倫瑠VS村長(1)
僕は布団の中で悶々としていた。
口元に当てた薄ピンク色のハンカチが僕の欲情を掻き立てる。
「はあ,いい匂い…」
これこそが唯一無二の日菜姫の匂いだ。村長の家で日菜姫が振りまいたあの匂い。
この癒しの匂いを嗅ぐ(か)ことで,深夜1時を回っているというのに聞こえてくるネトゲのBGMも,そのネトゲに熱中しているろくでなし女の存在も意識の外に追いやることができる。はあ,幸せ。
僕に至高の時間を与えているこのハンカチは日菜姫の家からくすねてきたものである。
栄が厠に行っている最中,部屋の中を見渡していたら偶然目に入ってた物だ。
一市民として窃盗犯の門をくぐることには当然抵抗があった。しかし,偶然目に入ってしまった以上,実行するしかなかった。据え膳を食わぬは男の恥だから。
日菜姫の香りに抱かれながら,僕は心地よいに眠気に包まれる。
思えば,日菜姫に出会って以降,脳内思考回路はすべて日菜姫で埋め尽くされている。今晩は必然的に日菜姫の夢を見るだろう。
ドンドンドンドン!
まるで空襲にあったかのような騒音と振動が,僕と日菜姫との夢での逢瀬を妨害した。
「学者さーん!」
ドンドンドンドン!
しわしわの村長の声に引き続き,再度の空襲。
いわずもがな,村長がバカみたいに力を込めて戸を叩いているわけではない。バカみたいにボロい古民家が,エフェクトを増長させているだけである。
「学者さん,おるんじゃろ? 出てきとくれ!」
僕も倫瑠も村長の声に反応しなかった。
ここは居留守でやり過ごす,という方針ではじめて僕と倫瑠の意図が一致したのである。僕は日菜姫との大切な時間のため,倫瑠はネトゲのためであり,僕の目的の方が遥かに崇高ではあるが。
「おるのはわかっとるんじゃ! 出て来んと戸を壊して侵入するぞ!」
それは聞き捨てならない,と倫瑠が声を上げる。
「今は留守よ! 家には誰もいないわ! 出直してきなさい」
ドアを叩く音が数秒間止まった後,再開した。
「学者さん,わしは騙されんぞ! 家に誰もいないんだったら,家から声が聞こえてくるわけないからのう」
「くそっ…見破られたか」
見破られるに決まっている。むしろ,数秒間だけでも相手を考えさせたことが奇跡的だと言える。
「声からして,学者さんは女子か? 女子に手荒な真似はしとうない。早うドアを開けてくれ」
ドアを叩く音が少しづつ強まっていく。
昨日僕が補強したとはいえ,所詮ボロはボロ,そろそろ耐えられなくなるだろう。
「嫌よ! 今忙しいの!ドア越しに用件を伝えて」
倫瑠がキーボードを打ちながら言う。ネトゲ廃人の言うところの「忙しい」とはたかが知れたものである。
「じゃあ,伝えるぞ。学者さん,今すぐこの村から出とってくれ!」
「はあ!?」
あまりにも不躾な用件である。倫瑠が元ヤンのような声を上げたことにも共感できる。
「私,民俗学調査のためにこの村に来ているの。まだ調査は終わってないわ。調査が終わるまで滞在していいって約束でしょ?」
「事情が変わったんじゃ」
「何か起きたの?」
「…日菜姫が作った料理はとても美味しゅうてのう。ラタ灯油もまた絶品じゃった」
「はあ!? 何言ってんの!?」
再び倫瑠が元ヤンのような声をあげたのもやむをえないだろう。なんせ,会話が一切成り立っていない。
もっとも,昨日村長と会話をし,村長の会話のパターンを掴んでいた僕には,村長の発言が意味することが分かっていた。
村長は何かを隠しているのである。
何か隠し事があるときに,村長には強引に話題を日菜姫のことにシフトする悪癖がある。
「事情をちゃんと説明しなさい!」
「日菜姫は実は楽器も弾けてのう。お琴なんかはプロ級の腕前じゃ」
「さっきから何なのよ! ひなき,ひなきってうるさいわよ! 私の助手もさっきから布団の中でひなき,ひなきって喘いでるし,『ひなき』って一体誰なの!?」
マジか。無意識のうちに声が出ていたのか。しかもそれを倫瑠に聞かれていたなんて,死んだ方がマシである。
本作に感想を寄せてくださった,結城亜美様,ありがとうございました。
亜美様は,なろうにおいて,「このくちづけを永遠に」という壮大かつ精緻なファンタジーを連載しています。家族を殺され,さらに自分自身も「死の毒」を盛られた主人公の復讐劇。豪快かつも繊細な主人公の人柄と,彼を囲む個性的な仲間との会話も楽しくてGOODです。
そして,亜美様のすごいところは,この作品を1年以上にわたり,毎日欠かさずに更新していることです。
つまり,菱川が,異能力小説を書き始めてエタったり,巫女モノ小説を書き始めてエタったりしている間にも,亜美様は同一作品を毎日更新していたということです。なんという意思の強さ。なんという作品への一途さ。
あまりにも自分とかけ離れたものを持った作者様に対して,菱川がいつも思うのは「この人の脳みそを解剖したい」です。「君の膵臓を食べたい」くらいに純粋な気持ちでそう思います。