熊
気付くと,青色の空が橙色に染まろうとしていた。
ぶらりと立ち寄った浜辺で,阿久津と民俗学やミズムシイタルコについて話し込んでしまったのは計算外だった。
もしかしたら倫瑠のお眼鏡に適う活躍だったかもしれないが,こんなことをしていたら,肝心の日菜姫と過ごす時間が確保できない。
僕は,阿久津が,毎日船着場でリア・ディ◯ンの乗った黒船が到着するのを心待ちにしている,という訳の分からない話を途中で切り上げ,「次の用事がある」と言って阿久津に別れを告げた。
そういえば,どちらかといえば白を基調としていたが,沖合に,船着場にある木船とは格段にスペックの違う,モーターを積んだ,いわゆる「普通の船」が通行しているのを見かけた。
あの船は一体何なのだろうか。巳織村の村人以外にも,この村の近海を漁場としている漁船があるということだろうか。
もう少し時間があれば阿久津に質問してみたかったが,言うまでもなく,日菜姫が優先である。
日菜姫の家に向かう足取りは軽かった。まるで空を飛んでいるかの心地だった。すれ違った老婆に「あんちゃん,なんでスキップしてるんだい。気色悪いわね」と言わても気にならないくらいに僕は舞い上がっていた。
日菜姫の家の前に立った僕は,思わずガッツポーズをする。昨日と違い,今日は家に日菜姫がいる。なぜ分かるのかといえば,家から日菜姫の匂いが漏れ出ているからである。
心拍数が300を超えていることを自覚しながら,僕は戸をノックする。
「日菜姫さーん」
奇妙なことに,しばらく待っても返事がなかった。
言わずもがな日菜姫は引きこもりではないので,居留守など使うはずがない。
僕は再びノックをした。
すると,日菜姫でも栄でもない,野太い声が返ってきた。
「帰ってくれ。今,取り込み中なんだ」
「どなたですか?」
「こっちの台詞だ。お前は誰だ?」
客人に対して,あまりにも無骨な対応である。とはいえ,中には確実に日菜姫がいるのだ。こんなところでヘソを曲げて帰るわけにはいかない。
「僕は日菜姫さんの特別な人です」
プロポーズに対してはまだ返事はもらえていないため,婚約者とまでは言えないが,すでにプロポーズはしているので,プレ婚約者といったところだろう。要約すると,「特別な人」である。
「名前は?」
「絃次郎です」
家の中から会話音が聞こえる。会話の内容までは聞き取れないが,ハープの音色のように清らかな声は,間違いなく日菜姫のものだ。
しばらくして,先ほど僕に無骨な対応をした声が、返事をした。
「日菜姫はお前のこと知らないと言っているぞ」
え? 僕は特別な人なのにそんなはずは…。
…いや,待てよ。
しまった。日菜姫に対して名乗るのを忘れていた。
日菜姫は,僕の顔を覚えていても,「絃次郎」という名前にはピンと来ていないのである。プロポーズする前に名乗るべきだった。
「今,俺と日菜姫は大事な話をしてるんだ。出直してくれ」
だだだだだだ大事な話? 日菜姫との大事な話とは一体何なのか? こいつ,一体日菜姫の何なんだ? こいつが日菜姫の間男だったら,3秒以内に殺す。
僕は鍵のかかっていない戸を強く引いた。
目に飛び込んできたのは,三者が囲炉裏を囲んで座っている光景だった。日菜姫,栄,そして,熊である。
「熊だ!」
「違う! 俺は烏丸熊蔵! 人間だ!」
腕と脚は毛むくじゃらで太い。顔もだいたい毛に覆われている。この男は間違いなく熊である。ティディーベアなどの可愛い熊ではない。山奥に生息する獰猛な熊である。
「熊だ! 名前も熊だし!」
「お前,なんなんだよ!? 無断で他人の家の戸を開けて,俺のこと熊呼ばわりして…」
熊の目には,明らかに僕に対する敵意が宿っていた。熊との戦闘は命懸けである。そんなことは分かっている。しかし,日菜姫を熊から守るためには一歩も引くわけにはいかない。
しかも,僕は,熊の隣にいる日菜姫が,目を腫らし,泣いていることに気が付いた。熊のことが怖いのだろう。当然だ。
「日菜姫さん,僕が来たからにはもう大丈夫です。絶対に助けますから」
僕は指をポキポキと鳴らす。
舞台は整った。
ヒロインの絶体絶命のピンチ。そこに現れたヒーロー。
ここで僕が悪党を倒し,日菜姫を救い出せば,残るシナリオは僕と日菜姫のゴールインである。
「うおおおおお」
僕は拳を上げ,熊に突進していった。
「喰らえ! 怒りのサンダーボルト!」
立ち上がった熊の素早い回避行動により,僕のげんこつは空を切った。
そして,熊の怪力によって僕の腕はねじ伏せられ,僕は,顔を地面に押し付けれられる格好になった。この間,約3秒。
「日菜姫さん,今のうちに逃げてください!」
熊と人間との間の歴然とした身体能力の差を前にして,僕にできることは時間稼ぎだけだということを悟る。日菜姫のために犠牲となれるのならば,僕の人生に悔いはない。
「日菜姫,その宍戸という男は危険だぞ! 必ず2メートル以上の距離を開けるようにしろ!」
「え? は…はい」
父親である栄の教えに従い,立ち上がった日菜姫が半歩後ろに下がる。
「いやいや! 日菜姫さん,逃げる相手が違います! 逃げるべき相手は僕ではなく,凶暴な熊です!」
「茶番はやめろ」
「うああ…ギブギブ!」
熊によって腕の関節をあらぬ方向に曲げられそうになった僕は,思わず白旗を上げた。
意外なことに,熊は情け容赦を持っていて,ちゃんと力を弱めてくれた。
「栄,この意味不明な侵入者のことを知ってるのか?」
「ああ,昨日,うちを訪ねてきた民俗学者の助手だ。昨日,熊蔵のことを紹介したんだが,熊蔵の家には来なかったのか?」
「分からん。今日は留守にしていたからな」
僕はようやく状況を把握した。
熊蔵は熊ではない。僕が今日訪れた烏丸家の戸主である烏丸熊蔵,つまり人間である。
同時にもう一つ合点がいく。八津葉が可愛くないのは,熊蔵の子供だからだ。熊の遺伝子はあまりにも強烈である。
他方で,新たな疑問が生じた。熊蔵が熊ではなく,日菜姫を襲おうとしているわけではないのだとすれば,どうして日菜姫は泣いているのか。今の日菜姫には,天真爛漫な美少女の面影はない。
「とんだ邪魔者が入っちまったな。仕方ない。こいつを排除がてら,俺ももう帰るとするか」
熊蔵は,人間離れした怪力によって僕をお姫様抱っこした。
「日菜姫,今日の俺の話は分かったな? 待ってるからな。ちゃんと来いよ」
日菜姫は首を縦に振ることも横に振ることもしなかった。込み上げてくる嗚咽をこらえるのに,ただ必死になるだけだった。
「日菜姫,熊蔵の言うことは聞かなくていいからな」
栄はそう言って,震える日菜姫の肩を抱いた。僕がこの家に訪れるまでの間に,一体三人はどのようなやりとりをしていたのだろうか。
僕も日菜姫を抱きしめて慰めたい気分だったが,生憎,熊蔵にお姫様抱っこされているため,それどころではない。
熊蔵は栄を睨みつけると,僕を運んだままこの場を辞去しようとした。
「ちょっと待って下さい! 僕,日菜姫さんに用事があるんです」
「どうせロクな用事じゃない。熊蔵,さっさとそいつを連れて帰ってくれ」
どうして僕は栄にここまで嫌われてしまったのか。父親の反対という障害があった方が恋が燃えるというパターンもある,と開き直るしかないのだろうか。
家の出口が近付いたところで,僕は日菜姫に手を振った。
「日菜姫さん,さようなら。またね」
日菜姫は無理やり笑顔を作ると,一言,
「さようなら」
と言った。
このときの僕は,まさかこの会話が日菜姫との最後の会話になるだなんて,夢にも思っていなかった。
今日は,東京の寺社仏閣を巡ってきました。
高層ビルが立ち並ぶ都会に,ひっそりと,しかし確かな存在感を携えて存在するお寺や神社。神聖なものに触れ,心が洗われました。
写真もたくさん撮りました。
無論,ほとんどが巫女さんを盗撮したものです。