08 麻央の束縛
大の眼前で麻央は立ち止まった。麻央の右手が伸び、大の頬に掌がぴたりと触れる。
「あたしを好きになってくれた人は、みんなあたしのお願いを聞いてくれる。パパもママも、昔はずっとケンカばっかりだったけど、あたしがお願いしたらあたしに優しくなってくれた。あたしにひどいことしてた中学の同級生も、それを見ないふりしてた先生たちも、みんな最後はあたしを愛してくれた」
不意に、麻央の周囲が薄紅色ににじんだように、大には見えた。途端に大の心臓が高鳴り、全身の体温が上昇する。
目の前の麻央は変わらず微笑んでいるだけなのに、数秒前とは全く違う、艶めかしい姿に見えた。その仕草一つ、唇の動き一つだけで、絶世の美女があられもない姿で誘惑してくるような刺激が、大の頭と心に突き刺さってくる。
霞がかった頭で、大は必死に考えを巡らせる。何か危険な状況に、自分は陥っている。それは間違いなかった。
(今の、霧みたいなもののせいか……?)
麻央は本人も気付かない内に、超人として目覚めているのかもしれない。全身から発するフェロモンのようなものが、人の神経を刺激し、多幸感を与えることで、麻央に付き従う人間にしてしまう。それこそ今目の前で繰り広げられた、虚しい暴力のゲームを喜んで受け入れるように。
「あたしの事を嫌いだって言った人は、国津君だけ」
軽く麻央が溜息をついた。
「でも、国津君は新聞で時田君の事件を知っただけで、ここまで調べに来てくれた。それはあたしの事を心配してたから。あたしを愛してるからでしょ?」
「……ともだち、だからだよ……」
「いいよ、今はそれだけで。人前で言うのは恥ずかしいよね。でもあたしはあなたの事を分かってるから
」
大の話を全く聞かず、麻央は大の懐に体を寄せる。がっしりとした胸板に顔を近づけて、シャツ越しに麻央のすべすべとした頬が押し付けられると、鼓動が倍に高まったように思えた。
麻央の全身から発せられる蠱惑的な香りがさらに強くなる。全身に血がたぎって火がついたように熱くなり、脳が情欲で溶けるかと錯覚した。
このまま麻央の言葉を聞いていれば、己の自我さえも溶けてなくなり、麻央の奴隷と化すのではないか。
そう思っても体はまったく動かない。できるのはせいぜい顔を引きつらせる程度だった。
麻央が顔を上げた。いたずらに胸をときめかせるような微笑みで大を見つめ、やがて柔らかくくつややかな唇が、大の歪んだ口元へと迫る。
(まずい……)
女帝の口付けが触れるまであと数センチといったところで、突然軽快な電子音が鳴り響いた。
「もう、いいとこなのに……?」
不愉快そうに顔をふくらませて、麻央が顔を離す。音の出所に、麻央と大が視線を向けた。するりと伸びた麻央の手が、大のジーンズのポケットに突っ込まれる。
やがて引き抜かれた手には、スマートフォンが握られていた。電話の着信を通知する音声とバイブレーションが続いており、液晶画面には「天城綾」の名前が表示されていた。
「綾さんって、……この間会った、あのお姉さんだっけ。あたしと国津君の邪魔をしないでほしいな」
そのまま着信を切ろうとする手を止めて、麻央はにやりと口角を釣り上げた。
通話ボタンを押し、音声をスピーカーに変える。何も知らない綾の声が、周囲に広がった。
「もしもし、大ちゃん?」
綾の声に答えようとして、大は口を開いた。しかし舌は痺れたようにもつれ、声の代わりに空気が漏れるばかりだ。
麻央は大を見つめながら、口元に人差し指を当てていた。大が必死に体を動かそうとしても、麻央の力の方が大の意志よりも強いのだ。
仮に今の麻央に殺意があれば、カッターナイフ一本で大を殺す事ができるだろう。ある意味で、大がこれまで戦ってきた敵の中で最も恐ろしい相手だった。
「大ちゃん?」
反応のない事を不審に思ったような、綾の声が再度届いた。
「ごめんなさい。国津君は今電話に出られなくって」
「……あなた、誰?」
「薬師寺ですよ。この間映画館でお会いしました」
「ああ、あの時の……。それで、大ちゃんはどこ?」
「ごめんなさい。国津君はあたしの隣で眠ってて。起こすのもかわいそうでしょ?」
「え?」
大の頭が怒りに沸き立った。
この女、いきなり何を言いだすのか。違うと叫びたかった。しかし体は言う事を聞かず、ただ小さく震えるだけだ。
周囲の男達も驚いた顔を見せてはいたが、女王の話を邪魔するのはいけないと感じているのか、抗議する事はなかった。
「国津君、私の事が忘れられなかったんですね。自分から会いに来てくれて、やっと自分の気持ちに気付いた、って言ってました」
「……」
「すごく情熱的だった。もうあなたの所には戻る気はない、って言ってましたよ」
挑発的な麻央の言葉を、綾は黙って聞いていた。沈黙を勝利と受け取ったか、麻央の口はどんどん加速していった。
「だから、もうあたし達に関わらないでくれます? この後国津君ともう一度、あたし達の愛をお互い確認しあって、それから再度ご連絡しますから。もうあなたの出る幕はないんです」
「……大ちゃんに変わってもらえる?」
綾が冷ややかな口調で言った。麻央は鼻で笑いながら、
「さっきの話、聞いてました? 国津君はもうあなたに会いたくないって、そう言ってるんですよ?」
「あなたが言った事でしょう? 大ちゃんが言うなら、私と面と向かって言うはずよ」
全く崩れない綾の口調に、麻央の顔が固まった。完全勝利を確信していた余裕の表情が揺らぐ。
「私は幼い頃から、ずっとあの子を見てきた。あの子がどんな子かはよく知ってる。大ちゃんは仮に他の女を好きになったとしても、別れ話を他人に任せるような情けない真似はしない。そもそも、そんな事をしようとする下らない女を好きにならない」
「な……」
「あの子を愛しているというのなら、まずはあの子を知る事ね。自分が相手を理解しようとしていないのに、相手から愛されてると本気で信じてるの?」
電話越しの勝負は、今や完全に逆転していた。
ずかずかと勢いよく切り込む綾に、麻央は明らかに狼狽していた。思い付きから始めたちょっとしたからかいが、綾にあっさりとかわされ、逆に攻撃を受けている。
「こ、この……ッ」
麻央が続けて何かを言おうとした瞬間、風が唸りをあげた。
瞬きほどの間に麻央の手からスマートフォンが離れ、大の右手に収まっていた。
目を白黒させる麻央の前で、大は荒い息を繰り返していた。
鉛の服を着て全力疾走した気分だった。なんとか体を動かせるようになったのは、麻央が動揺し、使っていた力が不安定になった為だろう。
しかしそれ以上に、綾の自分を信頼してくれている言葉が大の体と心に、麻央の支配に打ち勝つ力を与えてくれた。
また動けなくなる前に、大は軽く後方に飛んだ。麻央から距離を取り、電話口の綾に話しかける。
「綾さん?」
「大ちゃん。一体どういう事なの?」
「ごめん、変な話を聞かせて。すぐに帰るよ。帰ったら全部説明する」
「……分かった。大丈夫?」
「今のところはね。ありがとう。……愛してる」
綾だけでなく、この場にいた皆に聞こえるように、大は最後の一言を、力強く、はっきりと言い放った。
電話口の向こうで、綾が驚いたような気配があった。
「……うん、後でね」
「後で」
電話を切ると、大は大きく深呼吸した。もう麻央の魅了の影響は感じない。人を魅了する彼女の力は、射程距離がかなり短いようだった。あるいは動揺の結果、力を使えないでいるか。
「話はもう十分だろ。俺は帰らせてもらう」
大は言った。男たちは皆、あっけにとられたような顔で大を見ている。今まで麻央の誘惑をはねのけた男を見たことがなかったのだろう。ただ一人、蘇我だけはどこかほっとしたような顔をしていた。
「やってる事は分かった。みんなで愛を証明したいなら好きなだけやれ。でももうこれ以上、お互いに傷つけあうのだけはやめろ。俺も友達を警察に突き出したりしたくない」
「……国津君。あなたはそれでいいの?」
麻央の言葉には大をなじるような声色があった。
「国津君はあたしの事が心配だから、ここまで来たんでしょ? あたしが大切だから、あたしの事を愛してるから! なのになんで、あの女のところに帰るの!?」
麻央はうっすらと涙まで浮かべて訴える。本人は本気でそう思っているのだろう。自分の行いが周囲から見てどれだけ異常なのか、責められたのは初めてなのかもしれなかった。
「俺が事件を調べようとしたのは、友達になにか危険が迫ってるんじゃないかと思ったから。俺が怒ってるのは、友達が酷い事をやってたから。帰るのは、これ以上関わりたくないからだよ」
「言ったでしょ。これはあたしをどれだけ愛してるか、見せてもらうためだって。国津君も見せてよ。あなたにもあるでしょ。あたしへの愛が!」
「……自分が愛されて当然だって思ってるなら、わざわざ確かめる必要ないだろ」
これ以上話す事はもうなかった。大は麻央たちに背を向けて、出口に向かって歩き出した。
最悪な気分だった。
次回は6日21時頃予定です。
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