41.脱出
男は今日何度目になるか分からないあくびをした。隣の長身の男は何も言わず、じろりと男を見るだけだった。顔につけている白い仮面のせいで、どういった気持ちでいるのかは読み取れない。
二十階建ての高級マンション、その上階に位置する一室に、男達はいた。元は寝室として使われていたらしいが、今は家具のほとんどは撤去されている。さらには壁を巨大な樹木の枝に覆われているために、元の部屋の構造すら把握する事は難しい。
それに対して、部屋の外のリビングルームは鮮やかなものだ。ブランドものの家具や調度品が溢れているのが、男が転生の器とした者の記憶から読み取れた。
器の男の記憶が正しければ、彼が元々稼いでいた月当たりの金では、リビングにどんと置かれているテーブル一つすら、買うことも難しいだろう。先ほど、侍従が調理して運んできた飯も食べたところだが、目玉が飛び出るかと思うほどに旨かった。男が転生する前の時代と後の時代の間には、ざっくり千年は開きがあるはずだが、どうやら身分による貧富の差というものはなくならなかったようだった。
男はまたあくびをした。酷く退屈な仕事だ。今頃仲間達は主であるラージャルと共に、同胞を転生させる為に任務についている頃だろう。それと比べると自分達の仕事は酷く刺激に欠けている。上官であるアイオーナに命じられた重要な任務であり、危険が伴うと頭では分かっていても、目の前の相手の状況を見ていてはどうしても緊張が緩んでしまう。
ティターニア。偉大なる巨神の娘。アイオーナが作り出した樹木の牢獄の中心に、彼女は椅子ごと縛り付けられたまま放置されていた。
彼女は先日、ラージャルとの一騎打ちに敗れ、そのまま連れ帰ったのだと聞いている。今日の作戦から帰った後、転生の器とする予定だそうだ。
彼女が負けるのも当然の話だ。男は思った。
生前のラージャルの戦場での戦いぶりを、男は兵卒として何度も目にしてきた。軍神と契約し、当時の巨神の子相手にすら無双の戦いぶりを見せたあの姿に、男は幾度も恐怖したものだ。しかも転生してからというもの、ラージャルは更に強さを増している。この女が偉大なる巨神の娘だとしても、勝てる見込みなどありはしない。
その捕らえたティターニアの監視を、男はアイオーナから任されたのだった。
「あの女が少しでも逃げ出す素振りを見せたら教えなさい。私が直々に殺しに行く」
アイオーナは憎悪を隠そうとせずそう言っていたが、蓋を開けてみるとティターニアはかなり消耗しているらしく、ほとんど眠ったままだった。規則的に呼吸をし、時折寝返り代わりに体を軽く動かしたりする程度で、特に怪しい反応を示さない。
見張りを仰せつかった時には、人食いの猛獣の世話を任されたような恐怖を感じたものだったが、慣れてしまえばどうという事はない。むしろ退屈をどう誤魔化すかばかりを考えてしまっていた。今も定期的な状況確認として部屋に入ったが、ティターニアは以前に部屋に入った際と全く同じ姿勢のままでいる。
男は囚われの身となっている目の前の女を、上から下へとゆっくりと眺めた。アイオーナの生み出した樹の拘束はティターニアの全身に絡みついている。これではいかに巨神の子でも、道具なしにひきちぎる事は不可能だろう。
男の目が一点で止まった。彼女の着ていたジャケットが緩んで胸元が開き、豊満な胸が露になっている。彼女の全身を包む青い衣に締め付けられながらも、形をほとんど変えないその胸が、無数の枝に絡みつかれて拘束されている様は、どこかひどくインモラルな美しさを感じさせた。
男の喉が鳴り、邪な考えが浮かんだ。手に持っていたナイフを腰に提げていた鞘にしまい、ティターニアに近づいていく。
「おい、何をしてる」
長身の男が声をかけた。
「何も問題ないか、確認をするだけだよ。色々とな」
男はこともなげに言った。どうせ相手が何をしたところで、この状況から逃げられるわけもない。少しくらい役得があってもいいはずだ。
長身の男はそれ以上止めなかった。彼も仕事の退屈さにはうんざりしているのかもしれない。男が上手くやれるのを見たら自分も、などと考えているのかもしれなかった。
仮面の奥で、男の口許が醜く歪んだ。ティターニアの目の前に立ち、顔を確認する。切れ長の両の眼は閉じられたままで、男が近寄ったのに気付く素振りもない。
男は期待に体の一部を熱くさせながら、ティターニアの胸に手を伸ばした。
指が触れる前に、男の手は止まった。突然手首に感じた圧力に、目を白黒させて視線を落とす。
「私に触れていいのは、私の大切な人だけよ」
鉄の声が男の耳に届いた。拘束から抜け出るはずのないティターニアの手が男の手首を掴み、万力のように締め上げる。
混乱と激痛に引きつった悲鳴を上げそうになった瞬間、ティターニアの手が翻った。高速の拳が男の鼻面に叩き込まれる。
「ガッ!」
顎に鉄杭でも打ち込まれたかと思うような衝撃。のけぞるよりも早く、殴った手が男の胸元を掴んで引き寄せる。
完全に不意を食らった男は、何も抵抗できないまま引っ張られた。男は抵抗もできず、椅子に絡み付いた樹木の、瘤状に盛り上がった箇所に顔面を叩きつけられた。
男の二度目の人生はあっけなく、仮面の粉砕と共に消えた。
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男の仮面を砕いて、ティターニアはそのまま男を突き飛ばした。ほとんど腕しか動かせない姿勢でありながら、巨神の加護が与えた剛力は、男を床と水平に飛ばす。突き飛ばされた男は数メートル飛んで、その先にいた長身の男と激突した。
なぎ倒された長身の男が、苦悶の声を上げる。長身の男が、上にのしかかってきた男をどかそうとしている間に、ティターニアは自身を拘束していた枝をひっぺがした。内側から幾重にも入れられた切り込みから、枝はあっさりとちぎれてはぎとられる。
立ち上がったティターニアを、長身の男は絶望的な目で見つめていた。起こるはずのない出来事に混乱し、逃げる事も戦う事もできずに震え、ただティターニアが近づいてくるのを眺めていた。
ティターニアは長身の男の胸元を掴んだ。そのまま片手で持ち上げ、怒りの気配をにじませながら男を睨みつける。
「答えなさい。ラージャルはどこ?」
「へ、陛下は今配下を集う為に外に出られた。行き先は確か葦原競技場……」
完全に戦意を喪失した男は。抵抗する意志をなくしていた。すらすらと答えた男にティターニアはそう、と答えると、男の顔面に拳を打ち込んだ。
あっさりと仮面が砕け、男は意識を失った。床に下ろすと、二人の男の顔から青白い光が立ち上り、体が元の姿へと変わっていく。
ティターニアは大きく息をついた。ほぼ丸一日同じ姿勢で拘束されたせいで、体の節々が悲鳴をあげている。ベストコンディションは望むべくもないが、やらねばならない事は山積みだ。
ティターニアは扉を開けて、寝室から外に出た。リビングルームの窓から覗く外の風景は既に夜の帳が下りようとしている。果たしてラージャル達の計画はどこまで進んでいるのだろうか。大や灰堂達が手を打っていてくれればいいのだが。
左手に持った小刀を、ティターニアは眺めた。先日の夜、キリクが与えたものだった。
椅子に拘束されたティターニアにキリクが近づいた際、誰の目にも触れないように小刀を落とした。意図して渡したのではなく、懐に持っていたものが偶然落ちたというような、そんな動きだった。あまりにも自然だった為に、ティターニアも一瞬気付かなかったほどだ。
それを使い、ティターニアは自身を拘束する樹木を切り裂き、何とか脱出に成功した。とはいえ見張りの目を気にしながらだったため、かなり時間がかかってしまったのだが。
(キリクは何を考えていたのだろう)
自身の荷担している事を気に病み、誰かに止めてもらいたかったのだろうか。できればそう思いたかった。




