ブス
恐れた通り,夢での日菜姫とのデートは,倫瑠にいびられる悪夢に取って代わられていた。魘されながら僕が目覚めたのは,正午過ぎだった。
昨晩寝たのが遅かったということもあるが,それにしても怠惰である。倫瑠はというと,案の定,まだグーグーといびきをかいて寝ている。
思うに,生活リズムというものは,否応無しに生活をともにしている人に合ってしまうのだと思う。身震いする話だが,怠惰な人と一緒に暮らしていると自分までも怠惰になってしまうのだ。
「烏丸の家に行きなさい」
僕がルンルン気分で家を出ようとしたら,背後から倫瑠の指示が飛んだ。
いつもならば,倫瑠はあと数時間は目を覚まさないはずである。驚いて足を止めると,さらに言葉が追いかけてくる。
「どうせ,また日菜姫とやらの家に行くつもりだったんでしょ」
「…なんで分かったんですか?」
「スキップに鼻歌なんてあからさますぎるわ。あまりの騒がしさに起きちゃったじゃない。こんなに不快な朝はないわ」
もう昼だが。
というか,スキップに鼻歌は完全に無意識だった。恋の魔力とは誠に恐ろしい限りである。
何はともあれ,僕は僕で倫瑠のせいで悪夢を見せられて最悪の目覚めだったので,お互い様である。
「とにかく,烏丸の家に行きなさい。その日菜姫とやらの父親が,烏丸が詳しいって言ってたんでしょ。ミズムシイタルコについて根掘り葉掘り聞いてきなさい」
「いや,でも…」
「日菜姫本人にハンカチ盗んだことチクるわよ?」
「烏丸の家に行ってきます」
もっとも弱みを掴ませてはいけない人間に弱みを掴まれたことを激しく後悔しつつ,僕は浜辺とは逆の方向へと歩を進めた。
烏丸の家は山の入り口にあった。
村長の家と変わらぬぐらい広いが,ツタやら何やらに囲まれた様子は,ボロ家を通り越し,もはや廃墟である。
僕は戸が壊れないように細心の注意を払ってノックする。
「失礼します。民俗学調査に来ました」
「ちょっと待って!」
聞こえたのは想像に反し,若い女性の声だった。日菜姫と同じ年くらいの娘がこの村にはまだいるということらしい。沈みかけてた心が浮き上がり始める。
「どれくらい待てばいいんですか?」
「えーっと,今日着るお洋服を選ぶのにかかる時間だから,1時間くらいかしら」
「そんなに待てません」
コミュニティーの人間を信用し切っている田舎では,戸に鍵をかけるという習慣がない。この村で戸に鍵をかけているのは,それこそ倫瑠くらいである。
僕は,予想通り無施錠だった戸を開け放つ。
上下ともに真っ赤なランジェリー姿の若い女性が,驚いて振り返る。
「きゃあっ! 見ないで! 変態!」
ラッキースケベキターーーーーー!!…と,僕の心が大気圏を超えて上昇しかけたところだったが,女性の顔を見た瞬間,打ち上げ失敗した。
可愛くない。日菜姫と比べるまでもなく,全く可愛くない。
「ちょっと! 何そこでボーッと突っ立てるのよ! 早く出て行って!」
僕がガンジーのように安らかな心でいるというのに,女性はひどい癇癪を起こしている。
「いや,気にしないでください。僕は,可愛くない子が目の前で着替えてても,全裸踊りをしていても一切気になりせんので」
女性の癇癪が極まる。
「はあ!? 可愛くないですって? 一体誰のことを言ってるのかしら?」
「あなたです」
「はあ!? あんた,目が腐ってんじゃないの!? 視力がコウモリ並みなんじゃない!?」
「はあ…面倒くさい…」
僕は部屋の中程まで侵入し,そこに敷かれていた座布団に腰掛けた。
手を伸ばせば触れられるくらいの距離に下着姿の女性がいる。
「ちょっと! 何勝手にくつろいでるのよ!? 私は入室許可与えてないからね!」
「烏丸熊三さんはどちらですか?」
「パパ? さっき家を出て行ったけど…」
「いつ頃戻りますか?」
「わからないけど,そんなにかからないんじゃない?」
「じゃあ,ここで待ってます」
「分かったわ…っておい! ど変態! ここで待ってますじゃないわよ! レディーが着替え中なのよ! 一刻も早く出て行って!」
「いや,だから,気にしないでくださいって。僕はあなたのことを性的な目では見ていないので。円空の彫った女性の彫刻を鑑賞しているかの如き穏やかな気持ちです」
「そんな言い訳通ると思ってるの!? ほら?本当は私のナイスバディーに興奮してるんでしょ?」
そういって,女性は胸を寄せた。
派手なデザインのブラジャーの上に大きな谷間が出現する。たしかに胸はある方だと思う。Eカップくらいあるだろう。
「いいえ。興奮しません。顔がタイプじゃないんで」
「は!?」
「顔がタイプの子の胸部に付いているのはおっぱいですが,そうでない子の胸部に付いているのは単なる脂肪のかたまりです」
「くそお。悔しい…。これならどう?」
女性がブラジャーのホックを外そうとしたので,僕が腕を掴んで制止する。そんなことをされたところで,僕には一切の責任が取れないからである。
「一体なんなのよ!? この村一番の美少女に対してその仕打ちは一体何!?」
「それは聞き捨てならない!! この村で一番の美少女は日菜姫さんだ!!」
盧舎那仏のような穏やか表情をしていた目の前の男が,突如不動明王のように目を釣り上げたのだから,女性は唖然とする。
「な…何よ。日菜姫なんて,ただのぶりっ子のブスじゃない」
「おい! 撤回しろ! 生まれてきたことも撤回しろ! 日菜姫さんがブスなわけがない! あんた,ブスの分際で失礼だぞ!」
「言っとくけど,あんたの方が失礼だからね!!」
女性が元から歪んでいた顔をさらに歪ませる。
「頼むから死んでくれない? あんな色気のない女のどこがいいわけ?」
「重ね重ね無礼だぞ! 日菜姫さんは色気ムンムンだ! 全裸のあなたよりも,洋服を着た日菜姫様の方が格段エロい!」
洋服どころか,着ぐるみだろうが鎧だろうが,何を着てたって日菜姫の方がエロい。
「あんなアマのどこがいいのよ? ダンスだって私の方がセンスがあるんだからね」
「そんなはずない! 日菜姫さんのダンスは一級品だ!」
実際に見たことはないが,そうに決まっている。
「あの女狐の色目にやられたやつはこの村にたくさんいるけど,あんたほど最低な奴に会ったのは初めてだわ」
「僕も,あんたほど身も心もブスな女に会ったのは生まれて初めてだ!」
「さっきからあんたって呼ばないでよね! 私は烏丸八津葉。ちゃんと可愛い名前があるの」
「ブスの名前なんかに興味はない!」
同時にブスに名乗る必要はない。僕は八津葉から目を反らすと,あぐらで居直った。
「とにかく,早く出て行きなさいよ! あんたみたいな奴,パパには絶対に会わせないから!」
「それは困る! 僕はあなたのお父さんに用があるんだ!」
「私の下着姿を見た上,ブスと連呼して,その上で私の父親と会おうだなんていい度胸ね? 立ちなさい!」
八津葉の誘いに応じ,僕がファイティングポーズで立ち上がると,その瞬間,あそこに衝撃が走った。
「ぐうあああ,その攻撃は反則だああ」
僕は男子にとってもっとも堪え難い痛みに悶え苦しむ。
「痴漢には金蹴りって相場が決まってるの。じゃあね」
八津葉はうずくまる僕を持ち上げると,そのまま外へと追い出した。
その際,八津葉の脂肪のかたまりが何度も当たったが,やはり高まらなかった。
一応断っておきますが,この話は,菱川の本意ではありません。ストーリー進行の必要上,泣く泣く挟んだ話です。
菱川は女性に対して,このような暴言を吐くことはありませんし,もっといえば,菱川はアイドルヲタク仲間から,よく「B専」と揶揄される人間です。
ですから,日菜姫教に入信しているとはいえ,八津葉にヒドイ言葉を吐いてしまった絃次郎には,菱川から厳しく注意しておきます。