第9話
朱に染まる海はまるで青い地球に似つかわしくないほどに色を変えていた。ついさっきまでは緑と青だった空間が、今や赤と朱に変化している。この島に来てから幾度と無くこういった美しい夕日を見ているのだが、今日はまた格別なものとなっていた。白い砂浜すら赤く染まり、水面に照り返す太陽の光もオレンジがかっている。揺らめく太陽も幻想的であり、未来は自身の顔も朱に染めながら星の話に聞き入っていた。
「退屈しのぎに作った晩飯を帰ってきたオーナーが気に入ってくれて、小間使いでいいなら連れてってやるってここへ来たんだ」
街にも居づらかった星はその申し出を受けることにした。もちろん叔父にはちゃんと話をした。その上で高校を中退し、こっちにある料理の専門学校に通いながら玄吾からも直接指導を受けた。元ヤクザの玄吾が何故これほどまでに料理の腕がいいのかはいまだに謎だったのだが、今の星にとってそんな事はどうでもよかった。会社社長をしている叔父に迷惑をかけたくなかったし、それにそこの娘にも嫌われていた星は全てを捨てて、新たな自分を見つける為にここへ来たのだと語った。それは今まで誰にも話したことのない心の内であり、何故未来にここまで話をしたかすら自分でもわかっていなかった。優しい笑みをたたえながら自分の話を聞いてくれる未来に何かを感じたのは確かである。だがそれが何であるかはわからないのだ。
「来てみたら、でっかいホテルだろ?正直ビビった・・・しかも最初はバイトだったのに学校出たらいきなり副料理長だぜ?クローサーで頭やってた時にはないプレッシャーを感じたさ」
この幻想的な空間と優しい未来の雰囲気が自分を素直にさせてくれているのかもしれないと思いつつ、星は少しはにかみながらそう話をした。未来は小さな笑顔を絶やす事無くうなずくと、ジッと星を見つめている。
「居場所、見つかったんだね?」
小首を傾げる仕草に、髪が流れるように落ちていく。
「そうだな・・・」
「私もそう。歌手になりたい夢を2度目のオーディションで掴んで、んでお芝居して、それが楽しくて、大きな夢に変わっていったの」
星は水平線に視線をやった未来の方を向いた。その横顔は美しく、吸い込まれそうな程、見入ってしまう程であった。
「アカデミー賞を取りたい!ってね」
未来もまた、誰にも語った事の無かった夢を口に出した。星がこの島へ来てから決して口にしなかった過去を話して聞かせたように、未来もこの夢を他人に話して聞かせたのはこれが初めてである。言えばきっとバカにされると黙っていたのだが、星ならばそれをきちんと受け止めてくれると思ったのだ。わずか知り合って数日とはいえ、星にこうまで心を許した理由はわからない。自分という存在を知らなかった好奇心から近づいたのがきっかけだが、星の中にある不器用ながら優しい部分に惹かれているのかもしれないと思える。
「君なら取れるさ」
「私を知らなかったのに・・・よく言えるよ」
クスッと笑った未来の言葉にトゲはなかった。
「そうだな・・・でも、大丈夫。信じてれば、叶うさ」
燃える海と空を見ながらそう言う星の言葉に嘘はないと思える未来は、うなずきながら同じ景色を見た。肩と肩とが触れあうその2人の後ろ姿は、端から見れば素晴らしい夕日に見とれる恋人たちにしか見えない。
「頑張ろうね、お互い」
「ああ」
心の距離を近づけた2人はそのまま会話をかわすことなくただ夕日が沈んでいくのを見ているのだった。言葉などいらないと思えるほど、2人の心は強く結びついていたのかもしれない。
まだ明るい空を見ながら、未来は車を置きに行った星を待っていた。結局夕日が沈むのを見て帰路に着いたせいか、ホテルに到着した時刻はすでに7時半を回っていた。それでも今日1日体験した事を思い返すと自然に笑みがこぼれる未来は、残りわずか2日となってしまったこの島での滞在を思うとどこか寂しい気持ちにさせられてしまう。小学校の頃、夏休みの終わりがあと数日となった事を想うと寂しくなる感情に似ているように思えた未来だったが、それはそれで少し違うような気もしていた。
「未来ちゃん!」
ホテルの通用口の脇に立っていた未来が正面玄関のある方から呼ばれた声にそちらを向く。小走りにやってきた清を目に留めて微笑みながら小さく手を振る未来は、まだやってこない星も気になりつつ清の方へと進んでいった。
「ゴメンね、連絡しなくって」
「そんなことはいいよ。夕方に社長から電話があってさ、このホテルのこの部屋に行ってくれってさ。何でもスポンサーの社長が来ているらしくって、挨拶に行ってほしいんだって」
やや早口でそう言うとメモを手渡す。そのメモには確かにルームナンバーが書かれており、未来は小さなため息を漏らした。
「じゃぁ、行きましょ」
メモをブラブラさせながらそう言う未来に清が渋い顔をしてみせる。その表情に不審がる未来だったが、わざと笑顔を返した。
「どうしたの?」
「1人で行ってくれってさ・・・挨拶程度だし、今後の仕事の事もあるからって」
それならばマネージャーたる清も一緒であるはずなのだが、その意図がわからない。だが自分が所属する社長の命令であれば大丈夫であろうと、未来は清に行って来ると言い残してホテルの方へと走っていった。清はどこか嫌な予感を覚えつつ、その後ろ姿を見送ると大きなため息をついてホテルの玄関へと向かうのだった。
従業員用の駐車場の指定の場所へと車を戻した星は通用口の所まで戻ってきていた。もちろん最初から未来がそこで待っているなどとは考えていない星はそのまままっすぐ通用口に入って行こうとしていたのだ。車から未来を降ろす際に礼を言われているし、別れの挨拶も交わしている。星はそこに未来がいないことに対して何の感情もないまま、車のキーを玄吾に返すべくフリーダムに向かおうとしていたのだった。だが、そんな星は不意に誰かに呼び止められ、正面玄関のある方向に首を巡らせた。にこやかな笑顔をたたえた40代半ばと思える白いポロシャツを来た紳士のごとき風貌をした男性がこちらに向かってくるのが見える。その顔にはもちろん見覚えがあった。
「星!久しぶりだな」
男は星のすぐ前までやってくると心底嬉しそうな笑顔をたたえたまま、その肩に手を置いた。
「お久しぶりです、叔父さん・・・・2年ぶりですね」
星はあまり高揚のない声色でそう言いながらも、どこかバツが悪そうな表情を見せていた。父親を亡くしてからこの叔父である誠二の元に引き取られた星は、自分を本当の息子のように可愛がってくれた事に感謝しつつもその家に居場所を感じられず、すぐに飛び出していたからだ。その上、家に帰ることも少なかった星は渋谷クローサーの頭として活躍し、誠二に心配ばかりをかけていたのだ。さらに玄吾と出会い、この波島に来ることを話しした際にも誠二は出来るだけの事をしたいと申し出てくれたのだが、星はこれ以上迷惑をかけられないとそれらを全て断り、まさに手荷物1つでここへとやってきていたのだ。誠二はそんな星を気遣いながらも時々この波島にやってきては様子を見にわざわざフリーダムまで足を運んでくれていたのだった。
「今日は、仕事で?」
「ああ。接待を受けてね、それでここまで来たんだ。それにウチがスポンサーしている映画の状況の事もあったし」
日陰とはいえ暑いのか、額の汗を何度も拭いながら誠二はそう説明した。
「暑いでしょう、中に入りましょう」
星は誠二をうながし、通用口へと向かう。誠二はにこやかな表情で礼を言うと、その通用口をくぐるのだった。
「映画って、赤瀬未来の?」
「そうだ。ウチは赤瀬さんにCMも頼んでいるしね。挨拶もしておきたい。このホテルにいるんだろう?なら顔ぐらい見たのかい?」
まさかついさっきまで2人きりでいたとは言いにくい星はレストランで何度か見たとだけ返事をした。
「会社、儲かってます?」
「おかげさんでね・・・まぁ不景気とはいえ、うちは電化製品を上手い具合にコストダウンで商品化することに成功したから、まだなんとか赤字は出ていないよ」
やや苦笑いを浮かべながらそう言う誠二は表情を変えない星を見て星らしいと思った。元々あまり感情を表に出さない星だが、誠二には何故か星の心情が読みとれていた。それにどこか芯の座った星に惹かれ、いずれは自分の会社に入社して欲しいとも願っていた。だが、それが叶わぬ夢であることも承知している。誠二が経営している電機メーカー『ブラッケイプ』、通称『BK』は家電製品をメインに日本のみならず世界にも名をはせる有数の大企業である。自動車産業のカムイモータース、パソコンのソフト会社ブリッツ、そして誠二のブラッケイプは日本における3大企業として有名だった。その社長をしている誠二の腕前はカムイモータースの社長である菅生要と同じく斬新でアイデア豊かな幅広い視野で物事を見据え、この不景気にありながら見事な数字を残しているのだった。元々星の父親であり、誠二の兄である真一はここの専務をしていたのだ。だからこそ、星にはいずれ自分を手伝ってもらおうと考えていたのだが、星には星の夢があるだろうと半ばあきらめていたのだった。やがてフリーダムへとやってきた星はやや混雑しているフロアを見渡すと、料理を運び終えて厨房に向かう紫杏をつかまえて誠二を席へと案内させた。そのまま星は厨房に向かうと、忙しそうにしている玄吾にキーを返しにいった。
「ありがとうございました」
「楽しんだかい?」
「彼女は大喜びでしたよ」
「おめぇは?」
「まぁ、楽しんだ、かな」
歯切れ悪くそう言うと、星は誠二のいるフロアへと向かった。はたから見ればあの赤瀬未来と2人きりで過ごしておきながらその態度は何だと言われそうだが、玄吾にしてみれば今の星の言葉からまんざらでもなかった事がうかがい知れた。
「ま、色恋沙汰までとはいかなくとも・・・・いい感じじゃねぇか」
玄吾は手を休めることなくそうつぶやくと、にんまり笑うのだった。
とりあえずジーパンにTシャツといった感じに着替えた未来は指定された部屋の前まで来て深呼吸をしてみせた。この中にいるスポンサー社長とは何度か会ったことはあるものの、2人きりで、しかも密室となる場所で会ったことはない。どちらかといえば容姿が良くないその社長は電機製品を取り扱う大手の『ミラー』という会社の経営者なのだ。言葉遣いもどこか横柄であり、暴力団とのつながりがあるとも言われている人物であった。だが、未来と会った数回に関してはそれなりに愛想も良く、そう悪い人物には思えなかったのは確かだ。再度深呼吸した未来はドアの横に備え付けられているインターホンを押すと、軽く身なりをチェックしてドアに向き直った。しばらくしてドアが開く。中から顔を出したのは間違いなくミラーの社長、加賀美銀三であった。
「やぁ、赤瀬さん・・・わざわざ呼び出してすまない・・・ささ、中へどうぞ」
嬉しそうな、それでいて愛想の良い笑顔を振りまきながらそう言う加賀美に失礼しますと言い、うながされるままに部屋の中へと入った。どうやらソファに座ってテレビを見ていたらしく、ソファの脇にあるテーブルの上にはブランデーらしき液体が入ったコップが1つ置かれていた。未来は加賀美が指さしたソファに座ると、目だけを動かして部屋の中を見渡す。
「で、お話とは?」
ドカッとソファに腰掛ける音でそちらを見やった未来は、作った笑顔を見せながら加賀美に向かってそう問いかけた。
「いや、実は昼間に君の事務所の社長と話ししたのだが・・・ある取引をしてね」
「取引?」
その言葉にどこか嫌な響きを受けた未来は少し身を固めるようにしてみせた。明らかに抵抗を見せているその仕草に、それ見ていた加賀美の顔から自然と笑みがこぼれる。
「うん・・・私には数多くのコレクションがあるんだ・・・・君にもそのコレクションに加わってほしくてねぇ」
そう言い残し、加賀美は荷物が山ほど入り、もはやこれ以上何も入らないとわかる皮のかばんからノートパソコンとDVDを取り出した。バッテリーを内蔵しているそのパソコンを立ち上げる加賀美はこれはミラーが開発した最新型のパソコンだと説明してみせた。やがて立ち上がったパソコンにそのDVDを差し込む。何が起こるのかとさらに身を固まらせる未来にどこか下卑た笑みを浮かべた加賀美はパソコンを反転させ、画面を未来に向けてみせた。
「これは数ある中でも屈指の出来だよ」
そこには3人のアイドルの顔が映っていた。だがどのアイドルも皆苦悶の表情を浮かべているのが気になる。何かのプロモーションビデオのような感じも受けるが、笑顔が無いのが気にかかって仕方がなかった。
「たとえばこの子、人気グラビアアイドルのあずさちゃん」
そう言うと、いつの間にか未来の横にやって来ていた加賀美はその子の顔当たりをクリックしてみせた。そうするとビデオ画面が立ち上がり、なんとそのグラビアアイドルが全裸で拘束されている画面が映し出された。その上に覆い被さるようにして現れたのは加賀美銀三本人である。もちろん加賀美も全裸であり、イヤだと何度も絶叫するアイドルの身体を自由にもてあそんでいる姿がはっきりと映されている。
「すでに30人ぐらい、私のコレクションに入ってきたが、君のようなトップアイドルは初めてだよ」
言いながら加賀美は背後から未来を羽交い締めにすると、驚きのあまり硬直している未来の耳を一舐めした。さらに身体を硬直させながらもなんとかそれから逃れようとするが、小柄といえど加賀美も男であり、その力は簡単にふりほどけるものではなかった。
「たいがいは事務所の力が強くてトップアイドルは無理なのだがね・・・君の事務所は小さい・・・・・それに君をモノにしたかったのにはもう1つ理由があってね」
身をよじり、床に倒れそうになる未来を放り投げるようにしてベッドの上へと追いやった加賀美は素早く逃れようとする未来の上に馬乗りになり、さらに上半身を密着させて動きを封じ込めてから両手を無理矢理バンザイさせて完全に身動きが取れないようにしてしまった。
「君は芸能界にあって実に純粋だ。その純粋さを、清潔感溢れる体ごと奪い去り、汚すのは最高に楽しいし、興奮するよ!」
首を振り、髪を乱しながら必死に抵抗する未来を満足げに見下ろしながら、加賀美は高らかにそう言った。
「事務所の金村社長も容認した・・・お前が訴えを起こしても事務所は無視をし、お前の名前も落ちていくってわけだ、だから観念しろ」
「嘘っ!」
「嘘なもんか・・・なら何故君はここへ来た?おそらくまともな理由もなくここへ行けと言われたはずだ」
その言葉に、未来の動きが止まった。少しおかしいとは思っていた。何故スポンサー社長に挨拶するのに相手の部屋に1人で行かなければならないのか、それにマネージャーたる清すらここへ行く理由をよく知らないと言っていた。もしかしたらという思いがありながらもここへ来たのは信頼している事務所の社長金村の頼みであったからだ。もはや何も信じられなくなってきた未来は体を小刻みに振るわせながら涙を流した。
「いいねぇ・・・その涙、そうでなければ!」
言いながらその可憐な唇を奪おうと顔を近づけた矢先、キッと睨むようにした未来は弱まった下半身への拘束の隙を付き、男の急所である股間を膝で思い切り蹴り上げた。もはや女性としての本能がそうさせたと言っていいかもしれない。未来は悶絶する加賀美を突き飛ばすと、ドアの方に向かってダッシュしようとした。
「ま、待て!オレはテレビ局にも顔が利く・・・スポンサーという立場を利用すればお前なんかスキャンダルをでっち上げて芸能界を追放する事だってできるのだぞ!」
その言葉に、廊下を行く未来の動きが止まった。それを見た加賀美は股間と下腹部を押さえつつ身を起こし、脂汗にまみれた顔にいやらしい笑みを浮かべて見せた。
「君が拒否すればそれで今の君は終わりだ。そうなれば、お前なんぞただの小娘・・・・ますますオレが手を出しやすくなるしな・・・・どうするね、赤瀬未来?」
未来はゆっくりと振り返った。乱れた髪が顔を隠している。こんなことで自分の純潔と夢を奪われるのは嫌だ。だが、ここで夢を諦めれば、今まで頑張ってきた事全てが無駄になる。つき先ほど星に語った夢をここで捨てるのか、こんな男に自分の身体を明け渡してまで夢を叶える意味があるのかを自問自答する。
「心のない女を抱いて、それで満足なんですか?」
答えが出ぬままそう答えた未来に、加賀美の返事がその答えとなった。
「そういうのが興奮するんじゃないか・・・征服したって気になるしなぁ・・・それにこんなの芸能界じゃよくある事だ」
未来はその言葉に唇を噛みしめた。色が変わり、血が出るほど噛みしめ、ドアの方に向かって走った。そしてドアノブに手をかける。
「いいのか?全て終わっても!」
まだ動けないのか、ベッドの方から加賀美の声がする。
「そうまでして、いたくない!こんな真似するぐらいなら、辞めるわ!」
強い口調でそう言い残すと、未来は部屋を後にした。流れ出る涙を拭うことなく、未来は一刻も早くここから離れたいという気持ちで、どこをどう走ったかもわからないまま下の階目指して走り続けたのだった。
久しぶりに誠二と夕食を共にした星はフリーダムを出たあと、中庭に向かった。誠二は視察に出かけていた別の会社の重役に飲みに誘われたため、そのままバーへと向かったのだ。いつもは深夜近くに1日の労をねぎらって中庭のベンチでくつろぐのが日課だった星だが、9時過ぎにここへ来ることはほとんどなかった。プールサイドを歩きながら見るライトの光を反射した水面はどこか涼しげであり、暑い夜に涼を届けてくれていた。コックとなってからタバコを断っていた星はただベンチに座って空を見ながら何も考えずにぼーっとする事が好きだった。この中庭には滅多に人がこないこともあって絶好の場所となっているのだが、どうやら今日は先客がいるようだった。参ったなぁとばかりに頭をかきながら仕方なく別の場所へと移動を決めた星だったが、そこに座っている人物からすすり泣くような声を聞き、目を細めてそちらを凝視した。後ろ姿だけで、しかも暗い中で誰かはわからない。だが直感でその人物が誰かを悟った星はそっと近づき、背後から優しく声をかけた。もちろん優しく声をかける事など星にとっては珍しい。
「赤瀬さん?」
不意にかけられた声にビクッと体を揺らしつつも、その声の主が加賀美でない事を知っている未来はゆっくり振り返った。噴水を照らすライトが申し訳程度に未来の顔を浮かび上がらせる。涙に濡れたその顔を見た星はただ立ちつくすのみで思考はストップしてしまった。自分と別れてわずか90分余りで何があったのか。星は自分を見つめながら涙を流す未来に戸惑いつつもゆっくりと傍に近づいていった。だが、近づくまでもなく、未来は自ら大粒の涙をポロポロこぼしながらその胸に飛び込んできた。
「ど、どうしたんだ?」
泣いている女性の体を抱きしめるといった経験などない星はどうしていいかわからずにそう聞くことしかできない。だがそっと体を包み込ませるようにその背中に手を回した瞬間、胸にすがっていた未来は声を上げて泣きじゃくった。ますますどうしていいかわからない星はとりあえず背中を優しく叩いてあげて未来が泣きやむのを待つことにした。そうして10分余り、ようやくしゃくり上げながらも未来は泣きやむ気配を見せ始めたため、星は優しい仕草でベンチに座らせると落ち着かせようと笑顔を見せた。
「大丈夫?」
その言葉に小さくうなずいた未来は少し星から離れると鼻をすすった。
「何があったんだ?」
その言葉に一筋涙を流す未来だったが、星の優しい口調、そして何より夢を語り合った、心を許した星だからこそ、加賀美との間にあった事を包み隠さず話して聞かせた。星は表情を険しくしながらも口を挟まず、冷静にその話を最後まで聞いた。何度か涙を流す未来に落ち着くように言うと、全てを聞き終えた星は小さなため息をついた。
「とんでもないオヤジだな・・・みんな泣き寝入りかよ」
吐き捨てるようにそう言う星の口調はやや怒気を含んだものであった。
「そうまでして、いたいとは思わない」
未来は自分の体を抱くようにしながらうつむいてしまった。星はそんな未来から視線を外すと、どうすれば一番いいのか頭の中で考えを巡らせた。そいつの言うとおり、各方面に圧力をかけられればスーパーアイドルの未来とはいえ芸能界で生き残るのは難しい。かといってそいつの手に落ちても未来自身の生きる活力は奪われ、結果として引退せざるを得なくなるだろう。結局どっちに転んだとしても芸能人としての未来に明日はない。事務所に対する不信感、芸能界そのものに対する不信感も拭えないだろう。そうなれば、アカデミー賞を取ると言ったその夢すら、砕け散ってしまう。夢を失わせず、前向きにさせる方法を思案する星はとりあえず未来の中にある芸能界を辞めるという考えを今だけも思い留めさせる事にした。映画の撮影もあと2日ある。それだけでも何とか完遂させてやりたいのだ。
「とりあえず、辞めるなよ?映画の撮影もある。ここにいる間はオレが守ってやるから、だから・・・・」
「こんな状態で演技なんてできないよ!それに、もうあいつが圧力かけてるだろうし・・・」
予想通り気弱になっている未来だが、それをとがめることなど出来ない。特に、今はついさっきの出来事で恐怖心すら全く拭えていないのだ。
「それはオレがなんとかするから・・・」
「何とか?どうやってなんとかするの?事務所だって断れなかったのよ?あの男の会社は大きいの!コックのあなたがどうこう出来る相手じゃないの!」
やはりまだ落ち着きを取り戻していない未来は自分がどうしていいかわからない為、そのイライラを星にぶつけた。
「もういいの!もういい・・・夢も何もいらない!私は、もう・・・辞める。こんな思いをするくらいなら、私はもう・・・・夢なんていらない!」
昼間、照れながらも嬉しそうに自分の夢を語った未来の姿が幻のように思える。
「ああ、そうか。だったら辞めちまえよ!その程度の夢なんざ、捨てちまえ!」
思いも寄らぬ星の言葉に未来は目を見開いたものの、星を見ることは出来なかった。心のどこかで優しい言葉を期待していたのかもしれない。だが、正反対に厳しい言葉を投げられた未来は徐々に肩を振るわせ、そして立ち上がった。
「その程度・・・ですって?ならあなたは私にあいつに好きにされろって言いたいの?あいつに黙って犯されろと言いたいわけ?」
激しくそう言う未来は今まで見せたことのない怒りに満ちた表情で星を睨み付けた。
「そうは言っていない。けど、お前にはまだやるべき事があるだろう?映画だけでもスパっと終わらせろって言ってるんだ。辞めるならそれからでも遅くはない」
「人の気持ちも知らないくせにぃ!」
未来は殴りかからんとばかりに星に詰め寄った。だが、そんな未来をどこか冷静な目で見下ろしながら、星は実に落ち着いた口調で話し始めた。
「オレは中途半端に街を後にした・・・ヤンキー狩りに破れて、オーナーに会わなかったらオレはどうなっていたかわからない・・・だからこそ、中途半端に生きてきたからこそ、今のオレはもう2度とそうならないように頑張っているんだ。たとえここを去る事になっても、与えられた仕事だけはちゃんと終わらせてから辞める。後で後悔したくないからな」
その言葉は未来の胸に届いていた。だが、今の未来にはその言葉を素直に受け取る余裕など無い。睨んだまま星に背中を向けるとロビーに向かって大股で歩き始めた。少し間隔を開けつつ星もその後に続いた。未来は付いてくる星を完全に無視しながらエレベーターに乗り込んだ。素早く同じエレベーターに乗った星に苛立ちながらも、無視をして自分の部屋がある階のボタンのみを押し、扉を睨むようにして立つ未来からは結局何の言葉もなかった。星もそれはわかりきっており、何も言わずに腕組みして左隅にたたずんでいた。やがて扉が開き、未来はそそくさと廊下を進むと自分の部屋へと戻っていった。星もまたそこで降り、部屋の中から鍵がしまる音を確認した後、中で異常がないかを知るためにしばらくその場にたたずんでいたが、5分ほどでその場を立ち去ったのだった。