09 二人きりの夜
葛垣村の夜空にも、美しい月が昇っていた。
正確には地球の月ではなく、この異界の星を回る衛星である。よく見れば表面の模様も違うし、色もずっと青白く輝いている。見るものの心に突き刺さり、不安を呼び起こすような光だった。
村に最初に来た時にいた屋敷の一室で、大は窓から空を見上げていた。食事は終わり、皆この屋敷に戻っていた。これからは全員、この屋敷で寝泊まりをする事になっている。
仁斎達はこの屋敷を「鬼門屋敷」と呼んでいた。外の世界からマレビトが来る場合、皆ここの一室から現れるらしい。そしてマレビトは普段、ここで生活するのが習わしなのだそうだった。
鬼門は悪鬼が入り込む穴があるという。果たしてこの場合、悪鬼とはマレビトの事なのだろうか。
「ひとまず夜も遅うございます。ごゆるりと、これからの為に英気を養いください」
仁斎が深々と頭を下げる姿が、大の脳裏に残っていた。
大は窓から目を離し、室内に目を向けた。
洋風の一室に、竹で組まれたベッドが二つ、部屋の東側にどんと置かれている。部屋の隅には花を模したランプが置かれていて、儚げな明りが周囲を照らしていた。かつて村に来たマレビトが作ったもので、この屋敷も当時のマレビト達が総力を挙げて建てたものなのだという。
大は既に風呂に入り、支給された浴衣に着替えていた。格好といい部屋の風情といい、まるで歴史のある旅館に泊まっているような錯覚を覚えてしまう。
言ってみれば、こちらは異世界に飛ばされた身だ。右も左も分からない現状、向こうの好意に甘えるしかない。下手をすればあの禍蟻のうろつく森で野宿もあったのを思えば、これは最高の生活と言って良かった。
「でもなあ……」
大は思わずつぶやき、頭をかいた。生活環境は最高だが、大は一つ問題に直面していた。
廊下につながる扉が、軽くノックされた。
「どうぞ」
大が答えると、滑らかに開いた扉から、問題が姿を表した。
「まさか温泉を引いてるなんて、贅沢ね。広いお風呂って最高」
タオルで髪を乾かしながら、浴衣姿の綾は笑顔で言った。女性には珍しい百七十センチを超える高身長と、出るところは出しつつ、贅肉はきっちりと削り落とした見事なプロポーションは、雑誌に載るフィットネスモデルを思わせる。見事な肢体を薄い浴衣一枚で隠している、その様は酷く扇情的だった。女ならば誰もがその肉体を羨み、男ならば誰もがお近づきになりたいと願うだろう。
「そうだね。異世界に飛ばされて百年以上経ってるって話だけど、マレビトの技術のおかげで、村の生活は意外と裕福なのかもね」
話しながらも、ついつい目が頭から足下まで、綾の全身を追ってしまう。胸の鼓動が強くなるのを感じながら、大は必死に口元が緩むのをこらえた。
仁斎たちとの顔見世の際に言い放った一言の結果、大と綾は相部屋を割り当てられたのだった。二人はルームシェアをして暮らしているが、普段は寝室は別々にしている。それが同じ部屋、しかも同じベッドでとなると、流石に大も気持ちが高ぶっていた。
綾は自分のベッドに腰掛けると、持ってきていたバッグから櫛を取り出して、髪の手入れを始めた。艷やかなセミロングの黒髪を手入れする姿が妙に色っぽくて、大は息を呑んだ。
(落ち着け、俺)
ずっと見つめているのも恥ずかしく、目をそらす。できるだけ平静を装いながら、大は気持ちを切り替えようと口を開いた。
「それにしても、さ。明日からどうしようか。どうにかしてここから出る手段を見つけないと」
「私は大ちゃんに従うわよ? なんせ私、大ちゃんの女ですからね」
綾はからかうように笑みを浮かべた。
「綾さん……!」
「冗談、冗談」
恥ずかしさに血が上り、顔が熱かった。当分は綾に遊ばれる材料とされる事だろう。
「でも、そうね。この村が呪術的なもので封じられているのなら、闇雲に村の外に出ても危険なだけでしょうね。仕掛けた術の要がどこかにあるはずだから、それを探し出せれば、ここから出られるかもしれない」
綾はこの状況でも落ち着いている。大が小学生の頃からヒーローとして活動していた経験が、冷静な行動を取らせるのだろう。
「仁斎さん達もそういう事は調べてるかもね。明日、そのへんの事を真尋に聞いてみようよ」
「そうね」
村一帯をそのまま異世界に転移させるような術だ。かなり強大な力が働いているに違いない。
長年村人たちだけでは探しきれなかったものを見つけるとなれば、そう簡単にはいかないだろう。しかし、ひとまずはこれを目標に動くしかない。
開けた窓から風が吹いた。何の気なしに、大はベッドから降りて、窓に近寄った。外に目を向けると、山の斜面に生えている木々の隙間から、平地に広がる水田を一望する事ができた。
「……?」
妙なものに気付いて、大は眉をひそめた。
一面に広がる田の中に、小さな灯りが一つ浮かんでいた。
それはゆっくりと村から離れ、向こうの山の方へと向かっている。提灯を持った村人が、田んぼの様子を見に向かっているのだろうか。
闇の中を行く頼りない灯は、深い底なしの冥府をさまよう人魂のような物悲しさがあった。
果たしてあれがどこへ向かうのかと注目していた時、背後から綾の声がした。
「ねえ、大ちゃん」
「ん?」
振り返ると、綾は髪の手入れを終えていた。何か考えているのか、手に持った櫛を何度もいじっている。
「一応聞いておきたいんだけど。なんとか早めに脱出の目処がつけばいいけど……、もしできなかったら……」
綾はそこで言葉を切り、手を止めた。言うべきか言わざるべきか、わずかに逡巡を見せた後、綾は大の方を向いた。
「大ちゃんは、その……私と子作り、したい?」
言った後で恥ずかしくなったか、綾は大から目をそらした。突然の言葉に、大は目を白黒させる。
「いきなり、何さ」
「ちょっとね、考えてみただけ。もし早期に脱出できそうにないなら、子作りで外に出るって手段も、今の内に考えてくべきかと思ったの。大ちゃんをここに何年も置いておけないわ」
「綾さん」
「だから、その場合、大ちゃんはどうしたいかと思って。私でいいなら相手するし、その、他の人がいいなら……」
「……」
大は窓から離れると、ベッドに向かった。綾の隣に座り、真剣な表情で綾の顔を見る。
綾に伝える言葉を考える大を、綾は不思議そうに眺めた。
「大ちゃん?」
「綾さん。正直な気持ちを言うよ」
「うん……?」
「はっきり言って、俺は、めちゃくちゃ綾さんとしたい」
あまりにあけすけな言葉に、さすがに綾の頬に朱が差した。
「大ちゃん」
「いや、いいから聞いて。前から言ってる通り、俺は綾さんを大切に思ってる。大好きだ。何なら今からだって抱きしめたい。でも今、そういう事をやって、それでここを出る訳にはいかない」
「……」
「そうやって出ようとしたら、俺と綾さんの子供はここに置いていかれるんだろ。そんなの嫌だよ。俺は耐えられない」
「大ちゃん……」
「もし俺が綾さんと子供を作るなら、俺はその子を一生大事にしたい。綾さんと同じくらいに」
綾と初めて出会ったのは、もう十年以上前の事だ。大は小学生で、綾は高校生になり、偉大なる巨神の加護を授かり、ティターニアを名乗ったばかりの頃だった。
初めて出会った時から、大は綾に惹かれ、ティターニアを慕っていた。あの時の気持ちは今まで、ずっと変わっていない。
もし綾と子をなす事ができるのなら、それは皆から祝福される存在にしてやりたかった。例え子供を産む事でこの村から出たとしても、それは大の心に一生残る傷跡を残す事だろう。
「それにさ? 考えてもみてよ。子供が生まれるまで待ってたら、一年近くかかるんだよ? 俺は留年しちゃうし、綾さんだって仕事をクビになっちゃうだろ?」
暗い雰囲気を和ませようと、大はおどけた口調で言う。大の気持ちが伝わったか、綾も口元に手を当てて笑った。
「だから、誰も悲しまない方法を探そう。一緒に」
「……そうね」
二人は顔を見合わせて、力強くうなずいた。




