16.天城綾はどうすべきか分からない
葦原市内の駅前にあるスポーツジム。日本の超人管理機関『アイ』が提携しているこの事務は、広い敷地と豊富な設備、なにより超人の持つ能力を鍛える為の専用設備を持っていることで有名な施設だった。
突然手に入れた超人の力を使いこなせない事によって生まれる被害は大きく、専門的知識を持ったものによる訓練が必要な者も多い。
特に葦原市は全国でも超人の数が多いことで知られており、こういった施設の利用者は大勢いた。
そんなジムを、今日も多くの人が利用していた。外は既に日は沈み、夜の闇が包んでいる。雲は強い風にちぎれ飛んで雨が降る事はないが、この時期特有の湿っぽい不快な空気は町中に広がっている。しかし窓一枚隔てた施設の中では空調システムのおかげで快適なものだ。
室内にはルームランナーの機械音やウェイトマシンが動いて金属同士がぶつかる音、それに利用者たちの談笑があちこちから聞こえてきていた。
そんな中に、天城綾も加わっていた。チェストプレスと呼ばれるウェイトマシンを使用しているところだ。座席につき、胸の左右にあるレバーを握って押し出す。それによって連動する重りが持ち上げられて、主に胸筋が鍛えられる仕組みだ。
押し出し、止まり、戻す。押し出し、止まり、戻す。正確なピッチで黙々と繰り返す綾の額や首筋には、汗がにじんでいた。
歯を食いしばりながらも美しいフォームを崩さないまま、彼女が持ち上げているウェイトは、成人男性でも余程鍛えていないと、動かす事もできないレベルだ。それを彼女は黙々とこなしていた。
やがてノルマの回数が終わり、レバーをゆっくりと戻すと、彼女はレバーから手を離し、大きく息を吐いた。
運動用のウェアが汗ではりつき、彼女の体のラインをはっきりと見せていた。全身はくまなく鍛えられているが、ボディビルダーのように、筋肉を魅せる為にひたすら大きくしたという風ではない。
しなやかでパワフルな筋肉をうっすらと脂肪がつつみ、女性的な美しさを損なわせていない。170センチを越える長身もあいまって、雑誌の表紙を飾るフィットネスモデルのような肉体美が、そこにはあった。
ジムを利用している女性たちは綾を大なり小なり、羨望や憧れの視線で見ていた。綾本人は他の事を考えていたため、それについてどうとも感じてはいなかったが。
(今頃、大ちゃんはどうしてるんだろう)
綾は持ってきていたスポーツドリンクを口に含みながら、思いをはせた。
今夜は大と一緒にジムに来ようと思っていたのだが、当の大は用があると断ってきた。凛や一輝と共に、日高那々美から聞いたラージャルの話を確かめに行くのだそうだ。
ラージャルの一件ならば自分もついて行こうと思っていたのだが、
「本当にラージャルが見つかるかどうかも分からないし、無駄足を踏ませちゃ悪いよ」
と、結局大達学生のみで向かったために、綾は一人でジムに来ていた。大としては綾がついていく事で、保護者同伴のような形になるのが恥ずかしかったのもあるのだろう。
(何もなければいいんだけど……)
奇妙な不安が綾の胸にあった。
綾が初めて大と出会ったのは、大がまだ小学生の頃だ。当時のかわいらしく、保護欲をかきたてられる大のイメージについ引っ張られてしまい、あれこれと手を貸してしまいたくなってしまう。大が偉大なる巨神の力に目覚めた今でもそれは変わらない。
大が世のために力を使おうと決意してくれたことはとても喜ばしいことだ。そして自分に課せられた使命とは、先人として大が間違った方向に進まないように諌め、導く事だと綾は考えていた。
大と凛が揃えば余程の事が起きない限りは命の危険はないだろう。そうは思うものの、やはり自分も行くべきかと綾が考えていた時だった。
「アヤ! アヤも来てたんですね」
背後から声をかけられて、綾は振り向いた。綾より二十センチは低い、丸顔の女が手を振って綾に近づいてきていた。ダークブラウンの髪と彫りの深い顔に大きな瞳をつけた彼女が、日本人でないことは一目で分かる。
「エイレーナ。あなたもここを使ってたの」
エイレーナ・エスランは綾の働くタイタナス大使館の職員だった。配属されてから二年程しか経っていない新人で、綾より五歳近く年下だ。しかし二人の地元が近い縁もあって、職場ではそれなりに親しい間柄だった。
「ええ。よく彼氏と来るんですけど、今日は仕事が忙しいみたいで。彼って最近いつも仕事のことばかり考えてるっていうか、もう少し私の事も気にしてほしいんですけど、でも頑張ってる彼も好きだから中々言い出しにくくって」
少し寂しげな表情を見せながらも、エイレーナの口は流れるように語っていく。彼女は職場でも、喋っていない時より喋っている時の方が多い。それに加えて、一年程前から付き合っているという彼の話になると、その口の速さは更に倍加する傾向にあった。
「アヤもお一人ですか?」
「え? ええ、今日はね。普段は友達と来たりしてるんだけど」
もっとも、友達よりも大と一緒に来る事の方が多いのだが。エイレーナはへえ、と声を出そうとしたところで、大事なことを思い出したように口を開いた。
「そうだ、一度聞こうと思ってたんですよ。ミリエラから聞いた話なんですけど」
「ミリエラ?」
別の同僚の名前が出てきて、綾は首をかしげる。
「最近アヤが若い男の子を自宅にくわえこんでるって言ってたんですけど、本当なんですか?」
「くわ……!?」
いきなり飛び出た言葉に、綾は絶句した。何を答えるべきか考えるために立ち直るよりも早く、エイレーナは硬直した綾に畳み掛けるように話を続けていく。
「ミリエラが見たって言うんですよ。アヤが日本人の男とマンションの前で腕を組んでるところとか、楽しそうに買い物してるところとか。アヤより背が高くて若い子だったっていうんですけど。日本人の若い子って、年齢がよく分からなくて困りますよね。ミリエラは高校生か大学生かっていうんですけど、あ、でもアヤってお母さんが日本人なんですよね。ひょっとしてそっちの親戚の方ですか?」
「ちょ、ちょっと待って。落ち着いて、落ち着いて話をさせて」
まくしたてるエイレーナを停めて、アヤはなんとか一息入れた。周囲の邪魔にならないように、それに加えて人に話を聞かれないように二人で移動する。そうしながら、どう説明すればいいかを必死に考えていた。
部屋の隅に辿り着き、人が近くにいないのを見て、綾は確認するように口を開いた。
「えっと、その噂だけど、聞いたのはミリエラから?」
「はい。といってもミリエラは別に非難してるって訳でもない感じで、むしろうらやましがってました」
ミリエラは今年で三十五の大台に乗った、綾がこの職についてからつきあいがある先輩の一人だ。仕事はできるし交友関係も広い。しかし男運はあまりないらしく、新しい男を見つけては大体一年と持たずに破局していた。
ミリエラの羨ましがる顔を少し想像して、綾は余計な事は考えまいと意識の隅に追いやった。先に目の前の同僚に説明する方が重要だ。
「そう、そのミリエラが言ってた、若い男と一緒にいるっていうのは本当よ。友達の親戚で、私が日本に留学した頃からの知り合いなの。近くの大学に通う為に部屋を貸してあげてるの」
ここまでは大体本当だ。大が昔の友人の親戚なのも本当だし、ちょうど大が一人暮らしを考えていた頃に、綾が空いた部屋にルームシェアを誘ったのも本当だ。ちょうど綾とルームシェアをしていた友人が出て行ったため、当時の綾としては軽い気持ちでの提案だった。詳細を語りだすと、きりがないくらいに複雑だが。
エイレーナが丸く大きな目を、驚きでさらに大きく見開いた。
「大胆ですね。そんな若い男の子と一緒に暮らすって、大丈夫ですか?襲われるかもとか思いません?」
「あの子が子供の頃から知ってるし、付き合いは長いから。間違いを犯すような子じゃないって知ってるもの」
嘘が入った。怪しまれてさらに込み入った話を突っ込まれるかと思ったが、エイレーナはふむふむ、と声に出しながら綾を眺めている。納得しているのか疑っているのか、表情から読み取るのは難しかった。
「へえ……怪しい関係ですね。噂話が立つのもしょうがないって感じ」
「勘弁してちょうだい」
「でも、じゃあですよ?」
意地悪げにエイレーナの口許がつりあがる。
「じゃあですよ? 逆にその子に手を出しちゃおう、なんてことは考えたりしないんですか?」
「な……?」
「あ、私は別にいいと思いますよ? 相手は未成年ってわけじゃないんでしょ? もう大学生なんだし」
「あ、あのね……」
「アヤだってずっと一人でいるつもりもないんでしょ? とりあえずやる事やってお互いを知るのもありだと思いますけどね」
「エイレーナ」
エイレーナの前に手を突き出して、綾は話を制止させた。これ以上話し続けるのは危険な気がする。エイレーナだけでなく、自分も何を口走ってしまうか分からない。
綾は必死に平静を保ちながら、一言一句、重たいものを積み上げるように声に出した。
「あの子の名誉の為に言うけど、私とあの子について、推測で変な事を言わないで。変な噂話であの子を傷つけたくないの。いい?」
「は、はい……? わ、分かりました。あ、それじゃ、私待ち合わせがあるんで、これで」
あまり触れるべきではないものを感じたか、エイレーナは足早にジムを後にした。
更衣室に繋がる階段を上がっていったエイレーナの姿が完全に見えなくなるのを待って、綾は大きく溜息をついた。
今年の春から大とルームシェアを始めて、色々な事があった。それによって大と綾、二人の関係も大きな変化を迎えている。
大は偉大なる巨神の加護を得て、ティターニアの正体が綾だと知ってしまった。綾は大と凛、二人を指導する為にティターニアとしての活動を再開し、復活したかつての宿敵とも戦った。
そして、大と綾は関係を持った。
その時の事を思い出すと、綾の胸の奥は熱く疼いた。大が綾の事を愛していると伝えてくれた時、綾は驚き、どう答えるべきか分からなかった。そのまま結局答えを保留し、今でもどうすればいいのか悩みながら、ずるずるとなし崩し的に関係を続けている。
大に惹かれている自分はいる。しかしこれまでの関係や年齢差といった様々な要因が、綾の心に待ったをかけていた。これ以上に一歩を踏み出していいのか、出せばどうなるのか、それが怖くてたまらない。
もし大との年齢差がもっと近ければ、出会い方が違っていたら、こんな風に悩む事はなかったのかもしれないと思う時もあるが、それこそ「たられば」だ。
「大ちゃん……」
声に出ない程度に呟いた。
大のことは大切に思っている。この地上で一番というくらいに。だがそれがどういう「大切」なのか、答えは未だに出せていなかった。




