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第6話

バスタオルを体に巻き付けた紫杏しあんが脱衣所のちょうど中央付近に置かれている竹で出来た長椅子に腰掛け、首を振って涼しい風を提供している扇風機に当たりながら満足そうな顔をしていた。未来は既に着替えを済ませ、鏡の前に腰掛けてドライヤーで髪を乾かしている状態にあった。時刻は既に夜中の1時を回っている。明日の撮影は午前10時からであり、起床は7:30とされている。だが元々短い睡眠時間が普通である未来にとって、ここへ来てからは今までを取り返す勢いで眠っており、逆に撮影が終わってからこの今の生活に慣れきった体になってしまうのではないかと危惧しているために今日は夜更かしして適度な時間に眠ることにしていた。とはいっても、連日猛暑の中での撮影の疲労からベッドの上に転がればすぐに眠りに落ちてしまうだろう事は予想済みである。


「紫杏さんはホテルで寝泊まりしてるんですか?」


この時間でもまだこうしてくつろいでいる紫杏を見て一体家はどこにあるのだろうと疑問に思った未来のその質問を受けた紫杏は自分の着替えが置いてあるカゴの前に立つとバスタオルをはぎ取って可愛らしいピンクのショーツを履き始めた。


「一応、料理長の家に居候してる。でも忙しい時とか遅くなった時はホテルが用意してくれている部屋に泊まるの。せいはほとんどそこで生活してるようなもんだしね」


ブラジャーを着けながら首だけを未来の方へ向ける格好でそう言う紫杏に、未来は不思議そうな顔を向けるしかなかった。


「じゃぁ泊まり込み?」

「う~ん、基本的にアパート借りてるみたいだけどここからは少し遠いの。だからじゃないかな・・・店は朝は早くから夜は遅くまでだし。アイツは一応副料理長だしね」

「じゃぁ、時々その部屋で一緒に寝たりするわけ?」

「まぁね、でもあいつはいつ寝てるのやら・・・たいがいロビーで新聞読んだり厨房でスープ見てたり。それに一緒に寝ててもなぁんにもしてこないし・・・私って魅力ないのかねぇ」


笑いながらそう言う紫杏はレストランで着ている制服である白いシャツを着てから黒のスカートを履いた。髪も乾いた未来は長椅子に座ると、丁寧に髪を拭いている紫杏の後ろ姿をただぼんやりと眺めていた。


「何?」


自分を見つめる視線に疑問を抱いた紫杏だったが、すぐにドライヤーを手にして髪を乾かし始めた。


「紫杏さん・・・・」

「紫杏でいいよ、もう友達みたいなもんだし・・・私もお店以外ではタメ口たたいちゃってるしさ・・・」


苦笑混じりにそう言い、鏡越しに未来を見る紫杏だが未来の曇った表情に眉をひそめた。


「『魔獣』って人の事、知ってる?」


その未来の言葉に、紫杏の手が一瞬だけ止まった。


「・・・聞いたことはあるのは噂だけね・・・・よくは知らないけど」

「そう・・・」

「それがどうかした?」

「ううん、いいの、ごめんね」


未来は立ち上がると笑顔でそう言った。だが本当は聞きたくて仕方がない事であったが、聞いたから何がどうなるというわけでもない。自分でもそれを聞いてどうしようとしていたのかわからない未来は荷物をまとめると再度長椅子に腰掛けた。


「私は詳しく知らないけど、料理長なら詳しいかもね・・・あの人、なんでか知らないけどそういう裏事情に詳しいから」


ひとしきり髪を乾かした紫杏もまた簡単に荷物をまとめると座っている未来をうながし、大浴場を後にした。そしてエレベーター前までやってきた所で紫杏が未来に別れを告げる。


「じゃぁ、私、こっちだから、また明日ね・・・って会うかわかんないけど・・・撮影頑張って!」

「うん、ありがとう、じゃぁ、おやすみなさい」


やってきたエレベーターに乗り込んでそう言う未来に向かって笑顔で手を振る紫杏に、未来も笑顔を返して小さく手を振り返した。銀色の扉が閉まり、階数を表す表示が上へ動き出すのを見た紫杏は小さなため息をつくと、ロビーの方向に向かってとぼとぼと歩き始めた。


「『魔獣』か・・・意外なトコで意外な人から懐かしい名前を聞いたなぁ・・・」


どこか泣きそうな表情をしながらつぶやくようにそう言うと、紫杏は明かりが消えた薄暗い廊下を重い足取りのまま進んでいくのだった。



待望のオフまであと1日と迫った7日目の撮影は浜辺からやや離れた場所での撮影となり、大勢の見物客によってロケ隊は囲まれるような格好となってしまった。撮影に影響がないように人波を整理しながらロケは行われ、やや時間的なロスもあったのだが無事午前中の撮影は終了した。あとはクライマックスシーンへと続く美しい自然と一体化した映像を撮影すべく雪見の浜へと向かったロケ隊はその撮影も順調にこなして早々と終えることが出来た。あと、明日は悠斗が空港でのロケ、未来はオフとなり、明後日はホテル周辺での撮影が待っているのだ。残す撮影もあとわずかとなり、気を引き締めるようにと監督の言葉が飛んだ後、普段ここでは遊泳禁止とされているのだが有名人がいることで他の遊泳場での無用の混乱を招かぬよう、特別にこの雪見の浜での遊泳が許可されていた。もちろん浜と海とを汚さないのが絶対条件であったが。スタッフは機材を車に運び終えると所構わず水着への着替えを済ませて海へと走っていく。カーテンがきっちりと敷かれたワゴン車で着替えた女性スタッフと未来、緑はその見事な肉体美を披露して皆を喜ばせた。ピンクを基調とした白いワンポイントが入ったワンピースタイプの水着を着た未来が海に駆け出す。あとは屋内での撮影を残すのみだが、今後入るテレビの収録やドラマの事を考えればそうそう肌を焼くことはできない。もちろん夏であり、ここでの撮影で日焼けした肌は許容範囲内となっているのだが、場面のつなぎを考えればなかなか泳ぐことも出来ないのだ。それでも未来は高い崖によって影になった場所を選んで綺麗な、青というよりは緑色した海に飛び込んだ。そんな未来に続く清たちの姿を見ながら、緑は現場スタッフが用意してくれたビニールの敷物に寝そべると近くにいた若いスタッフにオイルを塗るようにお願いをした。赤いビキニ姿の緑はセクシーであり、オイルを頼まれたスタッフは胸躍る気持ちを押さえつつ、冷静さを保ちながら丁寧な手つきですべすべした肌にオイルを塗り込んでいく。塗られる緑は目を閉じ、心地よい気分に浸っていた。そんな緑とは対照的に興奮した自分を押さえきれなくなったのか、若手スタッフは鼻の下を伸ばしながら胸ギリギリの部分にオイルを塗っていくのだった。悠斗は一旦優雅にくつろぐ緑を振り返り、自分に注目していないのを確認した上でいそいそと未来のそばへと駆け寄っていった。元々浅黒い肌をしている悠斗は別段日焼けを気にすることもない。胸元で揺れるお気に入りのリング状したネックレスを揺らしながら未来の元へとやってきた悠斗は膝まで水に浸かりながら水平線を眺めている未来に声をかけた。


「綺麗なトコロだよ、ホント・・・引退して、ジジイになったらここで人生の残りをのんびり過ごしたいね」


膝丈まである濃いオレンジ色した水着はどこかサーファー仕様であり、引き締まった腹筋やたくましい腕の筋肉とマッチして悠斗という人物に似合っていた。


「そうね」


短くそう答えた未来だったが、少なくとも同じ事を考えていた。だが今は引退後の事など想像も出来ない。自分には叶えたい夢もあり、この世界でやりたいこともまだまだいっぱい残っているのだ。未来は膝まで浸かった状態で崖の方へと歩いていった。悠斗はそんな未来の後ろ姿をじっと舐めるように見つめながらにやけた顔をしてみせる。


「この場所でなら落とせるかもしれないな・・・」


一つ舌なめずりをした悠斗はいそいそと未来に続き、横に並んだ。未来は崖の手前数メートルの距離をおいてたたずみ、大きくそびえるその崖をゆっくりと見上げていった。いつからこの崖が存在しているかはわからないのだが、ここが今でも人の手によって開発されていない事から大昔に風か波によって削られていったのではないかと推測される。その崖を見上げながらそんな事をぼんやり考えている未来の肩にさりげなく手を回そうとした悠斗の顔に何とも言えないやらしい笑みが浮かんだ瞬間、清の呼ぶ声に反応した未来が体の向きを変えたため、不本意ながらその手は空中をさまようことになってしまった。波打ち際に立つ清の方へと向かう未来の背中を見やる悠斗は苦々しい顔をしながらここまで何の進展もしない2人の仲にどこかイラついた様子で海面を蹴り上げるのだった。



「なんとも言えない光景ね・・・」


うっとりとした表情と口調の緑は海を汚さぬようにとわざわざバケツで海水を運んできて体についたオイルを洗い流していた。とはいえ、何故か水を運んでいるのは悠斗であるのだが。赤く染まった海面、オレンジに輝く空を見ながらそう言う緑の言葉に、沈みゆく太陽の光を浴びた赤い砂浜に座っていた青いTシャツ姿の未来もその幻想的な光景に見とれながらうなずいた。もはや早々と着替えた清は椅子に腰掛けながらこの光景を忘れまいと同じように見入っている。何度も砂浜と波打ち際とを往復させられてヘバっている悠斗はもはやそんな余裕はなく、がっくりとうなだれた様子で足下を行くヤドカリの姿を目で追うのが精一杯であった。片付けをしているスタッフも手を止めてしばし赤い世界に酔いしれた。太陽が海に没し、それでも周囲はまだ夕方と思えないほど明るい中、ロケ隊は名残を惜しみながらも雪見の浜を撤収した。現在の時刻は午後6時を回っている。この後ホテル到着が6時45分頃となり、夕食は少し遅めの8時からという予定となっている。ホテルに戻った未来はまず真っ先にシャワーを浴びた。暑いシャワーで全身にまとわりつく乾いた海水の置き土産を洗い流しながら久々にフリーダムで取ることになっている食事に期待を膨らませる未来は、明日のオフをどう過ごすかとあれこれ考えながらもやはり空腹を告げる音にいろいろな料理を頭に浮かべてしまうのだった。やがて時間になり、ラフな格好に着替えた未来は清からの電話を取り、2人でフリーダムへと向かった。今日に関して言えば撮影が終われば解散となり、皆それぞれ自由な行動を取ることが出来る。だが海水浴を楽しんだ後にする事といえばお風呂に入って体についた潮を洗い流し、空腹を満たすことぐらいであるからして、スタッフのほとんど、悠斗と緑もまた大浴場へと向かったのだった。未来たち撮影に関係している者たちの事を考慮して、普段は夜9時までのフリーダムもこと彼らに関してのみ自由に飲食ができるようにとホテルの支配人が取り計らって深夜まで星たち料理人は交代で待機しているのだった。特に副料理長の星と桃代は日替わりで厨房を管理しているため未来たちが滞在している10日間はまさに休む暇もろくにないのだ。人気のあまりないロビーを通って入ったフリーダムには一般客数組がいるのみで、穏やかで静かな空間となっていた。その一般客とはやや離れた席に案内されたのが意図的なのかはわからないが、窓際の席へと座った未来は窓の外の暗闇へと目をやった。


「今日は紫杏さん、いないのかな?」


今さっき自分たちを案内してくれた若いウェイトレスはややぽっちゃりした目の細い長髪の女性であり、今日まで見たことがない人物であった。厨房の方を覗き込むような仕草を取る清に向かって目を細め、どこか意味深な視線を投げかける未来は小さく笑ってみせると再び窓の外へと顔を向けた。


「白木さんって、紫杏さんみたいな子がタイプなんだね」


これといった感情のこもっていない言葉だったが、清の顔を自分に向けさせるには十分すぎた。未来に対し、変な誤解をされたくない清はあわてた様子で大きくかぶりをふると焦った表情をしながら必死の弁明を始めるのだった。


「ち、ち、ち、違うって!ここでウェイトレスと言えば彼女だろ?だからさ!決してそういった気持ちではないよ、いやホント・・・」

「まぁ~、別にいいんだけどねぇ」


またもや意味ありげに横目でそう言う未来に、清は汗を流しながら苦々しい表情を浮かべるしかなかった。


「ご注文がおきまりでしたらおうかがい致しますが?」


さきほどのウェイトレスが水を運んできたのを幸いに、咳払いを1つして姿勢を正す清を見た未来は小さな笑みを浮かべるとハンバーグ定食をオーダーした。清はエビフライの定食をオーダーして水を一口飲むと窓の外へと何気なしに顔を向けるのだった。


「あの、今日は紫杏さんはお休みですか?」


その未来の言葉に清は物凄い勢いで未来の方へと向き直り、やや緊張していたウェイトレスも今の清の動きに体を強ばらせてしまった。


「あ、はい・・・今日はお休みです」

「あぁ、そうなんですか・・・」

「今日は普段からお休みが多い日なんです。今は私と、黒崎さん、あと、コックが2名いるのみです」


ややなまりの入った標準語からして、彼女が地元の人間であることがうかがい知れた。


「大変ですね・・・今は落ち着いてるみたいですけど、さっきまでは忙しかったでしょう」


清と未来の穏やかな口調と雰囲気に幾分緊張も和らいできたウェイトレスは注文された物を伝票に書き込みながら笑顔を見せた。


「はい。でも黒崎さんはすごく手際いいし、そうでもないですよ」


どこか照れたような表情をしながら会釈をすると、ウェイトレスはやや早足気味に厨房へと去っていった。そんな彼女を見送る2人は顔を見合わせ、クスリとした笑いを浮かべるのだった。



「明日はお休みだけど、どうするんだい?」


その清の言葉に、柔らかいライトの光で照らされている波打ち際から視線を戻した未来は少し何かを考えるような仕草を取って見せた。その仕草はどこか少女っぽく、見た目の可愛さと重なって清の胸の鼓動を早くしていった。


「う~ん、まだわかんないけど・・・この辺をブラっとしたいなぁって」


実は波島であちこちロケをしている未来だったが、このホテル内においても、ホテル近辺においてもほとんど何もわからないのだ。実際中庭に行った未来だが、そこでは星の会話を盗み聞いた事しか印象がない。だから明日のオフは海岸を散歩したりしてホテル近辺を散策してみようと考えているのだ。


「わかってるとは思うけど行くときは必ず声をかけてね?」

「もちろん!」


とびっきりの笑顔を見せられ、頬を緩ます清は台車で運ばれてきた自分たちの料理の方へと顔をやった。やや頬が赤かったが、未来もまた料理へと視線を注いでおり、それには気付いていなかった。丁寧な仕草で料理をテーブルへと移動させていくウェイトレスは全ての物を運び終えた後、おずおずと自分の手帳らしき物と携帯電話をポケットから取り出した。未来はどこか恥ずかしそうに手帳を差し出すウェイトレスに笑顔を見せると手帳に挟んであるペンを手に取り、ウェイトレスが開いた真っ白なページにまるで模様を描くがごとく軽やかな動きでペンを走らせていった。


「お名前、なんておっしゃるのですか?」

「あ、はい、川村です、川村茜」


言われた名前を自分のサインに添え、それが茜だけに向けられたものだという証明を残した未来はペンを元あった場所にしまうとくるりと手帳を反転させてから茜に返すのだった。未来のその丁寧すぎる姿勢を好いている清はこれこそが男女問わずに好かれている証拠だと思っており、そういった細かい心遣いができる未来を凄いと感じる所でもあったのだった。清は笑顔を見せて立ち上がり、茜から携帯を受け取ると2人のツーショットをカメラに納めた。3度ほどの撮影を終えると、茜は何度も礼を言いながら嬉しそうに厨房へと去っていった。2人はそんな茜の後ろ姿を微笑ましく見送ると、待ちに待った夕食に舌鼓を打つのだった。そして食事も終わりに差し掛かり、店の好意で出されたアイスコーヒーを飲んでいた2人は嬉々として近づいてくる悠斗の姿を目に留めるのだった。


「やぁ、未来ちゃん・・・・なぁんだもう食事終わっちまったのかよ・・・・一緒に食おうと思って来たのにさ」


未来の座る椅子の背もたれに腕を回しながら顔を覗き込むようにしてそう言う悠斗に、思わず片眉を上げて睨むようにしてみせた清はこの悠斗から未来を守ることを最優先に考えることを決意したのだった。確かに、あと3日で撮影自体は終わるのだが、この後、映画のキャンペーンや、この秋からのドラマの撮影でも悠斗とは共演になるのだ。


「ホント、残念だ・・・緑さんの長風呂に付き合うんじゃなかったぜ。さっさと来りゃぁよかった」


芝居がかった様子で首を横に振ると、さりげなく未来の肩へと手を回そうとした悠斗に対し、ここは一発ガツンと言ってやろうと清が立ち上がった瞬間、悠斗のその伸ばした手の甲の皮をつねりながら引っ張り上げる赤いマニキュアも鮮やかな指に体を硬直させるしかなかった。


「ゴメンねぇ~、長くって・・・」


もはや皮膚がちぎれそうになった手をかばうこともできずに悶絶する悠斗は声を上げる事もままならず体をくねらせるしかなかった。穏やかな口調と涼しげな顔をしながらつねりあげる緑はその指を放すと笑顔で未来と清にこんばんわと告げた。やや引きつった顔で挨拶を返す未来はつねられていた部分をさすりながら涙目になっている悠斗を心配そうな目で見やるしかなかった。もはや怯えきっている清はゆっくりと腰を下ろすと心を落ち着かせるためか、ストローをくわえてアイスコーヒーを一口飲んだ。だがその目は緑に釘付けである。そんな緑は茜にうながされて未来たちの隣の席へと腰掛け、さっきの一撃がよほど効いたのかズボンのポケットに両手をつっこみ、足を大きく組んだ悠斗はそっぽを向く感じで窓の外の景色へと目をやっている。


「よろしければご注文を・・・」


さっきのやりとりを見ていた茜はやや怯えた様子を見せながらもしっかりとした口調でそう言った。メニューを開いていた緑はパスタをオーダーし、悠斗は刺身定食をオーダーした。


「じゃぁ、お先に失礼します」


伝票を手に立ち上がった清に続いて未来も立ち上がり、軽く頭を下げた。そんな未来をチラリと見ながらも何も言えない悠斗は軽く手を挙げてそれに応えると、またふてくされたような態度を取った。


「1分以内にその態度を改めない場合は・・・わかってるわよね?」


レジの横で小さく手を振る未来に自分も手を振り返し、顔も笑顔のままそう言う緑の言葉に、悠斗はすごすごと組んでいた足をほどき、ポケットから手を出してテーブルの上に置くのだった。



食事を終えて清と別れ、部屋に戻った未来は部屋着に着替えるとベッドに転がった。明日は待ちに待ったオフの日であり、夕食も終えてリラックスしたせいか興奮も一気に高まっていた。まるで遠足を前日に控えた小学生のような気分である。すでに明日出かけるための服である黄色いワンピース、撮影用の物を借りた麦わら帽子、そして日差しと人目を避けるためのサングラスと準備は万端であった。天気予報も快晴となっており、充実したオフが満喫できそうである。だが、この近辺しか散策しないことを決めている未来だったが、一体何がこの辺にあるのかすらよくわかっていない。ここへ来る前に買っておいたガイドブックにも何も載っていないのだ。紫杏にでも聞いてみようかと思ったのだが、今日は休みでいないとなれば朝食時に接触を図り、そこで情報を聞き出す以外にない。


「黒崎さんに、聞いてみようかな・・・」


そう思って口にはしてみたものの、今頃は悠斗や映画スタッフたちの夕食を作るのに忙しい時間であろうと推測される。仕方なく明日の朝に紫杏に会うことを期待してテレビを見る未来はそのまますぐに眠りに落ちてしまったのだった。



カーテンの隙間から差し込む朝日がまっすぐに伸び、その光の筋が未来の顔を明るく照らしていた。昨日は電気を消したものの、テレビをオフタイマーにした直後に眠ってしまった未来はしっかりカーテンを閉めずにいたのだ。そのために朝日がもたらすまばゆい光に意識が徐々に覚醒していく未来は開きたくない目を無理矢理開き、自分を起こした原因を探るべく周囲をぼーっとした目で見渡した。飛び込んできたまばゆい光に片目を閉じながらも身を起こした未来はぼさぼさになっている髪をかきむしるような仕草を取りながらだらしのない表情で大きなあくびを1つしてみせるのだった。寝起きがさほど良くない未来は眉間にしわを寄せながら自分を起こした原因である窓の方へとフラフラしながら向かう。右手で力強くカーテンを開いた未来の表情が見る間に驚きのものへと変貌を遂げていった。水平線から完全に姿を現した太陽が放つ光が海面を反射し、光の波を形成していたのである。その見事な景観と、浜辺に植えられている木が落とす長い影もくっきりしており、さわやかな朝の光が眠気と気怠さを完全に吹き飛ばしてくれた。その白い砂浜にはすでに人影がまばらながらに確認できる。時刻はまだ6時半であり、未来が予定していた起床時刻である8時にはまだまだ時間がある。だがこの悠然たる景色を少しでも近くで見たい未来はバルコニーへと躍り出ると手すりに手を置き、しばらくの間その見事な景色に見入ってしまったせいで朝風呂へ行くタイミングまでをも逃してしまったのだった。結局7時過ぎまで景色を見ていた未来はまずシャワーを浴び、ついでに歯を磨いて軽く化粧を施すと時計に目をやって時間を確認した。それでもまだ8時前であり、7時半からやっている朝食を取りに1人でレストランへと向かう事にしたのだった。部屋を出て隣の部屋のドアを見ながら清に声をかけようかどうかと迷ったのだが、結局寝ているのを起こしては悪いと考えてそのままその場を後にしてそそくさとエレベーターに乗り込んだ。白地に文字のような模様が入ったTシャツにジーンズ、そして髪を後で縛ったスタイルの未来はひょうひょうとしながらフリーダムへとやってきた。入り口を入ってすぐ脇にあるレジの横には紫杏が立っており、未来を見るなり笑顔で挨拶をしてきた。


「未来さん!おはようございます!あれ?お一人、ですか?」


いつも傍にいる清や他のスタッフの姿が見えないのを不審がりながらも朝食チケットを受け取る紫杏は笑顔を返す未来から何かを悟ったのか、どうぞと中に案内をした。一昨日のお風呂での紫杏からは想像も出来ないような営業用の口調でそう言われ、あの紫杏を知っている未来にしてみれば笑うしかない。


「今日はオフなんで・・・で、ちょっと聞きたい事があるんだけど、いいかな?」


案内された席につく未来の言葉にうなずく紫杏は未来からの言葉を待つようにお尻の辺りに手を回して指を組み合わせた。


「この辺りっていい場所あるかな?」

「ホテル周辺で?う~ん・・・・イマイチおすすめポイントはないですねぇ」


腕組みして少し考えてはみたものの、この辺で言えばすぐ前のビーチ以外にめぼしい物はない。


「そうですか・・・う~ん、じゃぁ、まぁ適当に散歩でもするかな」

「元々この島の全ての観光地から適度な場所にって作られたホテルなので、申し訳ないですね・・・」


まるで自分がホテルの支配人のような言葉を吐く紫杏に苦笑しつつ礼を言った未来に対し、業務として朝食バイキングの説明を簡単に行った紫杏はそれでもどこかいい場所はないかと思案しながら厨房へと戻っていった。未来はそんな紫杏の後ろ姿に小さな笑顔を見せると、お皿が積まれている場所に向かって歩いていくのだった。



朝食を終えて部屋へと戻り、まだ早い時間にも関わらず素早く着替えをすませた未来は携帯電話と財布、ハンカチを小さめのポーチに入れて肩からかけると、麦わら帽子をかぶってサングラスを手に取った。今はまだ8時半だが、この早い時間であればそう人目につかずに砂浜を散歩できると判断しての行動だった。いそいそと部屋を出てオートロックがかかったのを確認した刹那、隣である清の部屋のドアが開く音にそちらを見やった。


「あれ、もうお出かけ?早くないか?」

「早い時間なら浜でちょっとはくつろげるかなぁって」


一応声をかけておこうと思っていた矢先の出会いだったので、未来にとっては好都合である。だが、出来ることなら未来と一緒に1日を過ごしたいと思っていた清にとっては落胆の色を隠せない。


「携帯持ってるし、このホテルの近辺を散歩してくるだけだから」


ポンポンと赤いポーチを叩く未来の笑顔に勝てるわけもなく、ため息をついた清は笑顔を作って了解と告げた。


「くれぐれも気をつけてね?」

「わかってるって!じゃぁいってきまぁす!」


ひらひらとスカートの裾をひるがえしながら未来はエレベーターホールへ向かって小走りに去っていった。その後ろ姿を見送る清はあからさまに大きなため息をつくと、ポケットの中の朝食チケットと部屋のキーカードを確認してから重い足取りでエレベーターホールへと向かうのだった。先に1階へと下りた未来はご機嫌な様子でエントランスの大きな自動ドアをくぐる。いつもは清や撮影スタッフが一緒なわけだが、今日は違う。丸々1日フリーなのだ。快晴の空から降り注ぐ太陽の光を浴びながら大きく背伸びをした未来は海岸へと続く道を目指した。大きなホテルの正面玄関からちょうど真後ろにあたる砂浜からうち寄せる波の音が少し離れたこの場所まで響いてきている。濡れてもいいようにと履いてきた水色のサンダルから軽快な音を響かせ、未来はホテルの裏口付近に向かって歩き始めた。実際はホテル内からプール、中庭を経て海岸に通じているのだが、元々散歩を目当てとしている未来にしてみれば大回りでも外を歩きたかったのだ。そしてちょうどホテルの側面に差し掛かった時、そこに止まっている見覚えのある白い、そしてやや古めのワンボックスカーに目を留めてそこに近づいていった。その車が以前星と紫杏がロケ現場にお弁当を届けに来てくれた時のものだと確信した未来は車の真後ろに位置しているホテル通用口の扉が開いているのを見てから車の周囲をグルッと一周してみせた。運転席側の窓が開いている上にキーもささったままである。今到着したばかりなのか、はたまたこれから出かけるところなのかはわからないがこれを運転しているのは星かもしれないと思う未来はしばらくそこで誰かが現れるのを待つことにした。そして待つこと約5分、靴音をならしながら通用口から姿を現した長身の男性、星は運転席を覗き込むようにしている未来の姿を目に留めて少々驚いた顔を見せたが、未来が星の方を振り向いた時にはいつも通りの無表情となっていた。


「何やってんだ?」


いつもの見慣れた制服姿ではなく、黒いTシャツにグレーの膝丈までの短パンを履いた星はどこか新鮮に見えた。首の後で縛られた髪もいつもよりボリュームがあるようで、はっきりと耳が姿を現し、太陽の光を受けて十字架のピアスが銀色の光を反射して輝いていた。未来は笑顔を見せて挨拶をすると運転席から少し離れてみせた。


「おはようございます!よくお会いしますよね、最近」

「あぁ、そういえばそうかな・・・で、何やってんの?」


相変わらずぶっきらぼうにそう言う星は運転席のドアに手をかけた。


「今日はお休みなんで、散歩してます」

「この辺は何もないからな・・・ま、君ぐらいの有名人は出歩くのも一苦労だろう」


小さく笑いを交えながらそう言うと窓が全開になっているドアの上に肘をつき、未来を上から見下ろすようにしてその全身を見やった。こうして見ると、とても日本で一番有名なアイドルにはまるで見えない。近所に住む美人のお姉さんとしか見えないほど芸能人としてのオーラのような物が全く感じられなかった。


「黒崎さんはお出かけ、ですか?」


まじまじと見られている事が恥ずかしいのか、おずおずとした口調、やや伏せがちの目でそうたずねる未来から視線を外した星は運転席を見て一旦間を開けると、今度は未来の目だけをしっかりとみつめた。


「あぁ、買い出しにな・・・今日は俺が当番なもんでね」


買い出し自体がめんどくさいのか、素っ気なくそう言うと小さなため息まで漏らした星は大きな入道雲が居座る水平線の方へと視線をやった。


「そうなんですか・・・あ!じゃあ、私も一緒に連れてってくれませんか?ちょうど散歩じゃ物足りないって思っていたんですよ!」


嬉々としてそう言い、拳を胸の前で作って目をキラキラ輝かせる未来に一瞬眉をひそめた星はあからさまに困った顔をし、さらにため息までついた。


「買い出しっつっても漁港だし、なぁんにもないんだぜ?退屈するだけだろうさ」

「いいのいいの!」


困った顔のまま何とか説得しようとした星だが、全く笑顔を変えずに力強くそう言う未来にますます困ってしまい、ついには額を押さえる始末だ。


「いいのって・・・せっかくの休みだろ?」

「休みだからいろいろな所へ行きたいんじゃない!」

「・・・アイドルってのは休みの使い方を知らないのか?」

「っていうか、この島のいろんな場所を見たいだけ!そりゃぁロケであちこち行ったけど、そういう場所にも行きたいの!でもってあなたにこの島を案内してもらいたいの!」


目を輝かせ、1歩近寄りながらそう言う未来に何を言っても無駄だと悟ったのか、星は腰に手を当てて大きなため息をつきながら顔を伏せた。そしてしばらく何かを考えるようにそうしていたのだが、やがて顔を上げたその口元には苦笑気味の笑みが浮かんでいた。


「わかった、じゃぁ助手席に乗りな・・・」

「やったぁ!」


飛び上がらんばかりに喜ぶ未来に苦笑を浮かべたままの星は素早く運転席に乗り込むと助手席のロックを解除する。すかさず固いシートに座る未来からはシャンプーかコロンかの甘く、そしていい香りが流れてくるのだった。その香りに紫杏にはない女性としての部分を強く意識してしまった星だったが、決してそれを顔や態度に出すことはなかった。平静を保ったままエンジンをかけるとやや曇った音が車体を伝って体に直接響いてきた。


「オンボロなんで窓も手で開けてくれ・・・クーラーはついてないから。あと、俺にはタメ口でいいからな」


うなずく未来はさっそく手回しで窓を全開にするとシートベルトを締める。


「んじゃ、行くぞ」


ギアを入れて進み始めたワンボックスはホテル正面を走る道路に入り、空港や雪見の浜とは逆の方向、今まで未来が行ったことのない方角へと進み始めた。


「波島漁港っていって、この島で一番大きな魚港だよ・・・ってもまぁ大きさはしれてるがな」


しばらく景色を楽しむかのように窓の方へと顔を向け、南の島の風を気持ちよさそうに受け止めていた未来がシートに身を埋めるようにしてしっかりと座り直したのを見た星がそう説明をした。未来は必要最低限以外の会話をしないように思われた星が自分からそう説明してくれた事が何故か嬉しく、興味津々といった表情で真っ正面を向いて運転している星の顔を見やった。


「じゃぁ魚を仕入れにいくのね?」

「魚だけじゃない、昆布やいろんな物をね」


左耳のピアスが車の振動に合わせて揺れている。そのピアスをジッと見ているのに気がついた星だが、そのまま何も言わずに運転を続けた。今まではすれ違う車も無いに等しかったのだが、今日はよくすれ違ったり、途中まで後をついてくる車もあって未来はいろいろな事に驚き、興味を持った。海岸線をひた走る車の中は午前中とはいえ太陽のせいで暑い。だが、クーラーのないこの車が逆にその暑さを新鮮に感じさせ、未来はうっすら首筋に汗をかき始めていたが気にならない程であった。


「暑いだろ?」


チラリと未来を見た星がそう言うが、未来は小さな笑みを浮かべながら首を横に振った。


「暑くないよ・・・気にならないっていうか」

「君みたいな子ばかりだと助かるんだが・・・紫杏のヤツは毎回うるさくて・・・」


苦笑混じりにそう言う星はいつもホテルで見ている星とは違って見えた。いつもはどこか刺々しい、人を寄せ付けない雰囲気をどこかに持っていたのだが、今の星は実に穏やかな雰囲気なのである。どちらの星が普段の星かはわからないが、未来にとって今の星こそが本当の星だと思えるのだった。

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