33.悲しむ者、苦しむ者、嘲笑う者
既に日は落ちて、夜の闇が町中に静寂を強いていた。
葦原市北部の住宅地に建てられたタワーマンションは、市内でも有数の高級住宅だ。周辺の建物からも頭一つ抜けた高さを誇り、最上階近くの部屋にもなると、市内を一望できる絶景を備えている。
そんな部屋にあるリビングルームで、ティターニアは体をソファに縛られて拘束されていた。
ソファ自体は高級品だ。質のいい革を使い、柔らかいクッションが座るものの体を優しく包む。樹木の枝がソファを貫いて全身に絡みついていなければ、さぞいい気分を味わえるのだろう。
周囲の調度品も、高品質のものを使っているのが見てとれる。ここに住んでいる者は、かなりの高収入を誇っているに違いない。しかし、それも今はラージャルに全てを奪われた状況だ。
ティターニアは全身に込めていた力を抜いて、苦々しい息を吐いた。単なる樹木ならば、ティターニアの剛力で容易に破壊できる。しかしアイオーナが生み出した魔性の枝は、ティターニアが力を入れるとしなやかにその力を吸収するように動き、逆に締め付ける。その柔らかさがただの金属よりも強靭に、ティターニアの体の自由を奪っていた。
「いい加減にお前も落ち着くがいい。楽しむ気になれば、中々居心地の良い家だぞ」
ラージャルが秋山の姿かたちのまま言った。
ティターニアは秋山には会った事はない。だが大から話を聞いているし、写真も見せてもらっている。その時に感じていた印象は大人しく、線の細い少年像だった。しかしティターニアの目の前で二人掛けのソファに体を預けるその姿には傲慢さ、尊大さが全身からにじみ出ていた。
「ラージャル……!」
「余も寸鉄一つ身に着けずに話しているのだ。貴様もその戦装束を取り、仮面を外してはどうだ?」
「ならこの拘束を解いて、その体とあなたが取り付いた仮面をしかるべき場所に戻して、それから二人で話すというのはどう? あと五十年か六十年程経った後、冥府の底でね」
「そうはいかん。貴様は恐ろしき女。この時代に余を追い詰める者がいるとすれば、恐らくは貴様のみであろう。それだけにお前が欲しい」
少年の顔で含み笑いをするラージャルの顔を、ティターニアはにらみつけた。
昼間のホテルでの戦い、ティターニアはラージャルにたった一人で立ち向かい、そして破れた。力、技、術。全てにおいて自分以上の実力者であり、これまでティターニアとして戦ってきた相手の中でもトップクラスの実力者だろう。果たして今の『アイ』に所属するヒーロー達の中で、彼とまともにやりあえるものが何人いるか分からない。
背後からコーヒーの香りが漂ってきた。かすかな衣擦れの音と共に、痩せぎすな体をした、初老の女性が現れる。ティターニアの隣を通ってラージャルの傍にまで来ると、真っ白なコーヒーカップをテーブルに置いた。その目はどこかぼんやりとしていて、何を考えているのか分からない。
「ご苦労。お前はもう下がれ。あとでこの者の見張りを呼ぶので、そのつもりでな」
女はラージャルにゆっくりと一礼し、隣室に去って行った。ラージャルはカップを取ると香りを楽しむように目を閉じた。かぐわしい香りから、かなりの高級品の豆だとティターニアにも分かる。そこらのスーパーで売っているようなものとは段違いだ。
「コーヒーとはいいものだな。余が生きていた時代のタイタナスにはなかった」
「さっきの人は何なの」
「この家の主だ。いや、主だった女の体というべきか。余がかつての侍従を転生させ、隠れ家の一つとして使っている」
適温に保たれているはずの部屋が、数度下がったように冷たく感じられた。
ラージャルがいつ頃この地に転生したのか、ティターニアも大達も、ごく最近だと考えていた。ひょっとしたらドマ達が先にこの地に転生し、黄金の仮面を使ってラージャルを復活させたのではないか、とも思っていた。だがそうではない。最低でも数か月は前からラージャルはこの時代に転生し、この国を奪う為の活動を始めていたのだ。
この家の主のように、この町に住む様々な人物が既に体を乗っ取られているのかもしれない。外見は変わらず、元の人間の知識や記憶も奪った、ただ魂が違う人間。それを見抜けるものが果たして何人いるだろう。
彼らは普段今までと全く変わらない生活を送りながら、一度王の命が下れば怪物へと姿を変え、命すら投げ出す。何故なら彼らにとって命とは不滅の魂であり、肉体ではない。王がこの世にいる限り、肉体とは幾度でも手に入る道具でしかないのだ。
夜に挨拶をして別れた友人が、翌朝には別人になって自分を殺しにかかるかもしれない。これほど恐ろしい事があるだろうか。
「なんてことを……」
「嘆く事はあるまい。適者生存は世の理。余はそれを魂にまで推し進めたいだけだ」
「あなたが王である、という前提の下ででしょう」
ラージャルは何も答えず、薄く笑うだけだった。
苛立たしかった。これが長年に渡り英雄として称えられた王の姿か。そんな思いがあった。
「私は昔、両親から古代から続くタイタナスの歴史と、その中で輝く英雄譚を聞いて育った」
軍人だった綾の父は、かつて国を守り戦った英雄達に対していつも敬意を表していた。そんな父の語る英雄譚を聞いて育った綾にとっても、それは同じだ。歴史の中で数多輝く英雄達の物語は、少女にとってとても魅力的に思えたものだった。
それを間近で見る事ができた。本来ならば喜ぶべきことなのに、彼らの心は邪悪に染まっていた。
「貴方の物語は大好きだった。今はもう違う。貴方は私の中で、狂気に堕ちた外道の一人になった。それがただ悲しいわ」
ラージャルはカップをゆっくりとテーブルに置いた。
「余も残念だ。お前が余に降るならば、将の一人として永遠に遇する事もできるのに。気持ちは変わらんか? 何故折れん?」
ラージャルは首をかしげてティターニアを見つめ、思い至ったように笑みを浮かべた。
「ははあ、あの弟子達と仲間に期待しているのか。あの若い巨神の子がお前を助け、余の計画を潰しうると? 面白いな、それは」
「さあ、どうかしら。あの子だけじゃない。貴方が二度目の人生の絶頂にいる時に、それを叩き潰すのは、ここから逆転した私かもしれない」
「気の強い女は好きだぞ、巨神の娘。特にその女の心を折る事がな」
不意にラージャルの背後で、影が盛り上がった。黒い粘液のような三つの塊が人の姿を取り、次の瞬間に頂点から裂ける。重力に逆らわず落ちていく粘液の皮の中から、三人の男女が姿を現した。
「陛下、手はずは整いましてございます」
ラクタリオンがうやうやしく述べた。
「うむ。皆も翌日に備えよ。アイオーナ、この女に見張りをつけておけ。相手は今代の巨神の娘、侮らんようにな」
音もなく立ち上がり、ラージャルはティターニアに近寄ると彼女の顎先に手を伸ばし、首を自分の方に向けさせた。
「しばしの別れだ、巨神の娘。明日この町で何が起こるか、ここから外を見ているといい」
「あなたも、私とあの子達を見くびった事を後悔する日がすぐに来るわ」
ティターニアは鋭く睨みつける。それだけしかできる事はなかった。
少年の顔に邪悪な笑みを浮かべつつ、ラージャルは部屋を後にした。
ティターニアは奥歯をかみしめた。ああは言ったが、明日彼らが起こそうとしている事が何なのかもわからないまま、この状況から逆転する方法が果たしてあるだろうか。あったとしても、間に合う事だろうか。
(諦めはしない)
弱気を跳ねのける。今の自分にできる事を全てやるのみだ。
「ずいぶんと無礼な口を利く女だね」
アイオーナが険のある表情を見せた。その感情に呼応してか、白い腕から蔦がぞわぞわと這い、うごめきながら生えてきていた。
「貴様のような女を見ると、苛立ってくる。強く、美しく、誇り高い。今までの人生に幸せしかなかったのだろうな。そんな女を親でも分からない顔にするのが、前世から私の楽しみだった。貴様もそうしてやろうか?」
「……あなたみたいな人に、私は何度も会った事がある」
「なに?」
「あなたのように嫉妬と恨みに固まって、外道に堕ちた女と、今まで何度も戦ったわ。最近でも、恨みを何年も募らせて、それをこの世にぶつけようとする人がいた。彼女は大勢の人を巻き込んで事件を起こした結果、私達に敗れた。おそらく死ぬまで檻の中にいるでしょうね。あなたもきっとそうなるわ。外道悪魔と誹られた後、冥府の底で這いつくばる事になるでしょうよ」
ティターニアの首に蔦が巻き付いた。窒息しない、苦痛を与えるギリギリの力で締め上げる。ティターニアは思わず苦痛の呻きを漏らしそうになるのを、必死にこらえた。この女を喜ばせるだけだ。
「ふざけるなよ。貴様、私を舐めているの? それとも今の状況を理解できていないの?」
怒りに我を忘れそうになるのを、隣でラクタリオンがとりなした。
「よしなさい、アイオーナ。巨神の娘に傷をつけるなと陛下が仰っておられたでしょう」
「黙りな、ラクタ。今からでも遅くない、陛下からこの女を殺す許可をもらってこい!」
「嫌に決まっているでしょう。ご自分でやってくださいよ。何故私がそんな楽しくなさそうな事をやらねばならんのですか」
心底嫌そうに顔をゆがめるラクタリオンの隣で、アイオーナが歯をむき出しにして怒りをぶつける。蔦は次第に強く、ティターニアの首を絞めつけていく。
「よせ、アイオーナ。ラクタリオンも。ここで下らん言い争いをするな」
不意の低い声が、室内にいた者の動きを止めた。アイオーナが声の主に向けて不快感を露わにしたまま口を開いた。
「私に命令するなよ、キリク。私に命令していいのは陛下だけ。陛下のお気に入りだからって調子に乗るなよ?」
声の主、キリクは無感情にアイオーナ達を眺めながら、続けて口を開いた。
「陛下の命だけを受けつけるというなら、先ほどの陛下の命を守れ。そんなにこの巨神の娘が気に入らんなら、この女が束縛を解いて逃げ出すのでも期待するのだな。そうすれば心置きなく、脱走者として処刑できるだろう」
キリクの冷たい言葉に、アイオーナが怯む。結局そのままティターニアの首に巻き付けていた蔦を緩めて腕に巻き戻し、離れた。
楽しみを邪魔されて、アイオーナは不満や怒りを隠そうとはせずに、ぶつぶつと苛立ちの言葉をつぶやいていた。
ラクタリオンが鼻を鳴らした。
「まったく、頭の線が何本か切れた女はこれだから困る」
「何か言ったか、ラクタ」
「これは失礼。ただの本音ですよ」
ラクタリオンが嘲笑うように顔をゆがめ、出口に向かった。アイオーナは舌打ちしたが、それ以上は反応せずに、同じく部屋を後にした。
軽くむせた後、ティターニアは顔を上げた。一人残ったキリクは、既に消えた二人の背に遠い目を向けていた。
「……昔は、あそこまで酷くはなかったのだがな」
ぼそりとつぶやく。その目は酷く悲しげに、ティターニアには見えた。
「陛下の悲願の為ならば、我らも変わらねばならんという事か」
「あなたはどうなの、キリク。剣聖とまで称えられた貴方も、既に変わってしまったの? 仁、力、勇に優れ、己の力を他者の為に使う、真の英雄とまで言われた貴方が、何故世を乱そうとする外道に従うの?」
一瞬、キリクは少し驚いたように目を見張った。だがすぐに元に戻ると、自嘲するように軽く笑った。
「お前の弟子にも同じことを聞かれた。面白いものだな、考える事は同じか」
「ミカヅチが?」
「ああ。ではあの若者に言った事と、同じことを言おう。我らは転生した時、陛下の命に逆らえぬように呪いがかけられている。いくら情に訴えても、こればかりはどうにもならん」
己の心を殺し、ただ淡々と、事実のみを述べていくようなキリクの口調だった。
「それでも」
「よせ、巨神の娘」
キリクがティターニアに首筋に、左手をかけた。アイオーナのように締め付けるわけではなく、ただ軽く抑えるように手を添える。だがそれだけで、ティターニアの体はピンで縫い付けられたように動かせなくなった。
キリクは顔を寄せ、ティターニアを見据えた。その瞳は哀しみに満ちていた。
「我らは皆、死より蘇った時点で、既に心の有り様から違う、別の生き物となっているのだ。これ以上俺を悩ませるな。俺に期待をするな。例え俺がどんな心持ちでいようと、陛下を裏切る事はできんのだ」
キリクが体を離した。そのまま背を向けて出入り口へと歩いて行った。
「俺には陛下を止められん」
キリクが残した最後の言葉に、ティターニアの心は沈んだ。
かつて思いを馳せた英雄達がもはや別人だと語られるのは、多少なぐさめにはなったのかもしれない。しかし今まで起きた事やこれから起きようとしている事を思うと、そんな事を考えてはいられない。
(大ちゃん……)
心中で名前を呼ぶ。今頃大は自分を探し回っているのだろうか。少なくとも黙って待つよりは、無謀な突撃をしかねないタイプだ。
灰堂や凛が何とか大をなだめ、次の策を練ってくれている事を祈るだけだった。




