民俗学
諸君は「民俗学」という学問をご存知だろうか。
お,早速手の上がったそこの君,答えてくれたまえ。
…ふむふむ,「世界の諸民族の文化や社会を研究する学問。ただし,国により,学派により,位置づけや意味合いに異同がみられる」か。
Wi◯ipediaからそのまま引いてきたかのような行儀のよい回答をありがとう。…あ,実際にWi◯ipediaから引いてきたって? 正直でよろしい。
ただ,残念ながら,それは「民俗学」ではなく,「民族学」の説明だ。「民俗学」と「民族学」は音の響きも一緒だし,なんとなく土臭い感じも共通するが,全く違う学問である。
…お,また手が上がったね。後ろの席の君。
…そうそう。赤い服に赤いメガネを付けた君。答えてくれ。
…なるほど。「民家に干してある洗濯物を盗撮する学問」か。
おそらく君は民俗学の権威である宮本常一先生のことを知りつつ,彼を単なる破廉恥な奴だと曲解しているようだね。
たしかに宮本先生は,民家にある洗濯物の写真をよく撮っていた。しかし,それは決して自らの性欲を満たすためではない。洗濯物の様子からその地域の人々の生活状況を知るためなのだよ。
では,そろそろ僕-宍戸絃次郎から民俗学とは何かについて説明をしよう。
民俗学とは,端的に言うと,一般庶民の「歴史」を研究する学問である。
諸君が「歴史」と聞いて思い浮かべるのは,義務教育で学ぶ「歴史」だろう。ここでは,織田信長とか伊藤博文とか,およそ一般庶民とはいえない人たちがガンガン出てくる。語弊をおそれずに言えば,義務教育で学ぶ「歴史」は,有名人史だ。
他方,民俗学が対象とするのは,いつの間にやら生まれ,生きた形跡を残さないまま死んでいく一般庶民の「歴史」である。
村のおじいちゃんおばあちゃん,若者,子供といったどこにでもいる人たちの「歴史」。
彼らがどのように生活し,どのように思考し,何を崇拝し,何をおそれて生きてきたのかなどを研究する学問が民俗学なのである。
あまり厳密な説明ではないが,とりあえずはこのように理解してくれ。
僕は民俗学者の卵だが,「歴史学者は楽でいいな」と羨ましくなることが多々ある。もちろん歴史学者も歴史学者なりの苦労があるに違いないが,民俗学者には歴史学者にはない苦労がある。
それは,民俗学を研究するための文献が圧倒的に少ないということである。
民俗学の資料は主に口頭伝承だ。
政治家や官僚と違って,一般庶民は自己の功績を文章に残すことは滅多にない。
天武天皇が川島皇子らに命じて日本書紀を作らせたように,村の老人Aが村人に命じて彼の生い立ちを一冊の本にまとめてもらうことができるだろうか。
答えはノーだ。
老人Aがいくら頭を下げて回っても,誰もそんな無意義なことはやりたがらない。
さらに,一般庶民は自分自身の生活を営むだけでいっぱいいっぱいなので,清少納言のように身の回りの些細なことをいちいち文学っぽく加工して披瀝している余裕はない。
そもそも,昔の庶民には文字を書けない者が多い。話すことに比べ,文字を扱うことにはかなりの文明の発展を要するからだ。
とにかく,文献のみを頼りにしていては,一般庶民の歴史というものは一切見えてこない。
では,民俗学の研究はどのようにして行えばよいのか。
一般庶民は文字で歴史を残す代わりに,親から子へ,子から孫へ,孫からひ孫へ,というように,口授によって歴史を語り継ぎ,後世に伝えていく。
諸君だって,諸君の父親や母親,祖父や祖母から,彼らが今までどのように生きてきたかということを聞いたことがあるだろう。単なる自慢話や苦労話として適当に聞き流していたかもしれないが,それこそ立派な歴史の伝承であり,貴重な民俗学的資料なのである。
ゆえに,実際に現地に赴き,現地の人の話を根気よく聞くことが民俗学研究の第一歩となる。
言い換えれば,フィールドワークこそが民俗学研究の要なのである。
よって,フィールドワークをしない民俗学者なんて存在しない。
ましてや引きこもりで家から一歩も出ない民俗学者などは存在するはずがない。
「引きこもりの民俗学者」などというものは,指が4本あるミツユビハコガメのようなものだ。存在自体が矛盾している。
しかし,信じられないことに,僕の周りには指が4本あるミツユビハコガメが存在している。
悲しいことに,僕にとって一番身近な民俗学者がそれだ。
僕が助手としてサポートする民俗学者-飛鳥井倫瑠は,一切フィールドワークを行わない「引きこもりの民俗学者」なのである。
約2年前から温めていたアイデアを基にした探偵小説です。菱川初のフーダニット(犯人当て)の推理小説です。
4〜8万字の範囲には収まると思います。
毎日1話ずつ予約投稿します。
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