04 来訪、天城綾
大は仰向けになり、目を開いた。白い天井に向かって手を伸ばし、力を込める。変われ、変われと念じるが、腕も体も一向に変化は起きなかった。
あの夜の、巨神の子を思わせる姿にもう一度なろうと、一人になった時を見計らって色々と試しているのだが、現在のところ全く上手くいっていなかった。
「ティターニアに教えてもらえたら、楽なんだけどな……」
彼女の正体は誰も知らない。彼女が世間から姿を消してもう何年も経っている。表に出ない戦いで亡くなった、正体を知られる事を恐れ姿を消した、様々な憶測が飛び交っているが、真実は不明なままだ。
あの夜に彼女に再会できたのは、まさに奇跡と言ってよかった。また彼女に会い、今の自分の気持ちを伝えることができたならば、どんなに幸せな事だろう。
「……ん?」
大は眉を寄せた。
自分の顔の前、ちょうどベッドと天井の間あたりの高さに、昨日見たティターニアの顔が、うっすらと現れていたのである。
それは半透明で、薄い青色に輝いていた。ちょうど映画で幽霊が描かれる時、似たような姿で描写されるだろう。
「なんだ?」
目の錯覚かと思い、目の前に意識を集中させる。すると薄青い光はどんどん広がっていき、数秒とかからずにティターニアの全身が描かれていった。
ふわふわとしていた姿は急速に実体を持ち、肌、髪、衣装と鮮やかに彩色がされていく。
ついには完全な姿を取ったティターニアが、大と向かい合う形で宙に浮かび上がっていた。
「ティターニア!?」
大は思わず手を伸ばした。伸びた指先がティターニアの胸元に触れると、それは霞ほどにも感触を伝えず、光の粒子となって消え去った。
光はすべて消え去ると、先程と同じ天井が見えるだけだった。どうやらただの幻だったらしい。
大の頭に混乱だけが残った。全く訳がわからなかった。脳に障害が起きて何かの幻覚を見たのか、それとも昨日打たれた薬液の副作用か。
はたまた、あの夜に自分がなった、巨神の子の姿と何か関係があるのか。
「疲れてるんだな……」
怖くなって、大は横に転がって目をつぶった。一度眠ったほうがいい。早まる心臓の鼓動を聞きながら、そう自分に言い聞かせる。
暗闇の中で鋭敏になった聴覚が、周囲の様々な音を拾ってきた。既に朝の通勤ラッシュも終わり、外を通る車が時たまいるだけだ。他には一階で洗い物をする祖母と、テレビを見ている祖父。いつもと変わらない。
不意に、ドアチャイムの音がした。祖母が洗い物をやめて、慌ただしく玄関に歩いていくのが聞こえる。誰か来たらしい。
大の友達が何か誘いにくるならば、先に電話でもいれるだろう。ということは宅配便か、宗教の勧誘か何かだろうか。祖父母の友人という可能性もある。
気にせず寝てしまおう。どうせ大した用事じゃないはず……。
「あらぁ、綾ちゃん! 久しぶりねぇ!」
祖母が嬉しそうに言った名前に、大の意識は一気に覚醒した。跳ね上がるようにベッドから起き上がり、一階に向かって走る。ほとんど転げ落ちるような勢いで階段を走り下りて、大は玄関で祖母と話している女性の姿を目にした。
年齢は二十代半ばから後半といったところだろうか。女にしては長身で、百七十センチを超えているだろう。長い脚がスキニーなジーンズで強調されていた。
艷やかな黒髪が、癖のないセミロングに整えられている。卵型の顔には薄めの口紅が少し目立つ程度で、他の化粧は大してしていないようだった。その口紅も、ふっくらとした唇の魅力を引き立てる為にやっているようだ。
そもそも化粧の必要がほとんどないほどに、目鼻のくっきりとした顔立ちをしている。日本人とタイタナス人のハーフである事が関係しているのかもしれない。
世間で人気のアイドルグループから、チャームポイントをかき集めて貼り付けても、彼女ほどに美しくなるかは疑問だ。少なくとも大はそう思っていた。
「綾さん!」
突然の再会による驚きと喜びで、大は半ば叫ぶような声を上げていた。
大が幼い頃から憧れた女性、天城綾が、大を見て微笑んだ。
「久しぶり、大ちゃん。元気?」
「元気元気、綾さんこそ! 今日どうしたの?」
「ちょっと近くまで寄ったから、どうしてるかと思ってね。お線香もあげたいし」
先程までの沈んだ気持ちなど、完全にどこかに行ってしまっていた。綾が家にまで来るなど、もう何年ぶりになるだろう。
隣で多喜が口元に手を当てて、楽しそうに笑っていた。
「あら大ちゃん、綾さんが来たらずいぶん元気になったねえ」
「ちょ、ちょっと、ばあちゃん。それはいいでしょ。それより上がってもらおうよ」
恥ずかしさに、大の顔に血がのぼる。あまりの興奮に、多喜が近くにいる事すらもつい忘れていた。
和室に上がり、綾は綺麗に正座をして、仏壇に手を合わせた。大も和室に置かれた座布団に座り、綾の姿を眺める。
初めて会った時、綾は長期留学生として、日本に来ていた。綾と大の伯父は、どこで知り合ったのかはよく知らないが交友関係があった。その縁で綾は友人を連れて、よく伯父に会いに来ていたのだ。
両親を亡くしたばかりだった当時の大にとって、綾はまさに立ち居振舞いも立派な、身近な大人の女性に見えた。ティターニアが強さと正しさの象徴ならば、綾は母性と美の憧れであり象徴だった。
今はもう、伯父も既にこの世を去っている。綾も手を合わせながら、伯父との思い出を懐かしんでいるのかもしれない。
綾がこうして伯父に会いに来てくれたのは、大も嬉しかった。
「でも本当に久しぶりねえ。綾ちゃんが就職してからは中々会う事もなかったし。お仕事は順調? タイタナスの大使館で働いてるのよね?」
多喜がグラスに麦茶を注いで持ってきた。綾は麦茶を受け取り、背筋をぴんと伸ばした姿で、ゆっくりと味わった。
「なんとかやってます。定期的にイベントの運営をやる関係で、いろんな人と会う事になりますから、仕事も飽きませんよ」
「綾ちゃんはすごいねえ。外国で留学どころか、ずっと働くなんて、あたしには無理だわ」
多喜がおどけるように肩をすくめた。
「綾ちゃんももう社会人が長いのよね。見違えたわ」
「ありがとうございます」
「うちの大ちゃんも、こんなに大きくなってて驚いたでしょ? 前は小学生だったもんね」
「いえ、実は時々、仕事の帰りに顔を合わせてましたから」
「そうそう、ちょうど学校で部活の帰りに大使館の前を通るから、そこで会う事があって。偶然ね? 偶然」
多喜が尋ねる前に、大が説明をする。
「へえ。でも変ねえ。高校から家に帰るのに、わざわざ大使館の前を通らなくても……」
そこまで言って、多喜は何かに気づいたように、口元を緩めた。
おそらく多喜が考えている通り、大はわざと大使館の前を通って帰宅していた。
帰宅ルートとしては少々遠回りになる為、本来ならば通る必要のない道なのだ。しかし大は、綾と会う事ができればと儚い希望を抱いて、そっちの道を通る事があった。無論、確率は低かったが。
「大ちゃんもそろそろ大学生なのよね。なんだか不思議な気分。ちょっと前までこんなに小さかった気がするのにね」
綾は右手を頭の近くにかかげて、背丈を表現する。
「それはさすがに、十年以上前だよ」
「そうだったかな。ここで大ちゃんを見てると、なんだかタイムスリップでもした気分ね」
綾はくすりと笑った。
「大学はどこに行くの?」
「比良坂大の理学部だよ。偏差値はそこそこだし、何より近いしね」
「綾ちゃんからも言ってやってよ。大ちゃんたら、一人暮らしする気はないって言うの」
頬に手を当てながら、多喜が横から口を挟んだ。
「お金がかかるから、って変に気を使っちゃって」
「ばあちゃん、それはもういいじゃない」
「でもねえ、この間襲われた件もあるでしょ? 時間かけて夜道を一人で帰るより、近くに住んだほうが安全じゃない?」
不意に綾の目が光ったように、大には見えた。
「襲われたというと、何か事件でもあったんですか?」
「いやね、ニュースでもやってたでしょ。この間の、人が襲われて怪物になるって事件。大ちゃんも一昨日の晩に襲われてね」
綾を安心させようと、大はすかさず口を挟んだ。
「でも、病院で調べてもらったけど、何もなかったから。怪我も病気もなしで、健康体だよ」
「次もそれで済むとは限らないでしょ? 大学までは高校より遠いんだから、お金を惜しんで暗い夜道を歩いてたら、また事件に合うかもしれないじゃない!」
「まあ、そうなんだけど……」
多喜が大の事を思って言ってくれているのはわかっているだけに、大も強く反論はしづらかった。
二人のやり取りを見ながら、綾は少し考える素振りを見せて、ふと思いついたように口を開いた。
「じゃあ、大ちゃん。いっその事うちに来ない?」
「うち? 綾さんの?」
予想もしていなかった言葉に、大の声が高くなる。
「うん。この間まで親戚とルームシェアをしてたんだけど、その子が帰国しちゃったから、部屋が空いてるの。引っ越そうかと思ってたけど、大ちゃんが来るならどうかなって。大学まで近いし」
「え、その、でも、いいの……?」
大の声は震えていた。
ひょっとしたらまだ自分は夢を見ているのかもしれない。そう思った。今にも目が覚めて、ティターニアと同じようにベッドの上で綾の幻影を見ているのに気付くかもしれい。
驚きに固まっている大を、反応が薄いと見たか、綾は困ったような笑みを浮かべた。
「ひょっとして嫌だった? まあそうだよね。やるなら一人暮らししたいよね」
「そんな事ない! 嬉しいよ! ルームシェアしたい!」
「そう? ほんとに?」
「ほんと! 本当! 綾さんがいいって言ってくれるなら、今日からでもお願いしたいです!」
慌てる大に、綾が困惑気味に目を瞬いた。
その様を見ながら、多喜は満足そうに微笑んでいた。
次回は18日(金)21時頃予定です。
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