に八十神は蝗神の眷属へと変わってしまったのだ。
侵略の手段としては迂遠で、酷く遠回りな方法だ。しかし彼らの主である蝗神にとって、数十年、数百年の時間など大した問題ではないのかもしれない。
「子供に寄生するというのは賢い手段ね。大人が突然別人になれば周囲から怪しまれるけれど、年端もいかない子供なら、少し性格が変わっても気にする者は少ないわ。実の親でも、最近変だと思うくらいで済まされるかもね」
「それよりまずいよ。今、自警団は伽彦さんの指揮で巣穴に向かってるんだ。罠に飛び込むようなもんだよ」
伽彦からすれば、妖虫の巣穴の破壊は阻止したい案件だろう。彼が裏切り、自警団が殲滅する姿が、大の頭に思い浮かんだ。
「やっぱりミカヅチとして同行しておけば……」
「そうしたら、伽彦さんの事を知ることはなかった。裏切られて罠にはまってたわ」
綾が落ち着かせるように優しい声で言う。頭では大にもわかっているが、落ち着かない気持ちはどうしようもない。
「今すぐ自警団の後を追いましょう。今なら罠にかかっていても、皆を助けられるかもしれません」
「ちょっと待って、もうちょっと残ったページがある」
立ち上がった真尋を制し、大は残ったページを読み上げていく。
『──その後、私が調べた限りでも、妖虫に寄生されたと思しき村人は六人いた。伽彦君とのやり取りに奇妙な違和感を覚えた者を見つけ、重点的に素行を調べた結果だ。
恐らく、実際はもっと多い事だろう。外見の特徴は全く人間と同じなのだ。私が目をつけた六人も、それらしい、というだけでしかない。
奇妙な符号として、その六人は皆、マレビトを親に持っていた。これは私の推測に過ぎないが、葛垣村に暮らす者は毎年、九段が行う破魔の儀式を受ける。その儀式を長年受ける事により、妖虫も寄生しにくくなるのではないだろうか。
しかし外から来たマレビトは、妖虫の支配に対する抵抗力を持たない。故に、彼らから生まれた子は、妖虫の寄生先として絶好なのかもしれない。
伽彦君が寄生された理由もそれで説明がつく。九段も八十神も、妖虫と戦う術を磨いてきた歴史がある。その八十神の子が妖虫に寄生されるなど、およそ考えられない事態だ。
ひょっとしたら、日美香さんは──』
真尋に大と綾が頷いた時、書庫の扉がノックされた。
「国津さん、天城さん。そちらにおられますか?」
夏菜の明るく、はきはきとした声が聞こえてきた。可愛らしい声の調子は、昨日までとまったく同じだ。なのに、今の大達にはまるで別人が発しているように聞こえてきた。
義一の日誌を考えると、彼女も妖虫に寄生されていないとは限らない。そう思うと、扉を開けるのすらためらわれた。
真尋が大と綾に目線を送った。どう応答したものか、彼女も悩んでいるのがすぐわかった。
綾が大と真尋に近寄るようジェスチャーを送った。近寄ってきた二人と顔が触れるほどの距離で、短くこれからの内容を伝えていく。
「彼女が奴らの手先かどうか、調べている暇はないわ。まず巣穴に行くことを優先しましょう」
「ですが、彼女がもし彼らの手先だったら……」
「考えていてもしょうがない。話は最小限にして、すぐに出かけるしかないよ」
簡潔に話を伝え終わった後、扉の向こうから再度声が聞こえてきた。
次回投稿は25日(土)21時頃予定です。
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