最悪の朝(2)
八津葉は,バブル時代を思わせるようなカナリアイエローのボディコンをまとい,顔に厚化粧をまとっているが,見た目の地味さは相変わらずである。
「ブスには用はない! 熊蔵を出せ!」
「ブスって何よ!? あんた,大衆の前でまで私を侮辱する気!? 私はブスじゃないから!」
「ブスがブスかブスじゃないかなんていう不毛な議論をしている場合じゃない!」
僕と八津葉の前の人だかりが,まるでモーゼの十戒の波が割れるシーンのように捌けていく。
僕は割れた波の間を通って,八津葉の目の前に詰めた。
「熊蔵はどこだ!」
「パパはここにはいないわ」
八津葉の胸倉を掴むために上げた僕の腕が所在をなくす。
「は? なんでいないんだ?」
「みんながみんな,死体に群がるミーハーじゃないの」
僕は群衆を見渡す。浜辺に詰めかけている村人は合計200人くらいいるだろうか。ただ,たしかに熊蔵の姿は見えない。
熊蔵の身長は人の2倍程度あるため,いればすぐに見つかるはずである。
「まさか逃げたな!?」
「逃げたって何よ!? 家にいるわ!」
「そんなはずはない! 熊蔵は,自分の犯行がバレるまえにとっととズラかったんだ!」
「はあ!? 犯行!? まさか,あんた,パパが日菜姫を殺したとでも言うわけ!?」
空気が凍るとはこのことだろう。大勢の村人が同時に固唾を飲み,浜辺から音と動きが消えた。波音さえもどこかに行ってしまったようであった。
巳織村のような閉鎖的な村において,村人が村人を殺す,というのは,あってはならないことである。村人に衝撃が走るのも無理はない。
僕は真顔で答える。
「ああ。日菜姫さんを殺したのは,間違いなく烏丸熊蔵だ」
「…ちょ…ちょっとあんた,自分が何言ってるか,わ…分かってるわけ?」
八津葉の顔が引きつる。主に胸元にある脂肪のかたまりの揺れから,八津葉が震えていることも分かる。
「もちろん,僕は本気だ。熊蔵は,日菜姫が思い通りにならなかったから,逆上して日菜姫を殺したんだ」
「な…何勝手な妄想してるのよ! あんた,本当にキモいわね。話にならないわ」
「最初からブスと話す気なんてない! 熊蔵を出せ!」
「話にならないのはあんたの方よ! パパにはアリバイがあるんだから!」
「アリバイ…?」
「ええ。そうよ」
八津葉がしたり顔をする。
「な…なんだよ。アリバイって…?」
日菜姫が殺された時刻に,熊蔵が日菜姫とは別の場所にいたことが証明されてしまえば,熊蔵が犯人である可能性は消滅する。形勢は逆転し,今では八津葉よりも僕の方が慌てていた。
「こ…答えろよ。アリバイってなんなんだ?」
「日菜姫が殺されたのは,午前5時10分から午前5時40分の間よ。これは三島のジイさんが証言してるわ」
八津葉が目を向けた方向には,加齢のために肩は全く上がっていないものの,鼻の高さくらいまで手を挙げているおじいさんがいた。このおじいさんが,三島のジイさんということだろう。
「どういうことなんだ? この老人は,日菜姫が殺された現場を目撃したのか?」
僕の問いかけに,三島のジイさんが反応する。
「いいや,違う。それは違う。違うんじゃ。わしが見たのは,わしは決定的瞬間は見とらん。そんな恐ろしい瞬間は見とらん。わしはそんなところを見たら,心臓が弱いからのう。大変なことになってしまう。何も見とらん。ただ,ここは,この浜辺は散歩コースなんじゃ。わしは毎朝起きたときに散歩をするんじゃ。やっぱり健康のためには散歩が必要だからのう」
「そうよ。三島のジイさんは,毎朝,散歩のときにこの浜辺を通ってるの」
三島のジイさんの話し方がもたついているため,八津葉がすかさず通訳に入る。
「あんた,年寄りの朝が早いことと,年寄りのルーティーンが強固なことくらいは知ってるでしょ?」
僕は頷く。それは春の次に夏が来ることくらいに公知の事実である。
「三島のジイさんは,朝5時に家を出て,この浜辺を5時10分に通って,竹林の方にまで行くの。そして,来た道を戻って5時40分にまたこの浜辺を通る。これを寸分の狂いもなく毎日繰り返している」
「そうじゃ。わしは浜辺を通ったんじゃ。今日はよく晴れとったからのう。それに昨日の晩飯は…」
「今日,三島のジイさんが5時10分に浜辺を通ったときには,浜辺には何ら異変はなかった」
八津葉は三島のジイさんには極力喋らせない方針であるようだ。賢明である。
「だけど,5時40分に浜辺を通ったときには,そこに日菜姫の死体があった。つまり,日菜姫が殺されたのは,5時10分から5時40分までの30分間の間までということになる」
なるほど。たしかに30分の幅はあるものの,日菜姫の殺害時刻は特定できているといえる。
「そうじゃそうじゃ。わしはのう…」
「日菜姫さんが殺されたのが5時10分から5時40分までの間ということは分かった。その間,熊蔵にはどんなアリバイがあったって言うんだ?」
「ちょっと言いにくいんだけど…」
「もったいぶるな」
八津葉が視線を下に向ける。僕に下着姿を見られても恥ずかしがらなかった八津葉が,恥じらいで口を噤むとはどういうことだ。
「早く言え」
「分かったわよ。今朝の5時10分から5時40分の間,パパは家で私と喧嘩をしてたの」
「喧嘩?」
「…ええ。そうよ」
八津葉くらいの年頃の女性が父親と喧嘩することは珍しくないと思う。もったいぶるほどに大したことではない。そして何より,それはアリバイとしては全く大したことがない。
「悪いが,それはアリバイと言えないな。だって,家で喧嘩してたって言ったって,あんた以外にその様子を目撃していた人はいないんだろう?」
「ママも見てたわ」
「あんたの母親が見てたって一緒だ。身内は身内をかばうために嘘をつく。あんたやあんたの母親の証言は信用できない。熊蔵にはアリバイがないも同然だ」
「で,でも…」
口から先に生まれたようにやかましい八津葉も,さすがにここまで論駁されると言葉がないようだった。
しかし,僕が再び熊蔵の喚問を求めようとした矢先,八津葉に強力な助け舟が出された。
「私には聞こえていました。八津葉ちゃんと熊蔵さんの喧嘩の声が」
「金沢お姉さん…」
八津葉が発言者の名前を呟く。声を上げたのは,白髪交じりの長髪を後ろで結わいたオバさんだった。50歳半ばくらいであり,この村では「お姉さん」のカテゴリーに入るかもしれないが,僕からすれば紛うことなきオバさんである。
「私は八津葉ちゃんの家の隣の家に住んでるんだけど,熊蔵さんも八津葉ちゃんも声が大きいから,怒鳴りあってるのがずっと聞こえてたの。たしかに5時頃から1時間くらいずっと聞こえてたわ」
金沢オバさんは,年齢的に,決してお姉さんではないものの,年齢的に,耳がおかしくなったり,頭がボケたりということはないだろう。
金沢オバさんの証言は,熊蔵のアリバイを裏付ける,決定的な証言である。
「あんた,これで分かったでしょ。パパにはアリバイがあるの。大好きな日菜姫が殺されてご乱心なのは分かるけど,私のパパにとばっちりをかけないで」
悔しいが,僕の推理が間違っていたことを認めざるをえない。日菜姫を殺した犯人は熊蔵ではない。
だとしたら,誰が日菜姫を殺したのか。昨日の事件同様,犯人はミズムシイタルコ,ということになってしまうのだろうか。
熊蔵が犯人でないと分かり,頭に昇った血が冷めた途端,日菜姫の死という重たい現実が急にのしかかってくる。これ以上ここにいることはできない。
僕は脚の力が抜け,その場で崩れ落ちてしまいそうになるのをぐっとこらえ,集落の方へと駆け出した。
一応断っておくと,本作は現実世界を舞台にした作品ですが,人物・場所・ストーリーがフィクションであることのほかに,現実世界とは違う設定が一つあります。
それは,溺死体が比較的綺麗なことです。
ご存知の方もいるかもしれませんが,溺死はもっともグロテスクと言われることもある死に方です。
しかし,本作では,日菜姫が美しい死に顔で死んでいたように,溺死体が現実世界とは違ったものになっています。
理由は,作者がグロテスクなものが嫌いだからです。異世界転生ほどぶっとんだ設定ではないので許して下さい。
本話で第2章「第2の殺人」が完結しました。
次の3話分でスピーディーに2人殺したら,謎解きパートに移ります。