11 八十神家の一族
不意に玄関から硬い音がした。備え付けのドアノッカーの音だ。
「はいはい、どちら様ですか……」
大達のいる広間を経由して、夏菜がぱたぱたと足音を立てながら玄関に向かう。玄関が開けられた音が聞こえた直後、夏菜が悲鳴のような声を上げた。
「日美香様!」
呼ばれた名前を聞いて、女は足音の主から逃げるように、おひつを片付けに調理場に戻っていった。
玄関の方からは会話がかすかに聞き取れたが、すぐにどたどたと荒い足音が響いた。誰かが団体でこちらに向かってきているのだ。
何事かと思った時には、扉が開け放たれ、足音の主が姿を見せていた。
長い黒髪と、真っ白な肌をした女だった。歳は三十をいくつか超えた程度だろうか。葛垣村の人間には珍しく洋服で、豊かな腰と胸が服の上からでも主張していた。派手な化粧と装飾に身を包んでいて、農作業などをやる立場の人間でない事はすぐ分かった。
「昨日、九段様の前で瀧彦と立ち回りを演じられたのは、どなたかしら?」
女はずかずかと部屋に入ると、挨拶もなしに言った。普段から高慢に振る舞うのに慣れた人間の物言いだった。
少々面食らいながらも、大は椅子から立って前に出た。
「えと……俺ですが、あなたは?」
「あら。あなたが? 確か国津さん、でしたわね」
女は大を睨みつけながら、大の前まで歩を進めた。頭から足下まで、観察するように無遠慮に眺めていく。
「あの……?」
「あら、ごめんなさい。ぶしつけでしたわね。私は八十神日美香。瀧彦の母ですの」
女──日美香は言った。大は心中驚いていた。瀧彦の母という事は、年齢は四十を確実に超えているはずだ。なのにその美貌は驚く程に若々しかった。
「母さん……」
弱々しい声と共に、扉の陰から瀧彦が気まずそうに姿を見せた。背後には夏菜が恐縮するように立ち、どう応対したものかと悩んでいるようだった。
日美香は瀧彦を見やると、流麗な眉を寄せて瀧彦を睨んだ。
「何をしているの、瀧彦。こちらに来なさい」
「いや、あの……」
瀧彦は口ごもったが、日美香には逆らえないらしかった。肩を下ろして小さくなりながら日美香の隣に向かうと、日美香が白い手で瀧彦の頭を押さえた。
「昨日この子が、あなた達の前でみっともない姿を見せたと聞きました。あなたのお連れの方に無礼を働いた上に、暴力で従わせようとして逆に叩きのめされるとは、何たる無様」
「いや、母さん。やめてくれよ、もう。俺が悪かったからさ……」
瀧彦は恥ずかしそうに抗議した。いたずらをして叱られる子供そのままの構図は、昨日の自信に満ちた言動が嘘のようで、いっそ哀れですらあった。
「何を言っているのです、瀧彦。悪かったと思っているなら、あなたから出向いて謝罪するのが筋というもの。それなのにやる気を見せようとしないから、私がこうしてあなたを連れて来たのです」
「それは、その……」
「あなたが今すべきは、言い訳ではなく謝罪です。さあ、こっちに来て」
日美香は大の前から離れ、瀧彦に促した。瀧彦は悔しげに顔を歪めながら、それでも大の前に出て、ついに頭を下げた。
「昨日は、その……、調子に乗って、暴れすぎました。すみません、でした」
「あ、いや。別に気にしてないから。俺もちょっと、綾さんに手を出されたからつい、腹が立ったというか。俺もやりすぎたよ。ごめんなさい」
弱々しい姿に、大は戸惑いながら返答した。気落ちする瀧彦を見ながら、日美香は軽く溜息をついた。
「これで許してくださいね、国津さん。天城さんも。この子は昔から迷惑を起こしてばかりで」
「そのくらいにしてあげなよ、母さん」
不意に聞こえてきた声に、大だけでなく、皆が顔を向けた。瀧彦の後方に、別の男が現れていた。
美しい男だった。細面に肩までかかる長髪を伸ばしていて、冷たさすら感じる瞳が印象的だった。背は高く、百八十センチある大よりわずかに高い。一見痩せ型で華奢な体に見えるが、シャツから覗く腕や肩から、無駄な贅肉が一切ついていない為にそう見えるのだと分かる。詰襟の洋服を着こなす姿は、まるでモデルのように様になっていた。
「伽彦《とぎひこ》!」
「兄ちゃん」
日美香と瀧彦が同時に声を発した。彼が来た事で二人の顔に緊張が走り、空気が変わった。まるで危険人物を前にしたように真剣で、怯えているとすら感じられる雰囲気だ。
当の伽彦は表情も変えずに、ただ日美香をちらりと一瞥した。
「これ以上瀧彦をけなしても、何も意味がないだろう。相手も納得したのなら、もう終わりだ」
「あなた、一緒に来るつもりはないって言っていたじゃない」
「謝罪に加わる気はない、と言ったんだ。俺もマレビトを見たかったんでね」
伽彦が歩を進めると、瀧彦は相手を恐れるように道を譲る。部屋に入ると、伽彦は目だけを動かして、順繰りに大達を眺め、最後に大を見た。
「瀧彦の兄の、伽彦です。よろしく」
「国津、大です」
「話は聞いているよ。弟が迷惑をかけたそうだね」
伽彦が大に手を伸ばた。大は一瞬不安に思ったが、素直に握り返した。握った手は冷たかった。
「村での生活は、長い付き合いになるだろう。弟とのいさかいは忘れて、必要な時は手を貸してほしい」
「はい。それはもちろん」
「よかった。感謝するよ。どうやら、君達には特別な力があるようだしね」
伽彦は薄い笑みを浮かべた。形のいい笑みは美しく、見ただけで周囲の女は虜になる事だろう。
だが大には、彼がまるで笑っているようには感じられなかった。周囲との付き合いで計算して、顔の形を作っているように感じられた。
まるでよくできた仮面の表情だ。伽彦の笑みに、大は背筋に冷たいものを感じるのだった。
「あら……」
驚いているような、感嘆しているような声がした。
大が声のした方に目をやると、そこに真尋が立っていた。いると思わなかった相手がいたようで、真尋は目を瞬いた。
「伽彦さん。日美香さんまで……」
「あら真尋さん。何か御用かしら?」
日美香が尋ねる。先ほど伽彦が来た時の不安な表情は鳴りを潜め、既に冷静さと傲慢さを取り戻していた。
真尋は若干戸惑うようなそぶりを見せたが、口を開いた。
「マレビトの皆さんに、お願いがあって来たんです」
「あら。ひょっとして調査隊の事かしら?」
ふふ、と日美香が軽く笑う。
「そう。できれば私達もマレビトの皆さんに、うちの自警団に入っていただこうと思っていたのだけど」
うちの、の部分を強調して日美香が言う。真尋の顔がわずかに険しくなったのを、大は感じ取った。
「でもいいのよ、真尋さんがそのつもりなら。うちは村の人達でなんとでもなるでしょう。少しでも人が集まれば、仁斎様もお喜びになるでしょうし。うちは一人二人の為に、九段家と争う気なんてありませんからね。」
いちいちトゲのある言葉だった。九段家と八十神家の軋轢は先ほど聞いたばかりだが、少なくとも、この二人の仲はあまり良くないらしい。
真尋は何も言わずに、じっと耐えていた。己が優位に立っているのを確信して、日美香はふふ、と軽く笑った。




