復讐(1)
「倫瑠さん,もう帰りましょう」
パンパンに膨れたリュックを背負った僕が,布団の中で朝の陽光をやり過ごそうとしている倫瑠に声をかける。
「何? 寝言は言わないでよね」
倫瑠が顔を枕に埋める。
「格好的に寝言を言ってるのは倫瑠さんの方じゃないですか! 早く起きてください!」
「頭は覚醒しているわ。あんたと違って色ボケもしてないし」
枕に口を押し付けているため,声がくぐもっている。僕は,妖怪枕返しになって,枕ごと倫瑠を仰向けにひっくり返したいという衝動に駆られる。
「あんた,まだミズムシイタルコについて何も分かってないんでしょ?」
「そんなのどうでもいいです。海神伝説なんてどうでもいいです」
「あんた,何トチ狂ったこと言ってるの? 民俗学者になりたいんじゃないの?」
「民俗学者になる気も失せました。神様なんてクソくらえです」
「はあ? 日菜姫とやらが殺されただけじゃない。あんたが自暴自棄になってどうするのよ」
「日菜姫とやらが殺されただけ? 倫瑠さんは何も分かってない!」
日菜姫が僕にとってどれほどかけがえがなく,どれほど替えの利かない存在だったのかということは,無粋で,恋愛感情など生まれてこのかた抱いたことがない倫瑠には分かるはずがない。
「会って2日くらいしか経ってないでしょ? 思い出も何もないわよね?」
「倫瑠さんみたいな,がさつで,偏屈で,人でなしの引きこもりには分からないんだ!」
僕は,今まで募り積もった不満を捨て台詞に込め,家を飛び出した。
そうだ。民俗学から足を洗えば,この悪魔とももう関わらずに済むではないか。
皆が浜辺に出払っているためか,生活音が取り除かれ,村はまるで夜のような静寂を保っていた。
僕は日菜姫の死という悪夢から一刻も早く遠ざかるため,走るのに適しない砂利道を懸命に蹴飛ばす。
僕が獣の呻くような声を聞いたのは,いよいよ集落が終わろうという地点だった。
声を撒き散らすようにして泣いていたのは,一体どこからその声を出しているのだろうと訝しむくらいに華奢な男性だった。
僕は,道端でうずくまっていたその男性の背中を優しくなでる。
「栄さん,大丈夫ですか?」
泣いていたのは日菜姫の父親の栄だった。
栄がなりふり構わずに号泣するのも無理はない。大事な一人娘を突然奪われたのだから。
栄は,僕が受けているショックとは比にならないくらいのショックを受けているだろうし,僕とは違い,村を離れることによって悲しみを忘れ去るようなことも到底できない。
「娘が…私の娘が…どうして…」
栄が心の底から言葉を絞り出す。
「分かります。気持ちは分かりますから」
「分かる」という言葉は,相手の気持ちを推し量ることができないときの常套句である。本当は,たった今娘を失った父親の気持ちなど当人以外に分かるはずがない。
「信じられない…みんな,私の娘のことをなんだと思ってるんだ…」
こんな集落の外れにまで栄が逃れてきたのは,浜辺の喧騒から逃れるためだろう。
まるで見世物にするかのようにして日菜姫を囲む村人たち。涙を流す者も少なくなかったように思うが,単なる野次馬精神で来ている者も少なくなかったように思う。栄にとっては耐え難かったはずだ。
「ひ…日菜姫ほどによくできた子はいなかった…」
「僕もそう思います」
「どうして…どうして…」
栄の背中の震えが大きくなる。言葉にすればするほど増幅する気持ちで,栄の華奢な身体は破裂しそうである。
「本当に,本当に残念です」
「…あいつ,あいつだけは絶対に許せない」
「え?」
栄の一言に僕はハッとする。
「栄さん,日菜姫さんを殺した犯人が分かるんですか?」
「ああ…あいつに地獄を見せてやる」
栄を無理やり立ち上がらせたのが,復讐心という名の糸であることは明白だった。
「栄さん,やめてください。復讐は何も生みません!」
栄の足取りは,まるでゾンビのように覚束ない。
栄を止めなければならない。そう思い,僕は腕を伸ばしかけた。
しかし,栄と目が合った瞬間,固まった。
栄の目には,生気もないし,焦点も定まっていない。
ただ,これほどまでに力の込もった目を僕は見たことがない。
人間の目ではない。鬼の目だ。
「地獄を見せてやる…」
栄が民家の向こうへと消えていき,その姿が見えなくなるまで,金縛りにあったかのように,僕は一歩も動くことができなかった。
どうでもいいですが,この前神社仏閣を巡ったときに,七福神一式を祀ってある神社において,若い女性が,金運にご利益があるとされる大黒天にだけ長々と手を合わせているのを見て,「やはり世の中金か」と悲しい気持ちになりました。