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第5話

植え込みの陰で2人の会話を聞いていた未来と悠斗だったが、もはやマニアックともいえるその内容についていけない様子だった。元々2人の間には元恋人同士といったような関係があるとにらんでいた2人にとって全く違う線路を走る話題に飽きてきており、悠斗などはあくびを噛み殺す事ばかりに時間を費やしている始末だ。だがせいの事を知りたいと思っていた未来にとっては少なからず収穫があったといえる。元ヤンキーであり、『魔獣』という少年にやられてこの島に来たということが判明したのだ。自分でも何故こうまで星にこだわっているのかはわかっていないのだが、未来は帰ろうと誘う悠斗を無視し続けてジッと話を聞いていた。だが、既に2人に会話らしい会話もなくなってきた事から撤収を決め、悠斗をともなって音をたてないように気をつけながらプールサイドを走り抜けてロビーに戻ったのだった。


「なぁんか、思っていたよりつまらなかったな」


必要最低限の明かりしかついていないロビーへ戻った途端に大きなあくびをする悠斗はポケットに両手をつっこんだままフラフラとエレベーターホールへと向かった。未来は何度か今来た中庭に向かうドアを振り返りつつも悠斗の後に続いて歩いていく。


「ようするに、元ヤンキー同士の懐かしい思い出話ってやつだな」


うまく1階で止まっていたエレベーターに乗りながらそうつぶやく悠斗はつまらなさそうな表情で目的の階のボタンを押した。エレベーターは比較的大きめであり、濃い茶色を基本としながら鏡を張り巡らせていて、高級感を与える造りとなっていた。自分の部屋がある階に着いたベルの合図に、悠斗は軽く手を振っておやすみを言うと、疲れた様子で廊下を進んでいく。未来もおやすみなさいと答えたのみで、エレベーターのドアは閉じた。だがある事に気付いた悠斗があわてて振り返ったそこには、無情にも閉まった直後の銀色の扉があるのみだった。


「くっそぉ!未来ちゃんと密室で2人きり、アーンド、部屋に誘うチャンスだったのにぃ!」


悔しがる悠斗のその叫びは誰もいない廊下にむなしく響くのみであった。



水平線に薄くかかった雲はほぼ等間隔に開いており、その隙間からはオレンジ色した色合いが少し見えてきていた。暗かった空も藍色に染まりつつあり、夜明けが近い事を物語る。やがて水平線に近い空は青に変わり、海から離れた空が藍色に染まる頃、真っ赤な太陽がまばゆい光を放ちつつ雲の隙間からゆっくりと顔を出していった。そして太陽が完全に姿を見せる頃には帯状になった雲もどこへ行ったのか、今日も暑そうな真っ青な空に白い物体は見られなくなっていた。映画撮影2日目、未来がこの島に来て5日目の今日もまた早朝から市街へと繰り出し、撮影が行われた。特に今日は夜のシーンの撮影もあって、ホテルに戻った時間も深夜になってしまった。スタッフは明日のための機材の確認もあって、未来と清、悠斗と緑のみが夜間出入り口からロビーへと進入する。薄明かりに照らされた中、ロビーにいる人影は中庭を望むガラス張りになったその真横にあるソファに腰掛けた男性とおぼしき人物のみであった。そして、その男性をそこにいる4人は皆知っていた。


「黒崎?何やってんの?」


声をかけた緑に、持っていた新聞を下げた星は肩をすくめる仕草で挨拶をした。


「スープの仕込みの最中だ。煮ている2時間ほどは若手に任せて、大抵はここでこうしている」


そう言う星の目の前にあるテーブルには缶コーヒーが置いてあった。どうやらこの様子からいつもの事らしいことがうかがい知れる。


「緑さぁん・・・俺、先に戻ってるからぁ」


疲れた声でそう言う悠斗に手を挙げて応えた緑は星の横に腰掛けた。そんな、まるで彼女のように自然に振る舞う緑に対し、何故か胸がざわつくのを感じる未来は2人をぽかーんと眺めている清を急かして悠斗の後に続いたのだった。明日は午後から雪見の浜での撮影のみとなっているため、今からでも十分休養が取れるのだが、やはり深夜まで及ぶ撮影は疲労も大きかった。普段あまり疲れた顔を見せない未来もさすがに今日は疲れたのかエレベーターの中でも口数が少なく、そして表情も暗かった。とりあえず部屋に戻った未来はお風呂にゆっくり浸かるのは明日にして、部屋のお風呂で簡単にシャワーを浴びただけにとどまった。顔を上げて首筋にシャワーが当たるようにした未来はぼんやりと星の事を頭に思い描いていた。今まで特定の人にこうまで興味をそそられたことはない。だが、星に対してだけは何故か彼の全てが知りたいと思ってしまうのだ。あの十字架のピアスの意味といったどうでもいいような事まで含めるときりがないほどに。


「好きとかじゃないのにねぇ」


自分に言い聞かせるようにそうつぶやく未来は早々とシャワーを切り上げるとバスタオル1枚でベッドの上に寝転がった。だが、さっきまでの眠気はどこへやら、疲れ切っている体に反して意識は冴え渡っていた。とりあえずこのままでは風邪を引きかねないのでTシャツにミニのショートパンツを履く。ベッドに腰掛けてテレビのチャンネルを変えていくのだが、これといって興味が湧くような番組はしていなかった。


「お腹、空いたなぁ」


テレビのリモコンを投げ出して大の字になってベッドに寝ころんだ矢先、室内に電話の音が鳴り響き、未来はあわてて飛び起きると受話器を手に取った。


『未来ちゃん?お腹すいてない?』

「空いてる・・・」

『夜食取るからこっちおいでよ』


その言葉にすぐさま『はい』と返事を返した未来はテレビを消すと戸締まりもそこそこに隣の部屋に向かった。清はお世辞にも似合っているとは言い難いアロハを着ており、逆に出迎えた清は悩殺的な未来の格好に顔を赤くするのだった。夜食は2人ともサンドウィッチをオーダーした。そしてオーダーしてから15分後、部屋をノックする音に清はそそくさと玄関へと向かう。


「あれ?黒崎さん!」


玄関先ですっとんきょうな声を上げる清の発した言葉に、バルコニー際のソファに腰掛けていた未来はすっくと立ち上がると玄関へと走った。そこに立っているのは未来が始めて出会った時の格好、白シャツに黒いズボンを履いたコック姿の星だった。夜食を運んできた台車からサンドウィッチが乗った皿を取ると、一礼し、失礼しますと言ってから部屋の中へと入ってきた。そのままソファの前にあるテーブルの上にお皿を丁寧に置くと再度一礼してみせる。それは砂浜で会った星とはまるで別人のようであり、清も未来も少なからず戸惑うのだった。


「でも何で作った本人が持ってきたの?」


素朴な疑問をぶつける未来に、お皿についているラップを外していた清もまたうなずいた。夜食を作るのはコックたる星の仕事である。だが、それを運ぶのはホテル側の人間でありレストランの従業員ではないはずだ。


「こういう担当は一晩に1人です。今は担当者がたまたま別の部屋に運びに行ってるため、ついでにと頼まれたというわけです。まぁ、こういった持ちつ持たれつの関係もあってホテルは成り立っている、といった感じですかね」


星はホテルマンのように事務的にそう答えると、では、と言い残してさっさと玄関へと向かおうとした。


「あの・・・」


その星を未来が引き留める。振り返った星に対し、別段用があって呼び止めた訳ではない未来は困った顔をするしかなかった。そんな未来を無表情に見下ろす星はただじっと未来の言葉を待った。


「あの、えっと・・・」

「今日、街で撮影しているあなたを見ました・・・それを見て、あらためてあなたが有名人だと理解できました。世の中には私のように世間を知らない浦島太郎みたいな人間もいるってこと、覚えておいて下さい。だからあなたが反省することはないですよ」


星は微笑を浮かべて従業員らしい丁寧な言葉で静かにそう言った。上から見下ろし、まっすぐに目を見てそう言った星からは全く威圧感などは感じなかった。むしろ優しさを感じたほどだ。星はにこやかに微笑みながら礼をすると、部屋を後にした。そしてドアを閉める前に再度礼をすると、静かにドアを閉めるのだった。未来は頬を薔薇色に染めてその場に立ちつくし、星は清1人が見送った。その清は玄関に鍵をかけると、心ここにあらずといった未来に複雑な心境になっていたが、ぼーっとしている未来を急かしてソファに座らせ、サンドウィッチを頬張った。


「美味しいな」

「うん、美味しいね」


そう言いながらサンドウィッチを頬張る未来の表情には微笑みが浮かんでいた。その顔は恋をしている女性のそれに近く、清は少なからず星に対して嫉妬の炎を燃やした。砂浜の時とは違い、今のような落ち着いた雰囲気を持つ星はトップアイドルで人気俳優、ルックスも抜群な悠斗よりも男前である。背も高いせいか、最初はモデルにしか見えなかった清にとってこれは大きなライバルの出現なのかもしれないのだ。


「未来ちゃん、彼のこと、好きになっちゃったのかい?」


極めて個人的な質問なのだが、タレントの恋愛というものは事務所としては知っておかなくてはならない重要な要素である。基本的に恋愛は自由にさせてあげようというのが事務所の方針だが、今や未来の一挙一動は日本を揺るがすほどの影響力を持っているのだ。


「そういうんじゃないですよ、出会ってちょっとだし。ただ興味があるだけ・・・かな?」


その興味が後々恋愛感情に変わったりするんだよというボヤキは決して口にしないで、清はならいいとだけ言い残してサンドウィッチを食べた。未来は冷蔵庫からジュースを2本取り出すと1本を清に手渡した。何の感情の変化も見受けられない未来にホッとしながらも、星との動向は要チェックだと自分に言い聞かせる清は美味しそうにサンドウィッチをついばむ未来をチラチラ見ながら彼女を守る決心をさらに強めるのだった。



大浴場での朝風呂を終えた未来は満足そうな顔でエレベーターへと向かった。時間も午前8時と早いのだが、朝食に向かう客や早くも出かける客などがいるのでそそくさとエレベーターへと向かう未来は人がいないかを十分確かめてからボタンを押した。今は風呂上がりであり、見事にすっぴんである。今の時代は一昔とは違い、携帯電話にカメラが搭載されているので気をつけなければどこででも写真を撮られてしまうのだ。未来のこういう写真は雑誌などで出回るケースがあるために、ことさら慎重にならざるを得ない。もとからすっぴんに近い未来とはいえ、この状態での激写はさけるようにとの事務所のお達しもあるのだ。とはいえ、この間のような星の後をつけるようなこそこそした動き、しかも悠斗とのあの場面を撮られるほうがよっぽど痛いという事に全く気付いていないのは滑稽といえる。とにかく、人がこないうちに部屋に戻りたい未来はエレベーターが開いた瞬間に飛び乗ろうとしたのだが、目の前に人影を認めてあわてて横へ飛びのいた。


「相変わらず・・・そう急がなくてもここはそうそう使用されていませんよ」


エレベーターに乗っていた人物はそう言うと小さな笑みを残して箱から降りた。未来は思わず顔を赤らめてしまったのだが、これが2度目とあればそれも仕方がない。エレベーターから降りた人物、黒崎星は片手を挙げて会釈をするとそのままロビーの方へと早足で去っていった。呆然とその後ろ姿を見送るしかない未来は恥ずかしさで一杯の苦々しい笑顔を浮かべるしかなかった。その背後でエレベーターの扉が閉じられる音を聞いた未来はあわてて上行きのボタンを押して再度扉を開くと、それに飛び乗った。


「会いずらくなっちゃうなぁ・・・かっこわるくて」


壁にもたれながらそうつぶやく未来は階数を刻んでいく電光表示を見ながら星の顔を思い浮かべるのだった。



今日もまた入道雲が青い空に自分の存在をアピールするかのごとく、その白い姿を存分に見せつけていた。撮影アイテムである麦わら帽子をかぶった未来はご機嫌な様子でホテルの玄関から飛び出し、その空を見上げた。都会でも見られるその空は、未来には全く違ったように見えた。空の青も雲の白もどこかいつもの夏と違ってより濃さを増したような、はっきり夏だと言いきれるようなそんな空に自然と笑顔もこぼれ落ちた。


「よぉ、今から撮影かい?」


夏だというのに黒いズボンに肘までめくりあげた長袖の白いYシャツを着たフリーダムのオーナー玄吾が、先日星と紫杏が弁当を運んできた白いワゴンの脇からひょっこり姿を現した。オールバックの長い髪もまた暑そうな玄吾であったが、その額に汗は浮かんでいなかった。


「はい!今日は夕日のシーンなのでこの時間なんです。だから今日もお店で夕食を食べられないのが残念で・・・」


最初は元気良く話していた未来だったが、よほど玄吾のレストランで食事がとれないのが残念なのかそのトーンを徐々に落としていった。


「こりゃ嬉しいことを言ってくれる・・・今度来たときはワシがとびっきりの料理を作ってあげるさ」


右目を細めてそう言う玄吾は年に似合わぬ笑顔を見せた。


「いつもは作っていないのですか?」

「ん?ん~、作ってるのは作ってる。だが、ウチには腕のいいのがいるからね。だから忙しいとき以外はほったらかしさ。年寄りにゃ立ち仕事はキツイしなぁ」


本気とも冗談ともとれるような言い回しをした玄吾だったが、未来はそれを素直に受け取った。もっとも、玄吾が言う『腕のいいやつ』が星を指していると勝手に決めた上での事だったが。


「さぁて、こんなトコで油売ってるとまた紫杏のヤツにどやされちまうわ・・・暑いから気をつけてな」


玄吾は肩で風を切るようにしながら玄関へと去っていった。見送る未来でなくともその後ろ姿がヤクザの様に見えていただろう。その玄吾が去っていったのと入れ替えに清がやってきた。


「お待たせ!黄味島君たちは別の場所でロケ中だから、僕らと伊藤さんの班はこのまま現地入りだ」


玄関を出てまだ数秒しかたっていないにも関わらず、すでに大粒の汗が額から流れている清は今言った伊藤という人物が運転しているブルーのワゴン車がやってくるのを見て手を振るのだった。



幻想的に沈んでいく夕日をバックに、若い男女がその想いを抑えきれずに抱きしめあっていた。どれぐらい抱きしめあっていただろうか、ようやく離れた女の肩に手を置いた男は覗き込むような仕草で女の瞳を見つめた。


「もう私を1人にしない?」


裸足の足を寄せる波が濡らす。風が白いワンピースを揺らす。朱に染まった空と海が赤さを帯びた白い砂浜に落ちている麦わら帽子に長い影を落とさせた。男を見上げる女の目には涙が溜まっていて、それが頬を伝うまでそう時間はかからなかった。


「しない。絶対に・・・たとえ何があろうと、俺は死なない。少なくとも、お前より先には死なない」


女を見下ろす男の目は優しく、口調も穏やかで女への愛情が溢れているのが十分に伝わった。


「信じて・・・くれるか?」

「・・・・・・信じる」


そうつぶやくように言うと、女はそっと目を閉じた。男の顔がゆっくりと女の顔に近づき、その唇が触れ合った。



「芝居でなかったらぶっとばしてるところだ・・・」


たとえ映画のワンシーンであっても、愛する女性のキスシーンは何度見ても腹立たしい。特に演技力には定評のある2人だけにこういうシーンは私生活でも同じだと報じられた事もあって、清は苦々しい思いをしているのだ。実際、今の未来は恋愛よりも仕事であり、悠斗に対しても何の感情も抱いていない。だが同時にそれは清に対しても同じだという事になる。これは喜ぶ事なのか悲しむことなのか複雑な心境の中、こういうラブシーンをいつか芝居ではなく本気で未来としてみたいという願望のみが徐々に心を埋めていった。こんな幻想的で美しい夕日をバックに、燃えるがごとき赤で染まった空と海に囲まれて未来とキスしている自分を思い浮かべる。潤んだ瞳の未来がそっと目を閉じ、その愛らしい唇にそっと自分の唇を近づける。そして・・・


「何してんです?」


スタッフが用意しているクーラーボックスからジュースを取り出した緑が、目を閉じ、唇を尖らせて体をくねらせている清の背後ろからそう声をかけた。


「この映画って、恋人を海で失った少女がもう1度恋する自分を取り戻す話でしょ?だからどんなのかなぁって・・・・思いましてね」


声をかけられてすぐに体を硬直させた清だったが、すぐさま冷静な口調で、しかも驚きと恥ずかしさで痛いほど動く心臓を抑えて実に普段通りにそう答えた。意外と演技派である。


「海という自然に恋人を取られただけでもつらいでしょうね・・・・」

「そりゃ理由はどうあれ恋人亡くすのはつらいでしょう」


清は落ち着きを取り戻しながらそう答えた。緑は缶ジュースを口にしながら、どこか遠い目で抱き合う未来と悠斗の姿を見ていた。


「・・・わけもわからず恋人を殺されて、復讐を考えないなんてありえないのかな?」

「え?」


つぶやく緑の言葉をはっきり聞いた清は思わず緑を振り返った。


「たとえば、あなたの恋人がある日殺された。でも犯人は無茶苦茶強い上に権力もあって警察も国も動かない・・・あなたなら、どうする?」

「そりゃ復讐しますよ」

「どうやって?」

「・・・・どうやってでも・・・」

遠い目をしながらも鋭く心を突く言葉で質問を投げる緑に、清は徐々に声のトーンを落としていった。実際そういう立場にならなければわからないが、少なくとも復讐は考えるだろう。たとえ自分がどうなろうとも。


「『純粋に戦いを楽しむ者』と『自分を捨てて戦える者』・・・・・結局勝ったのは『想いの強かった者』・・・・か」


緑のその言葉が意味するところが全くわからない清は首をひねるしかなかった。緑は赤く染まる空と海に、あの日見た凄惨なる光景を重ねていた。血で朱に染まる地面、倒れている彼氏。そしてぶつかりあう2つの魂。戦いを楽しむ『キング』の必殺の右ストレート、コンクリートすら砕くと言われた上に『それを見ることは不可能』とまで言われた超高速で繰り出される鉄拳を、まさに電光そのものの動きでかわし、人を超えたスピードで『キング』のアゴに拳をめり込ませた『魔獣』。地を蹴ったその体は3倍はあろう体重の持ち主である『キング』の巨体を宙に浮かせた。そして『キング』はそのまま背中から地面に倒れ込んで動かなくなり、『魔獣』はふらつきながらも立ち上がったのだ。今でも忘れられないその光景、『キング』の恐怖に引きつった顔に『魔獣』の叫び。全身をボロボロにし、まさに満身創痍の状態で立つ『魔獣』は口から腕から血を流し、その身は赤く染まっていた。そう、ちょうど今見ている景色のように。


「カーット!」


叫ぶ監督の声に我に返った緑は、なれなれしく未来の肩を抱きながら意気揚々とやってくる悠斗に近づくとその頭にげんこつをお見舞いするのだった。



結局、脚本の追加で夜のシーンまで撮影した結果、未来たちがホテルに帰り着いたのはほとんど夜中に近い時間であった。今日はより一層の暑さもあって疲労いっぱいの未来は清からの夜食の誘いを断るとそのまますぐに大浴場へと向かった。基本的に大浴場は朝10時からお昼の12時までの清掃時間を除けばいつでも入ることが出来るようになっていた。清からは夜中に1人で行ってはいけないとされていたのだが、今日はどうしてもゆっくりと大きな浴槽に浸かりたい気分だったのだ。このホテルに未来が宿泊している事が知られてしまっている為、盗撮や変質者による暴行などが危惧されているわけだが、未来はおかまいなしに脱衣所へと入っていった。その入り口には1組のスリッパが置かれている。どうやら1人先客がいるようだ。この先客がどういった人物かわからない未来は一応失礼だとは思いつつも、その人物の着替えが入ったカゴを覗き見るようにしてチェックをしてみた。カゴのなかには黒いスカートと白いシャツ、そして明らかに女性用とわかるショーツとブラジャーが置かれており、男性の影らしきものは見あたらなかった。天井や壁を見渡し、カメラなどが無いかもチェックしてみせる未来だったが、実際盗撮に使用するカメラは超小型であり、パッと見ただけではわからない事は重々承知している。そこで逃げる事も視野に入れた未来は一番入り口付近の壁際の一番上のカゴに脱いだ服を入れていった。万が一誰か来ても即座に逃げられるようにするためと、一番ここが死角になりそうであったからだ。とりあえずバスタオルを体に巻き付けた状態でタオルを持ち、浴室へと向かう扉の前に立つ。バスタオルは体を拭くための物とは別にもう1枚持ってきているのだ。未来はすりガラスの扉を横にスライドさせる。カラカラという風呂場ならではともいうべき音を立てて開いた扉の向こうは湯煙で曇っていたが、広い風呂場の中に人影は見あたらなかった。脱衣所に脱いだ服があるにもかかわらず誰もいないという事が不気味な未来は眉間にしわを寄せながらゆっくりと1歩を踏み出し、濡れた石の感触を1歩1歩確かめるように音もなく静かに中へと入り、扉を閉めた。打たせ湯が落ちてくる音しか聞こえない中、未来は一番身近にあった桶を手に取ると、お湯をすくって体にかける。ばしゃばしゃという音が打たせ湯が落ちる音に重なり合う中、未来はきょろきょろしながら中にいるはずの人物を捜すが、やはりどこにも見あたらなかった。もしかすればトイレかなとも思いつつ、ここでもゆっくり慎重に一番大きな湯船に浸かっていく。タオルは縁に置き、オレンジ色のバスタオルが巻かれた体を水中で滑らせ、一面がガラス張りの壁際まで行った未来はアゴまで体を浸けると注意深く入り口を睨むようにしてみせるのだった。お湯の温度はさほど熱くはなく、未来にとってちょうどいい湯加減となっていた。撮影の疲れとそのお湯の温かさのせいか、やや緊張も途切れだした未来は目を閉じ、体を浮力に任せる感じで全身の力を徐々に抜いていく。アップにされた髪だけは気をつけながら体をお湯に任せて揺らす未来はまさに夢心地気分で今にも眠りそうな意識をなんとか保っているにすぎなかった。だが、その安らぎの時間は唐突にうち破られるのだった。突然右奥にあるサウナのドアが勢いよく開いたのだ。その音によって一気に現実世界に意識を引き戻された未来は自分の存在を猛烈にアピールする心臓の動きに痛みを感じながら、身をすくませ、目をこれ以上ないほど大きく見開いてドアから出てきた女性の姿を凝視した。全く何も身に纏わない、まさに一糸まとわぬ生まれたままの姿のその女性はこれまた勢いよくサウナのドアを閉じると、今未来が入っている浴槽の右横にあるジャグジーが勢いよく噴出している小さめのお風呂に飛び込む勢いで入っていくのだった。


「だぁ~・・・もー、やっぱこれねぇ~」


見かけは若いその女性はまるでおばあさんのような口調でそう言うと、浸かったまま肩にお湯をかけていく。未来はそんな女性をやや引きつった表情で見ながら、徐々におさまっていく心臓の動きをさらに抑えるように深呼吸してからその女性に声をかけた。


「し、紫杏さん?」


サウナから出てきた時からわかっていたのだが、実際横に来てからその女性が紫杏だと理解した未来のその声に、声をかけられた紫杏はそこにいる未来など目に入っていなかったかのような驚いた顔をしてみせた。だが、それは先ほど未来が驚いたものよりも遙かに軽いものだ。紫杏も未来に気付き、驚きながらも笑顔でジャグジー風呂を出ると未来のいる浴槽へと入ってきた。横に並ぶ格好で座る紫杏に笑顔を向けた未来は明らかにホッとしたような顔つきになり、紫杏はそんな未来の顔を見て小首を傾げる仕草を取った。


「なに?」

「ううん、ごめんなさい。私、着替えがあるからてっきりここに誰かいるものだと思ってて・・・でも誰もいないから正直ビクビクしてたの」

「あぁ・・・ゴメンねぇ、私、軽く浸かった後はすぐにサウナに行くから・・・そりゃ失敬したねぇ」


その言い方が癖なのか、はたまたわざとそう言ったのか、紫杏はどこかババクサい言い回しでそう言うと、小さく笑って見せた。健康的に焼けた小麦色の肌はここへ来て少し焼けた程度の未来とは全く違う色合いとなっている。街でロケをした際に見たこの島の住人たちと変わらぬ肌の色だが、言葉遣いがどこか違っていた。なまりというものが無いのだ。だがそれに関しては星や玄吾も同じであったのだが、迎えの車の中での茶木の話から玄吾と星が東京からやって来たということはわかっている。おそらくこの紫杏も同じではないかと思った未来は、今の紫杏が持つ柔らかい雰囲気もあり、思い切ってそれを聞いてみることにした。


「あの、紫杏さんって、東京の人なんですか?」

「そうよ」


即座にそう答えた紫杏は湯船のお湯で顔を洗うと、そのまま髪を掻き上げた。相変わらず三つ編みにされた黒髪は湯船に浮かぶ船のように波に揺られている。


「2年前にこっちに来たの」

「そうだったんですか。なんか言葉遣いが地元の方と違っていたから」


未来のその言葉ににこやかな笑顔を見せた紫杏はおもむろに立ち上がると未来とは対面の位置にある湯船の縁に腰掛けた。そこへ行くまでの間、未来は素っ裸の紫杏の後ろ姿を見ていたが、そのプロポーションは未来とそう変わらないほど見事なものであった。顔も可愛い紫杏は程良い肉付きであり、きゅっとくびれたウェストラインもなめまかしく、バストもヒップも形良くまとまっているのだ。紫杏は縁に腰掛けたまま足を組み、同じ女性でありながら未来を少々ドキドキさせるのだった。


「でもいいところですよねぇ、この島って」


未来は笑顔でそう言った。紫杏はそんな未来の顔を見て嬉しそうな顔をしてみせたが、それはすぐにかき消えてやや沈んだ顔になってしまった。そんな紫杏の表情を見て眉をひそめる未来に対し、立ち上がった紫杏は再び未来の横へと湯船に波を起こしながらゆっくりと近づいていった。


「私がそういう風に思えたのは、ここへ来て半年経ってからだったわ。それまでは、なぁんて退屈な所なんだろうって思ってた」


どこか苦笑めいたその紫杏の言葉に未来は顔を上げて紫杏を見た。その紫杏はガラスの向こうに広がる暗闇を凝視していた。その目はどこか冷たく、そして鋭かった。


「両親はいっつもケンカしててさ、私をほったらかしてた。それこそ援交しようが何しようが無関心。それにムカついて、援交で貯めた金を全部はたいて適当にここへ来たの」


無表情に暗闇を見つめる紫杏を見上げていた未来も同じように立ち上がると、紫杏が見ている暗闇に目をやった。ライトアップされている砂浜以外、まともなものは見えない。もはや海と空の境目すらわからない夜空には星も月も出ていなかった。照らすべき光を持たない夜空に目を凝らす未来は、どう紫杏に声をかけていいかわらないでいた。


「来たはいいけど、何をしていいやらわからずに、結局ここまで来て援交相手を捜した・・・で、良かったのか悪かったのか、オーナーに声をかけたんだ。『3万くれたらなんでもOK』ってね」


その時の事を思い出しているのがわかる遠い目をする紫杏の横顔を、未来は見つめ続けた。相づちを打つが全く話を挟まないのが良かったのか、紫杏はそのまま話を続ける。


「そしたら『いいだろう』って・・・見た目ヤクザだからヤバそうだったもんで正直ちょっとビビってた。そしたらこのホテルに連れてこられて、3万円分働かされた・・・3日ぐらい働いて、ご飯付き、しかも泊めてもらって3万円もらったんだ」


言い終わると、紫杏は自分を見つめている未来の方を向いて小さな笑顔を見せた。


「『ご苦労さん』って言われて封筒渡された時、私、泣いたの・・・自分でも何で働いたのかわからなかったけど、ここでは自分を必要とされてたからかなぁって、今更ながら思う」


照れたような笑みを見せる紫杏に、自然と未来も笑顔になった。


「今までの自分がひどく汚れていた気がしたのもあるんだけどね・・・だからここが居場所だって思えて、そのまま居着いたの」

「ご両親は?」

「一応手紙書いたけど音沙汰ないわ・・・結局、私なんてどうでもよかったって事ね」


やや大げさに肩をすくめる仕草を見せた紫杏は勢いよく湯船に浸かると2、3度顔を洗った。未来も再度浸かり直すと、タオルを置いてある縁の方へ湯船に体をつけたまま進んでいった。その姿は真上から見ればさながらワニである。


「そういえば、黄味島悠斗さんのマネージャーって星の知り合いなんだね?」


体に巻いていたオレンジのバスタオルを取る未来の背中を眺めながらそう問いかける紫杏は無意識に自分の下腹部あたりに目をやった。はやりアイドルとしてのプロポーションを保つためにかなり鍛えられている未来のお腹はどこか筋肉質であり、出っ張ってはいないものの紫杏のそれとは明らかに締まり具合が違っていた。


「そうみたい・・・昔、2人ともワルだったみたいで、その時の知り合いなんだって」


そう言ってからしまったと思う未来はこの話が盗み聞いた事であることに気付いたのだ。だが、今の話は実際宴会の席で緑がしていたものであり、盗み聞いた事ではない。だが、盗み聞いていた事に対する罪悪感が未来の中で弾けてしまい、その心を表すように表情を曇らせたのだった。


「そうかぁ・・・でも、あの星がワルとはね・・・後でからかってやろーっと」


背中を見せていたままだったのが幸いし、紫杏は未来の表情の変化を見てはいなかった。いたずらな笑みを浮かべた紫杏はアゴに指をあてて何やら一人で算段を練っているようである。


「く、黒崎さんってそんな感じしませんよね・・・・優しいし」


これ以上緑と星の関係を突っ込まれてはマズイと思った未来は紫杏の方を振り向きながらここが話題を変えるチャンスだとばかりにそう話を切り出した。そのまま縁に腰掛けた未来の横にやって来た紫杏は小さな笑みを浮かべており、どうやら未来の切り出した話に乗ってきたようであった。


「ところがさ、結構ヤなヤツなんだぁ~・・・私が来たときから副料理長で、まぁ、確かに腕は凄いんだけどね・・・でも嫌味は言うし、それ以外はあんまりしゃべらないしさ・・・デッカイお鍋で頭を叩きたくなることが1日何度あるか・・・」


しかめっ面の中にも愛嬌ある表情を見せながらそう言う紫杏に、未来は小さな笑いを起こして見せるのだった。たしかに無口でぶっきらぼうだが、あまり嫌味を言うようなタイプに見えない星の顔を思い出しながら、未来は星の意外な面を聞かされて少し嬉しさを感じていた。今の紫杏の話を鵜呑みにすれば星は嫌なヤツという風に思えていただろう。だが、今の紫杏の言葉の中にはどこか温かみが感じられたのだ。


「紫杏さん、黒崎さんの事、すっごく好きなんですね」


唐突にそう言われた紫杏は目を目一杯見開いてから大声を上げて笑い出した。広い大浴場に反響するその笑い声に未来はきょとんとし、お腹を抱えるようにして笑う紫杏はひとしきり笑った後、落ち着きを取り戻した涙目で未来を見つめた。


「そうよ、好きね」


何故大笑いをしたかはわからないが、素直にそう答えた紫杏をどこか羨ましいと思う未来は小さな笑みを浮かべた。


「しっかし、そんなにストレートに、しかも嬉しそうに言われるとは思ってもみなかった」


紫杏はそう言い残すと湯船を出てシャワーに向かう。木で出来た椅子にドカッと座ると、女の子らしからぬ大股を開いた状態で結っていた髪をほどくと豪快にシャンプーをつけて頭を洗い出した。未来はそんな紫杏を見ながらも湯船を出ると、1つ間を開けて紫杏の横に腰掛けた。


「別に好きになってもいいよ、星の事」


泡で真っ白になった頭をさらに泡立てながらそう言う紫杏の表情が読みとれない為、冗談とも本気とも取れないその発言にボディソープをタオルにつけようとしていた未来は手を止めるしか出来なかった。


「私は、別に黒崎さんの事なんとも思ってませんから・・・」

「え?そうなんだ」


顔まで泡で覆われてきたため、かろうじて開く右目を未来に向けた紫杏は一瞬動きを止めたのだが、またすぐさま正面を向いてガシガシと頭を洗い始めた。そんな紫杏に向かってため息をついた未来は泡立てたタオルで丁寧に左肩から体を洗い始めた。そして未来が自分の全身を白い泡で包み込む頃、紫杏は頭のシャンプーを全て洗い流し、一息をついていた。


「弁当届けに行った時にさぁ、なぁんか星を見て嬉しそうだったから・・・・違うのか」


鏡に向かって顔の向きを変えながら何かをチェックするかのような仕草を取りながらそう言う紫杏の口調は非常に落ち着いたものであり、さっき星を好きだと言った言葉がまるで嘘のように感じられた。ともすれば恋敵になるかも知れない未来相手にこの口調は余裕から来るものなのか、はたまたあきらめから来るものかはわからない。だが、もし未来が星を好きだと言ったなら、相手はアイドルであり、容姿でも財力、魅力でも敵わないであろう。未来は紫杏の考えがさっぱりわからないといった表情をしながらも体を洗う手を休めなかった。


「アレはここへ来た夜に偶然会って、その時にちょっと気になっただけ・・・」

「そうなんだ・・・でも、ま、あいつはわけわかんないヤツだし、ひょっとしたら・・・」


一旦そこで話を切った紫杏は真剣な面もちで鏡の中の自分を睨むように見つめ続けた。


「・・・な、なに?」


その紫杏の沈黙に何故かドキドキしてしまった未来はややうわずった声でそう聞き返すのが精一杯であった。


「ホモ・・かもね」

「・・・・・」


鏡の自分から未来に視線を移し、真剣な目でそう言う紫杏に、未来はもはや返す言葉を失うしかなかった。

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