"あの日"から半年
九月末。今年の残暑は長い間続いていたが、ようやく穏やかな気候を取り戻しはじめていた。外に出れば日差しはまだまだ強く感じるが、屋内で日陰にいるだけで、十分に快適になる。
居間の窓から、外の開けた風景が見える。道路の向かい側にある水田の稲穂が美しく実り、ついに収穫の時を迎えようとしているのが見えた。
国津大が、実家で毎年見かける光景だった。
「それでさ、大学の友達に支倉って女の子がいるんだけど、そいつが魔法使いで……」
大は居間で座布団にあぐらをかいて座りながら、土産話を披露していた。
百八十センチを超える背だが、引き締まった体をしていて、ひ弱そうな印象はみじんも感じさせない。
「ほう、そうかそうか」
祖父は大の話を聞きながら、何度も楽しそうにうなずいた。
伯父の命日である今日が、ちょうど休日と重なった事もあり、大は同居人の天城綾と共に、久しぶりに帰省をする事にしたのだった。
実家の祖父母とはたまに電話で話していたものの、その程度では大学生活を語るのには全く足りない。話せば話すほど、頭に連想ゲームのように語りたい事が浮かんでくるのだった。
話にちょうど一区切りがつき、大が祖母の淹れてくれた紅茶に口をつけた時、祖父は口を開いた。
「大よ、良かったな。やっぱりあの時、天城さんに頼んで正解だったか」
祖父の言っている事が何を指しているのか、大にはわかっている。綾がルームシェアを提案してくれた事だ。
ちょうど高校卒業してすぐの頃、大学への入学を待っていた時に、綾はこの家に現れた。そして、大学に近い綾のアパートを使わないか、と言ってくれたのだ。
それから同居を始めて以来、大は綾と共に、奇妙で邪悪な、様々な事件に関わる事になった。大にも大きな変化があり、事件を通じて多様な友人と知り合う事ができた。
「……うん。綾さんに会えてよかったよ。そうでなきゃ、ここまで楽しくなかったかも」
あれからもう半年が過ぎていた。
それこそ死ぬかと思った事もある。しかしだからといって、綾に出会わなければよかったと思った事は一度もない。
「ええか、大よ」
祖父は不意に真剣な顔で、大を見据えた。
「大事な人はな、ずっと近くで離さんようにしとけ。こっちが思っとるだけじゃ、相手には伝わらん。自分の気持ちはいつも正直に話せ」
「うん、そうだね」
「そうせんとな、お前なんかすぐ忘れられるぞ? なんせ相手の方がずっと年上で、しかもあんだけの美人じゃ。他の男がほっとかん」
「ちょっと、じいちゃん!」
あまりにあけすけな言葉に、大は思わず目を白黒させる。その姿を見て、祖父は笑った。
大は苦虫を噛み潰したような顔で、思わず頭をかいた。その仕草には、大きな体に似合わぬ子供っぽさがあった。
「まあええわ。お前はどうも流されやすいところがあるからな。あのくらいしっかりした人の方がお似合いよ」
「じいちゃん、綾さんの前でそんな事言わないでよ?」
大が綾をどう見ているかなど、祖父母からすればお見通しだ。とはいえ、ここまで率直に言われるとさすがに恥ずかしかった。
だが、こうやって恥ずかしがる事ができるだけ幸せなのかもしれない。大の人生は綾に大きく影響を受けていた。これからもきっとそうだろう。半年前に綾と再び会う事がなければ、今頃どうなっていただろうか。
綾と同居する事になった時の事を、大は思い出していた。
───・───
窓を開けた縁側から吹く柔らかい風を感じながら、天城綾は仏壇に手を合わせていた。
和室の畳と線香の香りが、心を落ち着けてくれる。仏壇に置かれている遺影は三人。大の両親と、伯父のものだ。
今日は大の伯父の、命日だった。
彼の生前の姿を最後に見たのは、綾が大学生の頃だ。もう八年は前になるだろうか。昔は彼の方が何歳も年上だったのに、今ではもう逆転してしまった。
綾が親しい関係にあったのは伯父だけで、両親にはほとんど会った事がない。だが、綾は三人全員に向かって報告するつもりで、深く祈っていた。
(大ちゃんは大丈夫。立派な子に育っています。私も、あの子の為に、全力を尽くしますから……)
もう既に、綾が大とルームシェアを行って半年になる。
この半年間で様々な事件が起きた。一人でいた時と違い、刺激と混乱に満ちている。だが充足感のある刺激だった。
やがて綾は目を開き、遺影に目を向けた。
足音が聞こえて、綾は振り返った。廊下から盆を持った老女が歩いてきて、仏間の真ん中にあるローテーブルに盆を置いた。
「綾ちゃん、今日は来てくれてありがとうね」
老女がにっこりと微笑んだ。大の祖母、国津多喜である。
多喜は盆から紅茶の入ったティーカップと、綺麗にカットされたリンゴの入った皿を、綾の前に並べた。
「もっとご馳走でも用意しようかと思ってたんだけど、できなくてごめんなさいね」
「いえ、お気になさらず。いただきます」
綾はティーカップを手に取り、紅茶の香りと温かみをゆっくりと味わう。淹れ方は完璧だった。
「そっちで、大ちゃんはちゃんとしてる? 綾ちゃんに迷惑かけてない?」
「迷惑なんて、そんな事はありません。毎日楽しいですよ」
本心である。二人の周りに起きた事件を追いかける日々は、確かに充実している。だがそれ以上に、他愛もない世間話をしたり、二人で遊びに行く事も、綾にとって大切な思い出として毎日記録され続けている。
「……ねえ、綾ちゃん」
不意に、多喜が神妙な顔をして綾を見た。
「こんな事を言うのはずるいと思うんだけど、大ちゃんの事、できるだけでいいから、面倒見てあげてね?」
「国津さん?」
「あたしもお祖父さんも、もう歳だからね。いつまで大ちゃんと一緒にいてあげられるかわからないし。あたし達がいなくなったら、大ちゃんは頼れる人がいなくなっちゃうから……」
綾の胸がどきりと高鳴った。大は幼い頃に家族を失っているが、それは彼らも同様なのだ。そして家族の喪失が大にどれほどの影響を与えたか、もっともよく知っているのが彼女たちだった。
「ごめんね、綾ちゃん。大ちゃんがこの世で一番頼りにしてる人は、多分綾ちゃんだから。だからもしあたし達に何かあっても、ほんの少しでいいから、大ちゃんの事を気にかけてやってちょうだい。お願い……」
「ちょ、ちょっと。顔を上げてください」
拝み始める多喜を、綾は慌てて止めた。
子供二人を亡くし、たった一人残った孫に対する愛情の深さが、その小さな体からにじんできているようだった。
「安心してください。大ちゃんは私にとっても家族のようなものですから。見捨てたりなんてしません」
「ありがとう、綾ちゃん。ごめんなさいね、本当にごめんなさい……」
消え入りそうな声で繰り返す多喜を落ち着けるように、綾は多喜の両手をしっかりと握った。手は彼女のこれまでの人生を語るように、骨ばっていて、硬くて、温かった。
大を見捨てるなどありえない。そう思った。多喜の頼みだからというわけではない。既に彼は、綾の人生と心に、大きな存在を占めているのだ。だが半年前の自分だったら、これほど強い気持ちは持てなかっただろう。
大と同居を始める事になった事件について、綾は思い出していた。