12.魔獣人
ベランダの真下で対峙する超人と獣人の姿を、一輝は柵から身を乗り出して見ていた。
巫女を名乗る女に会いに行ってからずっと訳の分からない事が起きていたが、これは極めつけだ。目の前で起きた幸太郎と大の戦いと変身に脳の処理が追い付かず、何をどうすればいいのか分からなかった。
「あーもう、大の奴バラしちゃったのかァ。まあしょうがないか」
一輝の隣で身を乗り出しながら、凛が眉を寄せた。やけに軽いノリで語る凛に、一輝の顔が歪んだ。
「ばらしちゃったってお前、あれってミカヅチだろ? 最近現役復帰したティターニアの弟子だってやつ」
「そうだよ」
「そうだよ、って、驚かねえのかよ!」
「だってボク達チームだし」
「な……!?」
思わず声が詰まる一輝の前で、凛は準備運動するように軽く肩をまわした。
「それじゃ、これからボクも行ってくるけど、もしこの事を誰かに喋ろうとしたら君の記憶を消すからね?」
「え?」
ぶっそうな言葉に目を丸くする一輝から目を離し、凛は両手を顔の前で組み、そして叫んだ。
「来たれ、秩序の法衣!」
突如として現れた黒い影が触手となり、凛の体を包む。そのまま触手は流れるように形を変え、次の瞬間には、凛の全身を宝石のように艶やかな黒い法衣が包んでいた。
「れ、レディ・クロウ……」
一輝のぽかんとした顔に、凛――レディ・クロウはいたずらっぽい笑顔を見せて、柵を飛び越える。
今日はこれ以上驚く事などもうないだろうと思っていた。大の変身が極めつけだと思っていた。だが、どうやら違ったようだった。
「もうわけわかんねえよ……」
幻想と神話が入り混じった非日常に入り込んだ感想を、一輝は誰に言うともなく漏らした。
─────
コンクリートの柵に囲まれたアスファルトのリングで、ミカヅチは獣人と対峙した。
幸太郎の着ていたシャツは膨れ上がった筋肉によって破れ、腰布のようにぶら下がっている。晒された肌は青黒く、光沢があった。肌の下に筋肉を無理矢理詰め込んだかのように全身が膨れ上がっていて、その大きさはボディビルダーも顔負けだ。あまりに筋肉が大きいので、重さに耐えているように、背は猫背になっていた。山脈のような肩の間に生えた首からは目に見える速さで白髪が伸び、肩甲骨当たりまで伸びて風に揺れている。そして顔についた髑髏を思わせる仮面は、完全に顔と一体化していた。
せいぜい数分、長くても十分程度の短時間で、人をここまで変える事が果たして可能なのだろうか。人智では計り知る事のできない神秘の力が働いていることを、ミカヅチは感じずにはいられなかった。
「それが、お前の守護霊なのか? 確かに強そうだけど」
気を紛らわしたくて、思わず聞いてみた。回答は雄たけびだった。
獣人は走って一気に距離を詰め、左の拳を振り回す。大振りだが早く、重たそうな拳だ。ミカヅチはスウェーでかわすが、獣人は矢継ぎ早に拳を繰り出した。ドマと違い、乱雑だがそれだけに予測ができない連撃が唸る。
先ほどの幸太郎の部屋での動きとは全く違う素早さと重さに、ミカヅチは心中で驚いた。完全に変身が終わり、今が本気という事なのだろうか。
鉄球を振り回すような危険な拳を弾き、棍で受ける。焦れた獣人が右の拳を大きく振りかぶったのを見て、ミカヅチは左手の棍で、拳が振り下ろされる前に獣人の右肩を突いた。
「ギャ!」
奇声を上げて獣人が怯む。その隙にミカヅチは銀の双棍を振った。両腕をしならせて両手の棍を振り、獣人の頭部を叩く。ミカヅチが本気で棍を打てば、人の骨など容易く折る事ができる威力を生む。
一度、二度と叩いたところで、獣人はたまらず両腕を上げてガードしつつ後ずさる。
「シッ!」
その隙に、ミカヅチは鋭い呼気を放ちつつ、横蹴りを獣人のがら空きの腹に叩き込んだ。
獣人は吹き飛び、数メートルほど転がる。胃液を吐き痛みに苦しむ声を上げているが、それを前にしてもミカヅチは臨戦態勢を解かなかった。
棍を打ち付けた時や蹴りを叩き込んだ時の感触で、相手の大体の強度は分かる。鉄柱に分厚いゴムを巻きつけたような獣人の体は、人間が変化したものとは思えなかった。仮にこの棍が剣だったとしても、切り裂くことはできずに筋肉で止まってしまうのではないか。
(秋山の体とは思えない)
頭によぎった考えに、ミカヅチは思わず顔をしかめた。
危険との遭遇があまりに急だった為に、考える事を忘れていた。今目の前にいる獣人は、幸太郎が肉体を変異させ、我を忘れたものなのだ。知り合って日は短いし、付き合いもまだ大して深いわけではない。だが友人を殴っていることに対して、ミカヅチではない、大としての心に嫌なものがよぎった。
果たして、獣は立ち上がった。怒りと敵意を瞳にたぎらせて、ミカヅチをにらみつける。
ミカヅチは奥歯を噛み締めた。単純に倒すだけならば十分可能だろう。だが幸太郎の体をこれ以上傷つけていいものか、ミカヅチの心は迷った。
「Beware my order!」
天からよく響く声が届いた。それに応じるかのように、獣人の立つアスファルトがうねり、植物の蔦へと変化して獣人の手足に巻きついた。
「ガァッ!」
拘束され、獣人が不快そうに叫んだ。縛る蔦を引っ張りちぎろうと暴れるが、蔦はしなって簡単には切れない。
「ちょっと、何してんのさァ」
声に顔を上げると、空からクロウが黒衣の裾をはためかせつつミカヅチの隣に舞い降りた。
「秋山をできるだけ傷つけたくない。どうにかしてあいつを元に戻さないと。何か方法は分からないか?」
「方法?」
「秋山が仮面のせいで変身したんなら、呪術とか魔術の類だろ?お前の専門分野だ」
「あァ、なるほど。リーダーの力を借りたいって訳だね?」
了解、とクロウが応える。それと同時に、獣人が一際大きな声を上げ、体を振り回すようにして蔦を無理やり引きちぎった。そのまま近くに停められていた軽自動車を掴み、風船か何かのように軽々と持ち上げる。
「おい、やめとけって。元に戻ったときに弁償する羽目になるぞ……」
ミカヅチのぼやきは当然届くはずもなく、獣人は二人に向かって自動車を投げつけた。ラグビーボールの遠投のように横に回転しながら自動車が迫る。ミカヅチはクロウの前に飛び出し、両手で車のバンパーを掴んだ。
重量と速度が生んだ巨大な衝撃を全身の筋肉で対抗して吸収し、車を右方に受け流してタイヤから落とす。だいぶ丁寧に降ろしたのだが、車体が大きく揺れて窓ガラスにひびが入った。修理代はかかるが、全損よりはマシだろう。
それを見ての獣の突進を、ミカヅチは両手を伸ばして受け止める。そのまま手四つの形で、二人は向かい合った。醜悪な牙で首筋にかぶりつこうとするのを、体を反らし、掴んだ腕で獣人の体を操作して防ぐ。人を襲い、食い漁ることしか考えていない赤い眼の光が、ミカヅチを突き刺した。
「クロウ! まだか!」
「えーっと……それ! 頭の髑髏を割って! そこに力が集中してる。その仮面が力の源なんだよ!」
確かにそりゃそうだ、とミカヅチは顔をゆがめた。確かに持って帰った仮面によって幸太郎が変異したなら、仮面が元凶なのは当然の事だ。さっさと思いつけ、と自分を叱りたくなるが、それを笑っている暇はミカヅチにもクロウにもなかった。
ミカヅチは手四つのまま跳躍した。
両足を縮めて二人のの両腕が作った空間に割り込み、一気に伸ばして獣の画面をけりつける。硬いブーツの底から、骨のように硬いものを踏みつける感触が届いた。
獣人の握力が緩み、自由になったミカヅチはそのまま獣人の顔を蹴って後方へ跳躍する。宙空で地面に落としていた棍を引き寄せ、手にしっかりと握り締めてアスファルトの上に着地する。そのまま休まず、うろたえる獣人に向かって走った。
一気に迫るミカヅチの手中で、巨神の加護から生まれた白銀の棍が、瞬く間に鋭い小振りな刀に変わっていく。
肉を引き裂こうと爪を振るう獣人と、刀を切り上げるミカヅチが交差した。
獣人の叫びが、敷地内にこだました。
髑髏の仮面が縦に切り裂かれ、そこから青白い光が血しぶきのように吐き出されていく。獣人は激痛に悶えながら身をよじり、倒れた。のた打ち回る獣人の体が、次第にしぼみ、青黒い肌も元の日に焼けていない肌に戻っていく。十秒ほどそうしていただろうか、獣人は完全にその威容をなくし、元の幸太郎へと姿を戻していた。
近寄って呼吸を確認し、ミカヅチは安堵の息をついた。呼吸はしっかりしているし、顔には切傷はなかった。先ほどの刀での一撃は、狙い通り仮面だけを切り裂くことができたようだった。しかし服の破れて素肌をさらした上半身には、痛々しいあざと擦り傷が残っていた。
「……くそっ」
嫌な気分になるのを押しとどめ、ミカヅチは仮面に目をやった。幸太郎を変貌させた仮面も髑髏から元の木製の仮面へと戻り、真っ二つに割れて幸太郎の傍らに落ちていた。
「この仮面が、秋山をさっきの姿に変えたのか」
変身を解き、大は仮面を二つとも拾い上げた。注意して見てみると、やはりラージャルの黄金の仮面と同じ造形をしている。だが仮面からは先ほどの獣人から感じたような禍々しい気配はなく、今ではただの玩具にしか見えなかった。
「凛。これ、何か感じるか?」
大は背後に来ていた凛に仮面を手渡した。凛は険しい顔で仮面をあれこれと触り、いじっていたが、やがて溜息をついた。
「駄目。全然魔力なんかは感じない。これを被ったら魔物に変身するとか、そういう魔道具の類じゃないね。術をかける為の触媒っていうか、何かのトリガーなのかも」
「そうか……」
大の気持ちは重かった。幸太郎がどうやって獣人に変貌したのか、誰がやったのか、何もつかめない。だが何かが起きようとしているのは間違いない。
とりあえず救急車を呼ぼうとスマートフォンを取り出したところで、階段を急いで駆け下りてくる足音が聞こえた。
「コウ!」
倒れた幸太郎の姿を見て、一輝は真っ直ぐ駆け寄った。
「コウ! 大丈夫か!?」
「死ぬような怪我はしてないと思う。とりあえず救急車を呼ぶよ。でもごめん、秋山を傷つけた」
「あ、いや……。まあ、無事ならいんだけどよ……」
場に呑まれてあいまいな反応をする一輝に頷いて、大は救急車を呼んだ。救急車が到着するまでの間に、この状況をどう説明するか考えなくてはならなかった。
先ほど獣人が投げた車を見ながら、凛は感心するように息を吐いた。
「すっごいパワーじゃん。これも守護霊のおかげ? それともさっきの仮面のせい?」
「どっちにしても、あんな怪物、いや怪人か? あんな連中を生み出せる何かがあるなら、放っておくわけにはいかない。灰堂さんと綾さんにも連絡しないと」
「守護霊なんて冗談くらいに思ってたけど、予想以上に大事件になりそうだね」
「なあ……おい、なあ……」
大と凛が同時に顔を向けた。一輝は混乱の極みの中で、なんとか声を絞り出すようにしていった。
「ちょっと、俺、もうついていけねーんだけど。誰か説明してくれよ」
一輝の目の前で正体をさらした事についてどうするか、大はこちらも考えなくてはならなかった。




