最悪の朝(1)
いつもと変わらぬ朝の心地よい太陽光にくすぐられながら,僕は最悪の朝を迎えた。
ボロ家の薄い敷き布団の上で微睡んでいた僕の耳を劈いたのは,決して聞きたくない報せだった。にもかかわらず,ボロ家の薄い壁は,その報せを容赦なく僕に届けた。
その村人の声は,聞き間違いようがないくらい,鮮明に聞こえたのである。
「松川んとこの日菜姫が殺された」
途端に覚醒状態となった僕の頭は,鈍器で殴られたような痛みとともに,再びその機能を失う。
嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ……
その言葉で脳内を埋め尽くさない限り,僕の意識は遠のいてしまう。
僕は急に重さが感じられるようになった掛け布団を払いのけ,裸足のまま外へと駆け出した。
昨日の深夜同様,浜辺には人だかりができていた。
僕は,最も見たくない光景を見るために,乱暴に人をかき分けた。
そこには美少女が仰向けで倒れていた。
顔には傷の一つもない。なんて美しい死に顔だろうか。
糸が切れた僕は,その場で泣き崩れる。
-なんで,なんで,なんで。
日菜姫との思い出が,走馬灯のように蘇る。
村長の家で日菜姫と初めて会った日のこと,日菜姫の家で日菜姫に会った昨日のこと…この二つのシーンが延々と繰り返される。あまりにも時間が無さすぎたのだ。
まだまだ日菜姫とはたくさん思い出を作れるはずだった。それなのになぜ日菜姫は先に逝ってしまったのだろうか。
「また溺死かのう」
老人の声が,僕の丸まった背中に覆いかぶさる。
溺死-昨日の深夜に死体が発見された男と同じ死因。
日菜姫が仰向けで倒れている場所は,男性の死体があった場所よりもさらに陸側である。つまり,死体が波の力でここに打ち上げられたということは考えられない。
まさか,日菜姫までもがミズムシイタルコの手によって生を葬られたというのだろうか。
僕は,辛くならないよう,なるべく日菜姫の顔は見ないようにしながら,日菜姫の周辺の砂浜に目を遣る。
ミズムシイタルコの名前はそこにはなかった。
とはいえ,日菜姫の死亡とミズムシイタルコとの関係を否定するのは早合点に過ぎる。仮に日菜姫がミズムシイタルコによって殺されたとしても,日菜姫がダイイングメッセージを残すとは限らない。むしろ聖母のように心の広い日菜姫が,最期の限られた時間を,犯人への復讐のために使うはずがない。
-ん? 何だこれは?
目線を日菜姫の顔からさらに遠ざけた僕は,日菜姫の踝の辺りに目を奪われた。そこには,縄のようなもので縛った跡が,赤く残っていたのである。片方ではない。その跡は両踝にくっきりと残されていた。
「誰だ!? 日菜姫さんを殺したのは誰だ!?」
僕は群衆に向かって雄叫びをあげる。
間違いない。日菜姫を殺したのはミズムシイタルコではない。人間だ。
その動かぬ証拠が踝に残った跡である。昨日,僕は日菜姫と会っているが,そのときにはこのような跡は一切なかった。
この跡は,日菜姫が殺された際に付けられたものに違いない。日菜姫は縄のようなもので両足を縛られ,身動きがとれない状態で,海に沈められ,殺害された。
極めて現実的な,人間的な殺害方法である。
突然叫び出した僕に,衆目が集まる。
その多くは,異常な僕の様子に怯える目だ。
本当は犯人の名乗りを待つ必要などなかった。なぜなら,少し考えれば,日菜姫を殺害した人間が誰であるかは自明だからだ。
僕は犯人の名前を叫んだ。
「烏丸熊蔵! 出てこい!」
日菜姫が亡くなる前日,僕は,熊蔵と日菜姫がやりとりをしていたことを知っている。
具体的なやりとりの内容は分からない。しかし,そのとき,日菜姫は目に涙を溜めていた。
「日菜姫,今日の俺の話は分かったな? 待ってるからな。ちゃんと来いよ」
松川家を去るときの熊蔵の言葉が思い出される。
状況から察するに,日菜姫は,熊蔵から,望まぬ関係を求められていたのではないか。
栄は熊蔵に借金をしているのだろう。熊蔵はその弱みを利用して,日菜姫の身体を要求した。借金のかたとして娘を寄越せ,というのは時代劇でもよく見るパターンである。
それに対し,日菜姫はその場で回答することができなかった。
父親のために自らの貞操を犠牲にしなければならない状況に置かれた日菜姫にできたことは,ただただ涙を流すだけだった。
そして,栄は「日菜姫,熊蔵の言うことは聞かなくていいからな」と日菜姫を守るポーズは見せたものの,かといって他に借金を返す方法があるわけでもなく,とりあえずその場をやり過ごすしかなかった。
熊蔵の発言から明らかなことは,熊蔵と日菜姫が,特定の時間,特定の場所で落ち合う約束をしていたということである。おそらく,これは深夜から早朝にかけてであり,場所はこの浜辺の近くだった。
日菜姫はとても優しい子である。最終的には,自己犠牲によって父親を扶ける道を選び,約束を守った。
とはいえ,いざ熊蔵と行為に及ぶ段階になると,日菜姫は抵抗した。人間ができているものの,日菜姫はまだ19歳の少女である。父親のためとはいえ,気持ちを割り切ることはそう簡単ではなかった。
抵抗する日菜姫に逆上した熊蔵は,日菜姫の足を縄で縛り,海に放り込み,殺害した。
非道そのものである。
「おい! 熊蔵! いるんだろ!? 出てこい!」
「うるさいわね! あんた,一体パパに何の用があるわけ!?」
熊蔵の代わりに返事をしたのは,日菜姫を囲んだ群衆の,もっとも中心から遠い位置にいた八津葉だった。
日菜姫ファンの方,どうかブックマークを外さないでください←
さて,本作に感想を寄せてくださった菅康様,ありがとうございます。
菅康様は,「白物魔家電楓〜残念美少女ロボットと儚くとも悲しい魔女の物語」をなろうにて連載しております。
菅康様は,菱川が一番最初に絡んだ作家様です。twitterで宣伝ツイートをボーッと眺めているときに,「家電」という言葉が目を引いたんですよね。当時,一人暮らしを始めたばかりで,十分な家電が家になかったから,というわけではなかったと思います。タイトルのインパクトは大切です。
そして,名は体を表すというのも真であり,個性的なタイトルに負けないくらい,この「白物魔家電楓」は個性的な作品です。ストーリー展開と表現の奇抜さ,ほど良い緩さ,そして楓ちゃんの可愛さに癒されること間違いなしです。一人暮らしを始めたばかりの僕が求めていたのは,家電ではなく美少女でした←