第3話
未来たちがホテルに戻った時は午後6時半を回っていた。綺麗な景色を堪能し、また自然にとけ込んだ美しい市街の中で撮影を済ませた未来はご機嫌で部屋に戻ると7時からの夕食に備えて軽くシャワーを浴びた。お腹は既にペコペコであり、はしゃいだせいもあって喉も乾いている。だがバスタオル1枚で髪を乾かす未来は夕食の美味しい料理を楽しみにするためにもここはミネラルウォーターを少し飲んだだけで間食をせずにグッと我慢をしたのだった。ピンクのTシャツに白い短めのズボンを履いた未来は自分を呼びに来た清が鳴らしたインターホンを合図にカードキーを持って外に出た。2人はそのままエレベーターに乗り込むと2階のレストラン『フリーダム』を目指した。
「黄味島悠斗とは以前撮られているだけに慎重にね?それはそれで映画の宣伝にもなるけど・・・君のイメージに関わってくるから」
エレベーター内でそう言う清に対し、素直にうなずく未来は当時周囲にいろいろ言われて疲れた事を思い出していた。何とも思っていない人との熱愛を報道されても困る上に、悠斗のファンからの嫌がらせも相次いだのだ。
「わかってる・・・役者としては凄いと思うけど、ただそれだけだし」
素っ気なくそう言う未来に小さな笑顔を浮かべた清は、もうそれ以上何も言わなかった。未来が悠斗に対して何の感情も抱いていないことはよく知っている。前回のスキャンダルの際にも迷惑そうな顔しており、事務所との話し合いの場でも真っ向から否定していた事もあって、清は未来の言葉を素直に受け取ったのだ。
「役者としては、演技は君の方がずっと上だよ」
開いた扉をくぐる際、前を向いたままそう言った清の言葉に目を細める未来は小走りにエレベーターを降りると清の横に並んで歩くのだった。
昨日とはまた違った円卓3つに座っている映画のスタッフと悠斗、緑のいる席に案内された2人は悠斗たちが座っている円卓に腰掛けた。意図的にそうされているのか、悠斗は監督の藍空まさとと緑の間に座っていた。緑の横には清が座り、その横に未来が腰掛けた。小さく手を振って愛想を振りまく悠斗に軽い会釈を返した未来はおしぼりを持ってきた紫杏に笑みを見せた。男性ウェイターも手伝って総勢17名におしぼりを配り終えた紫杏は自分を熱い視線でじっと見つめる悠斗に軽い会釈をしてから全員に対して礼をした。
「本日はコース料理になっております。郷土料理と和洋織り交ぜた食事をお楽しみ下さい」
やや低いながらも透き通るような声でそう言った紫杏は一礼するとすぐに去っていった。入れ替わりに前菜を持って数名のウェイターがやってくる。どうやらいつもよりも客数が多いために従業員を総動員したようだ。他の宿泊客が少ないせいか、もはや貸し切り状態といっても過言ではない。初めは島の自然に関する話や未来の写真撮影の話など、どちらかといえば仕事の話で盛り上がっていた。だが、メインディッシュが並ぶ頃にはお酒もすすみ、皆が普段の呑み会感覚での話へと変貌していった。お酒を飲まない未来は昨日とはまた違った郷土料理に舌鼓を打ち、また、地元で取れたあっさりした魚料理や揚げ物に美味しいを連呼していた。その未来の見事なまでの食べっぷりには清が苦笑を漏らすほどであった。
「白木さん、日本酒はいけます?」
横に座る緑から不意にそう言われた清はうなずくと、飲みかけのビールを一気にあおった。緑はにこやかに微笑むとそばにいた紫杏を呼び、地酒をオーダーした。
「ここの地酒が美味しいってガイドブックに書いてあったもんだから」
「どうでもいいけど緑さん・・・飲み過ぎないでくれよ?」
大きな海老をがっついていた悠斗の言葉を聞きながらにっこり微笑んだ緑は、今の言葉に苦笑した清が視線を料理に向けたほんの一瞬に横目でキッと悠斗を睨み付けた。悠斗は引きつった顔をしながらもビールを飲むと、咳払いを1つして未来に向かって微笑んだ。
「未来ちゃんはお酒、飲まないの?」
なれなれしく『未来ちゃん』と呼ぶ悠斗にむかつきながらも、清は紫杏が持ってきた地酒のグラスを緑のそれに当てて軽く乾杯をした。クッと一口飲んだ清はどちらかといえば辛口なその味に眉間にしわを寄せた。あまり酒に強くない清だが、グラス1杯の日本酒など平気なはずだった。だが、この酒はどちらかといえばきついのだ。同じものをオーダーした緑に対し、ちょっと辛口ですねと声をかけようとそちらを見た清は、一気にそれを飲み干す緑の姿に唖然としてしまった。
「す、すごいですね・・・・辛口でしたでしょう?」
コップを勢いよく置いた緑は平然とした顔をしており、今の清の言葉に小さく微笑んだ。
「そうかなぁ?でも美味しいわぁ。すみません、これおかわり!」
もはや呆気に取られる清は乾いた笑いをしながら未来の方を見た。どうやら未来も今の緑の飲みっぷりを見ていたようで、驚いた顔をしていた。
「お酒強いんですね・・・佐伯さんって」
「そうなんだよなぁ・・・・打ち上げとかじゃぁもう際限なく飲んじゃって、大変・・・・なん・・・だ・・・」
未来の言葉にしみじみ相づちを打っていた悠斗はその言葉の語尾を徐々に小さくしていった。というのも、悠斗の言葉に緑が静かに微笑みを返しているからだ。はたから見れば緑は微笑んでいるようにしか見えないのだが、悠斗にはその笑顔の真の意味が理解できたのだ。今までこの笑みを見た後の仕打ちは自分が一番よく知っている。
「と、ところで未来ちゃん、今日はどこで撮影してきたの?」
なんとか話題を逸らそうと未来に話を振った悠斗だが、相変わらず鋭い視線を向けながら微笑む緑は追加で来た地酒も一気に飲み干してしまった。未来は今日見た素晴らしい自然や景色の数々を身振り手振りを交えて話して聞かせた。悠斗も緑もその話を聞き、自分たちも撮影で見られる日を楽しみしようと思うのだった。
「また撮影であの夕日を見られるのかもしれないけど・・・いつかは好きな人と来て、その夕日を一緒に見たいなぁ」
手にアゴを乗せてどこか遠い目をしながらそうつぶやくように言う未来に、緑の片眉がピクリと動いた。
「未来ちゃん、好きな人、いるの?」
すかさずそう聞いた悠斗に、心の中で『ナイ~スつっこみ!』と突っ込む緑は実に冷静な目で未来を見つめていたが、心の中はワクワクしていた。
「今はいませんよ。いつか誰かを好きになったらって話です」
さわやかな笑顔で今現在誰も好いていないことを告げた未来に、悠斗はニヤリとし、緑は心の中で疑いの心を持った。そして清はいつか自分が未来と恋人同士になりたいと強く願っていた。3人が3人ともバラバラな感情を持つ中、未来はオレンジジュースを口にして一息ついてから緑に対して質問を投げかけた。
「佐伯さんは、そういう人いるんですか?」
突然そう振られた緑は目を見開いて視線を外す。困ったような顔をする緑に対し、未来は好きな人がいると思い、清はいないと判断した。
「聞いてくれるな未来ちゃん・・・それでなくてもすっげー寂しい思いをしてんだからさぁ・・・」
本人ではなく悠斗がそう答えたのだが、そう言った瞬間にしまったいう表情をした悠斗はあえて緑とは反対側の方向に視線を落とした。
「・・・いないわよ、もう何年もそんな人・・・」
誰にも気付かれないように悠斗の足を踏んづけながらそう言う緑は、大きなため息をついた。
「17歳の時に当時の彼氏と別れてからはいない。この仕事始めたらさらに忙しくてそれどころじゃないもの」
「へぇ~、そうだったんですか・・・」
「そ、彼氏いない歴はもう7年かぁ・・・・これってヤバイよねぇ」
自嘲気味にそう言うと、空になったグラスをクルクルと回した。以前、ドラマで悠斗と共演した際に緑とは仲良くなっている未来たちは彼女が22歳でこの仕事を始めた事は知っている。だが、プライベートな事は事務所が違う為、そうそう話をすることがなかったのだ。だが今はこういう席でもあるために、そういった壁がないように感じる。
「でも佐伯さんって美人だし、お仕事できるし、彼氏なんてその気になればすぐですよ!」
「まぁねぇ・・・・でも24歳で仕事の面白味に目覚めた美女・・・もはや並みの男では満足できない私・・・・この先どうなることやら」
自画自賛もここまでくればたいしたものである。もはや笑うしかない一同に対し、緑はどこか遠い目をしてみせた。
「元ヤンキーってのが一番のネックかも」
そっぽを向きながらポツリとそう漏らした悠斗が緑にスネを蹴られるまでの時間は音速を超えていたであろう。
もはや絶好調の悠斗は未来の肩に手を回して口説きに入っていた。宴会も進み、デザートが円卓に並ぶ時間となっていたが、皆の盛り上がりは最高潮に達していた。この波島での壮大な自然を武器になんとか男女としてのいい関係を築きたい悠斗はアルコールの後押しもあってかいつもにも増して大胆になっていた。いつの間にか席も隣同士となってしまった未来と悠斗を気にしながらも、まるで自分に寄り添うようにして愚痴をこぼす緑の話を聞いている清はこの宴会が早く終わる事を願っていた。
「おーおー、すげぇ事になってるなぁ」
奥から現れたオーナーである玄吾はその大きな体にふさわしい大きな声でそう言うと会釈をする未来に白い口ひげの端を吊り上げてみせた。そのまま横にいる悠斗に顔を向けた玄吾に対し、ずっと閉じられた左目に釘付けになってしまった悠斗はやや引きつった表情を浮かべるしかない。玄吾はかぶっていた白い帽子を脱いで白髪混じりの髪を2、3度掻き上げてから再び帽子をかぶりなおすと、薄い笑みを浮かべたまま周囲を見渡した。出した料理は綺麗に平らげており、デザートもほぼ完食状態になっていた。
「すごく美味しかったです」
テーブルを見渡す玄吾の意図に気付いたのか、未来は笑顔でそう言った。玄吾は右目も閉じると小さく笑い、片手を挙げて礼を言った。
「ここのオーナーさんです」
いまだにポカーンとしている悠斗にそう言うと、未来は肩に回されていた手を気付かれないようにそっと外した。玄吾はそんな未来の動きを見て苦笑を漏らすと、悠斗のそばにやってきた。
「ワシのこの左目に興味がありそうだな?」
「え?あー、いや・・・・」
顔を近づけてそう言う玄吾に対し、もはや体を硬直させてのけぞるようにしている悠斗は明らかに怯えているといった感じである。どこからどう見ても、悠斗にとって玄吾はヤクザにしか見えないのだ。
「この目は2度と開かない・・・なぜなら、昔、腹が減った時に食っちまったからだ」
右目だけとはいえ鋭い眼光を放つ玄吾の不気味な笑みに、悠斗は引きつった笑顔を浮かべるのが精一杯だった。冗談としか思えない今の言葉も、玄吾が言えばまんざら冗談にも聞こえない。
「オーナー!もう!どこ行ったのかと思ったらこんな所で・・・・スープ、焦げちゃいますよ?」
厨房から大股でやって来た紫杏の言葉に頭をぼりぼり掻く玄吾は苦笑いを浮かべると、酔って清にからんでいる緑の方へと何気なしに目をやった瞬間、一瞬だがその右目を鋭くした。その場にいた者の中でその目に気付いたのは未来だけであったのだが、未来もその目の意味するところがわからずに小首を傾げるしかなかった。
「『セイ』の野郎にスープを見させとけ。すぐに行くからよ」
紫杏の方に向いた玄吾はそう言うと緑の方へと歩いていった。それを見た紫杏は大きなため息をつくと表情を曇らせたまま早足で厨房へと戻っていった。
「あの子、かわいいけど・・・・何か怖いな」
玄吾すら怒鳴りつけるウェイトレスにやや引き気味の悠斗だったが、このロケの間に紫杏をもモノにしようという欲求がふつふつと湧いてくるのを感じていた。だが、今の悠斗の言葉など聞こえていない未来は緑に声をかけている玄吾に集中してしまっている。さっきのオーナーの表情から何かあるとにらんでいる未来は2人の会話に耳をそばだてた。
「料理はお気に召しましたかな?」
突然現れた大男に少し驚いた顔をした緑だったが、これといった表情の変化は見られなかった。
「オーナーさん!いやぁ、今日も美味しかったですよ!」
玄吾に対してそう言った清の言葉でこの男がオーナーだとわかった緑は酔った顔を引き締めて挨拶をかわした。その様子からして、緑は玄吾を知らないようである。
「あまり飲み過ぎないように。あなたのような美人を狙うバカな若者も多く宿泊していますからね」
さっきまでとは違う丁寧な言葉でそう礼を言う玄吾に対し、緑は少し照れた顔をしてみせた。
「顔見知り、じゃないのかな?」
今の玄吾と緑の様子からして、2人は初対面のようである。だが、さっき見せた玄吾の目つきから何かを感じていた未来にとって、それは釈然としないものとなっていた。その後、玄吾は監督と軽く会話を交わすとさっき紫杏にせかされたせいか早足で厨房へと戻っていった。未来はそんな玄吾の後ろ姿を、どこか曇った表情で見送るのだった。
午後9時をもって一応の解散を見た一同だったが、そのままバーで二次会となってしまった。明日も撮影がある未来はしつこく誘ってくる悠斗をやんわりとかわすと逃げるようにスロープを描く階段で一階へ下りるとプールのある中庭へと足早に向かった。そんな未来を追おうとした悠斗だったが、もはや酔いが回りきった緑に引きずられるようにしてバーへと連れられていった。
「緑さん、俺は部屋へ・・・」
「いいから来なさいって!」
「いや、連れ帰るって言ってたじゃん!」
「つべこべ言わずに来い!」
耳を引っ張られてはどうしようもなく、渋々バーに入って行く悠斗。清は既にバーのソファで眠りこけており、明日の撮影に影響を及ぼすことはないにしろ、おそらく二日酔いで満足に同行出来ないであろうことは容易に想像がついた。さっきまでの熱気でどこか火照った体を冷まそうと中庭に出た未来は、幻想的にライトアップされた噴水を向こうに見ながら人気のないプールサイドをゆっくりと散策するように歩いた。ホテルの窓から照らされる電気の光を反射して揺らめく水面は美しく、風のない夜であってもあまり暑さを感じないせいか涼しげな雰囲気が漂っている。プールサイドを囲む植木の隙間を抜ける小道を行く未来の目の前に、黄色い光でライトアップされた噴水が姿を現した。円形をしたその噴水は3段重ねとなっており、造り的に見てどこかウエディングケーキを思わせた。少し距離を置いて見るその噴水はてっぺんにある突起から強弱をつけて飛び上がる水の他に、一番上たる3段目から流れ落ちる水がまるで風に揺れる舞台の垂れ幕のごとき動きで螺旋を描きながら2段目、1段目へと落ちていく。西洋的な造形のその噴水は周りにある南洋の植物とミスマッチして、より幻想的なオアシスの役目を背負っているように思われた。未来は腕を後ろ手に組み、リズミカルに指を動かしながら噴水の周りをぐるっと一周してみせた。そしてちょうど来た方向と反対側、さっき見ていた噴水の裏側に差し掛かった所で噴水のさらに奥にある屋根付きの白いベンチに腰掛ける人影に目をとめた。自分に背を向ける格好で座っているその人物は男性であることがわかる。ベンチの背もたれに右手を置いたその仕草からではなく、半袖シャツからのぞく腕は筋肉質であり、背が高いのか座高も高かったからである。暗がりの中、良く目をこらす未来はその格好に思い当たる節があるせいか、胸の鼓動を大きくしていった。というのも、その男のうなじ部分で縛られた長い髪に見覚えがあったのだ。もしかすれば昨日の人物かも知れないという思いが頭を駆けめぐる未来は声をかけるべきかどうかで悩んでしまったが、ここで悩んでいてもしょうがないと心に決め、高鳴る鼓動を押し殺すように胸の前で拳を握ると恐る恐る近づいていった。だが、どこからか走りくる足音に、やましいこともないにも関わらず、未来は物凄い速さでとっさに植木の陰に隠れてしまった。さらにドキドキ感が増していく胸の鼓動が周囲に聞こえるのではないかと息も殺して潜む未来をよそに、やって来た人物はベンチに腰掛けている人物の手前で立ち止まった。
「毎度毎度・・・くつろぐのはいいけどさ、探しに来る方の身にもなってよね?携帯でも持って欲しいわよ」
茂みに背を向けている未来にも聞こえる音量で話すその女性の声は、間違いなく紫杏の声であった。未来は音を立てないで済むかどうか暗闇の中で足下に枯れ木や葉っぱが無いかを確認した上で体勢を変え、そっと植木の影から頭を出して様子をうかがった。腕組みしてベンチに座る男性を見下ろしているのは声からわかったようにやはり紫杏であった。その紫杏を見上げているのもやはり未来の予想通り昨日エレベーター前でぶつかったあの長身の男性であった。
「仕込みをするには早い時間じゃないか?片づけもまだだろうに・・・」
男は気怠そうにそう言うと、両腕をベンチの背もたれにやって顔を正面に向けた。まるで紫杏には興味がないといった風にだ。
「そうだけどさ・・・」
今の返事が気に入らなかったのか、紫杏は腕組みしたまま覗き見ている未来の方に顔を向けた。それに気付いた未来はとっさに頭を引っ込めたのだが、ここで覗いていたことがバレたかどうかはわからない微妙なタイミングだった。さっきまでとは違う『冷や汗ものの胸の鼓動』を痛く感じながら、ジッと息を殺して2人のやりとりに集中した。
「わかったよ・・・戻る」
嫌そうに返事をする男が立ち上がる気配を見せた。紫杏も何も言わないことから、どうやら気付かれていないようだと判断した未来は大きくゆっくりと息を吐きだした。
「意外そうな顔するなよ・・・」
男の声から、どうやら素直に応じた事に紫杏が驚いている様子がわかる。どうやらこの2人はそれなりに親しい関係にあるということ、そしていつもここでくつろいでいるこの男がはっきり何者かはまだわからないが今までの会話とウェイトレスをしている紫杏が呼びに来た事からレストラン関係者、コックではないかと判断できた。そういえばぶつかった時もコックのような格好をしていたように思える未来はもう1度植木の陰からそっと顔を出して様子をうかがった。薄明かりに照らされた男は立ち上がっており、その格好は昨日出会った時と全く同じであった。何より高い身長に細身の体はまさにそのままである。
「あんたが素直に応じた事が驚きなわけ」
「お前に逆らうと、後が怖いってみんな言ってるぜ?」
「・・・・・それ、言ってるの誰?」
低い声でそう言う紫杏はいつも愛想の良いレストランでの紫杏とは遠くかけ離れた怖い雰囲気を持っていた。
「それが怖いって言うんだ。ま、オーナーより怖いウェイトレスってのも・・・・どうかと思うがな」
男は含み笑いをともなった口調でそう言うと、憮然とした紫杏を残してベンチを後にした。やはりここから見ても男の背の高さがわかる。レストランで見た紫杏の身長は未来と同じ167センチ程度だった。だが、男は明らかにそこから頭1つ飛び出しているのだ。背が高いせいか歩く速度も早い男にやや足早についていく紫杏が建物の奥に消えたのを確認した未来はゆっくりと立ち上がって今見た、そして聞いたことを頭の中で整理していった。紫杏と知り合いのあの男性はおそらくレストラン『フリーダム』で働くコックであるということ。そして紫杏と知り合いという事であれば彼がどういった人物であるかを知りやすくなったということが判明した。これだけわかれば大収穫である。あとは明日の朝、朝食時にさりげなく、今ここで盗み見していた事を悟られずに紫杏に聞いてみればいいのだ。自分でも何故ここまであの男に興味を持つのかがわからない未来であったが、もはやどこか探偵気取りになって楽しんでいる部分もあるせいかそれ自体に疑問を感じることはなかった。
「よし!とにかく明日だ!」
拳を握りしめて自分に気合いを入れる未来はやや大股でロビーに向かう小道を歩いていくのだった。
物事が自分の思うとおりにならないという事はよくわかっているつもりだった。だが、こうまで思うとおりにならないでいるともはや誰かが邪魔をしているとしか思えてならない。気合いを入れて紫杏にあの男性の事を聞こうとした未来だったが、結局その日の朝は打ち合わせに時間をとられた上に紫杏との接触もなく終わってしまった。だがまだチャンスは夕食にあると思っていたのだが、撮影で繰り出した街で写真撮影の打ち上げを兼ねた簡単な宴会となってしまい、結局その日は何も出来ないで終わってしまった。仕方無しに翌朝の朝食に望みを託して眠りについた未来だったが、朝早くから映画のロケがスタートしてしまったので朝食はロケ地でとることになり丸1日何もできない状態となってしまったのだ。少々気分も乗らない、どこかイライラしていた未来だったが、この波島の自然がその心を癒してくれたのか撮影における演技に関しては完璧にこなしていった。かつて恋人を海で亡くしたヒロインがその亡き恋人の親友に連れられてその現場へとやってくるというのがストーリーである。ヒロインに未来、恋人の親友にしてラストで新たな恋人となる役柄が悠斗なのである。すでに都内やその近郊での撮影は終了しており、残すのが中盤とクライマックスのシーンであるこの波島での撮影となっているのだった。実質5日でこの映画の全ての撮影が終了するのだ。今日は中盤のメインである恋人をさらっていった海に行くことが出来ないでいるヒロインが恋人の親友に連れられて気分転換にと景色のいい海に連れてこられるシーンをメインに撮影が行われているのだ。初日である今日はこの浜での撮影予定は全部で4つのシーンである。最後は夕暮れのシーンであり、場合によっては夕日待ちを行うことも視野に入れている。とにかく順調に午前の撮影を終えた未来は真っ白な砂浜を臨む木陰にビニールのシートで天井と壁が設置された大型のテントのような場所の中にある自分の椅子に腰掛けた。緑色した水が白い砂浜に白い波をたててうち上がる。水平線の上、真っ青な空には真っ白な入道雲が立ち上っており、まるで絵に描いたような景色が目の前に広がっていた。心地よい風が髪を揺らす中、未来の後ではうちわをパタパタしている清がいる。どうやら未来にとっては心地の良い風も夏の暑さが苦手の清にとっては何の効果もないらしい。横を見れば同じように緑もまた扇子をパタパタとやっている。逆に程良く焼けて肉体的にも締まった上半身をさらけ出して座っている悠斗はいかにも夏が似合うといった容姿をして静かにたたずんでいた。黒いサングラスもさまになっており、まるでサーファーのようだ。
「緑さん、昼飯はどうなってんの?」
立ち上がり、振り返りながらそう言う悠斗はサングラスを取ってみせた。どこか芝居がかったその仕草に清は少々ながら嫌悪感を抱いてしまった。
「ホテルのレストランからお弁当が支給されるわ。もうすぐ来るはずだけど・・・って、あんたさぁ、朝のミーティングで何を聞いていたのか・し・ら?」
暑さもあってか徐々に口調が怒気を含んでいく緑に対し、悠斗は未来の後ろに隠れるようにした。自然に未来の両肩に手を置いた悠斗に清の眉も吊り上がる。
「あれ、そのお弁当じゃないですか?」
おもむろに立ち上がってテントから出る未来の動きは、図らずも肩に置いていた悠斗の手を振りほどく結果となった。宙ぶらりんになった手をブラブラさせるしかない悠斗を見やる清と緑はほぼ同時にニタリと口の端を吊り上げた。そんな事など知らない未来の目には右側の雑木林の間を走る道路を駆けてくる白いワゴン車が映っていた。正面右側の水平線に向かって緩やかなカーブを描く海岸線を見ていた為、未来はそのワゴンの接近にいち早く気付いたのだ。若手スタッフが出迎えにテントを出るのと一緒に未来もそれに続く。白いワゴンは脇道を通って砂浜に進入し、テントのすぐ前あたりで停車した。未来たちの方を向いている助手席のドアが開き、中から姿を現したのはフリーダムのウェイトレスの紫杏だった。思わぬ所でとうとう紫杏と出会えた未来はお弁当もそっちのけでにんまりとした表情を浮かべた。そんな未来の笑顔に対し、挨拶の笑顔を返した紫杏は木を立てて布で壁と天井を作っただけの簡単なテントを見て少々驚いた顔を見せた。そしてそんな紫杏に声をかけようとしたその時、運転席のドアが開き、運転手が車の後に回り込むのを見た未来は思わずアッと声を上げてしまった。今の声に何事かといった表情をする紫杏すら目に入らない様子で恐る恐る車の後部に近づく未来は扉を開いて中を覗き込むようにしている長身の男に目を留めてさらに驚きの表情を浮かべて見せるのだった。そんな未来をチラリと横目でみたその男は一瞬怪訝な顔をしながらも何かを思い出したような顔をしてみせた。
「あんた、この間の・・・」
「あ、はい!覚えててくれたんですね?」
嬉々とする未来に近づいた清に目をやった男はさも感心なさそうに若手スタッフに弁当が積まれた黒い入れ物を手渡していった。
「なんだ、あんたら撮影のスタッフだったのか」
てきぱきと弁当の入った大きな黒い入れ物を手際よく渡していく男は淡々とした口調でそう言った。やはりこの男は自分を『アイドル赤瀬未来』だとは知らないでいたのだ。さすがにその事に驚いている清もまた素直に驚いた顔をするしかない。
「あんたってばバカなの?この人よ、スーパーアイドル赤瀬未来さんって!今や日本で知らない者はいない、ましてやロケをやる波島であんたみたいなヤツがいるなんて、恥よ、恥!あ~、カッコ悪ぅ~」
紫杏は腰に手をやって大げさなそぶりでそう言い放つが男は全く気にしていない。全てを手渡し、テントの下に運ばれた弁当の数の確認を行う間も未来たちに全く興味がないといった風だった。
「おいおい、今の日本にこんな原始人がいるなんてなぁ・・・まさか俺の事も知らないわけぇ?」
こちらもまた紫杏に負けじと芝居がかった仕草と口調でそう言う悠斗を横目で見やったその鋭い目に、悠斗は少し気押された感じで生唾を飲み込んだ。
「知りませんね」
一言そう言うと、男は伝票にサインを受け取った。
「知らないってか?ハッ!ここはどこまで田舎なわけだ?」
「おたくの知名度がどれほどのもんか知らないが、少なくとも俺はそういうのに興味がないので」
「何だとぉ!」
男の返事が気に入らなかった悠斗は明らかに威嚇しているという目つきで男に詰め寄った。だが男は睨まれても涼しげな顔でシャツのポケットに伝票をしまい込んだ。
「やめなさい、悠斗。あんたじゃ絶対に勝てない相手よ」
今にも胸ぐらを掴みかからんとしている悠斗を制したのは2人のやりとりを静かに見ていた緑であった。相変わらず扇子をパタパタとやりながら近づく緑を悠斗の肩越しに目を留めた男は一瞬驚きの表情を浮かべた後、小さな笑みを浮かべた。緑は悠斗の肩を叩いてどくように諭すと男の目の前に立つ。2人の慎重差は軽く15センチ以上あるせいか、緑はかなり上を向く感じで男を見上げていた。
「久しぶり・・・まさかこんな場所であなたに会うなんて思ってもみなかった」
肩をすくめる仕草を見せながら静かにそう言う緑に、男は少し目線を逸らしながら再び小さな笑みを浮かべて見せた。
「7年ぶり、だな」
「そうね、もうそんなになるわね・・・」
2人は視線を合わせる事無くどこか思いにふけったような顔をしていた。2人のやりとりを聞く未来、悠斗、清の2人はこの間聞いた緑の『彼氏いない歴7年』の話を思い出していた。もしやという考えが頭をよぎる中、3人はただ黙って2人の様子に注目するしかなかった。
「そのピアス、それに背の高さ・・・変わらないわね。まさに黒崎星って感じ」
笑いを含んだその緑の言葉に、黒崎と言われたその男は自嘲気味な笑みを浮かべると緑を見下ろした。
「星!もう戻らないと・・・」
汗を拭きながらそう言う紫杏の方を見やった星は小さなため息をついて片手を挙げた。
「今はもう戻らないとアレだ・・・・ゆっくり話はまた今度、だな」
「そう・・・じゃぁ今晩はどう?」
「そうだな、戻ったらレストランに電話くれればいい。時間と場所は指定する」
言いながらきびすを返す星はそのまま振り返る事無く白いワゴン車へと向かった。相変わらず睨む悠斗、もはやポカーンとしている清を無視し、テントの外れにたたずんでいる未来の真横で立ち止まった星は未来を見下ろす格好でその顔を見た。見下ろされる未来は威圧感や圧迫感というべきものを感じていたのだが、星から発せられている雰囲気自体がやんわりしていたため、比較的楽な気持ちで見上げる事が出来ていた。
「すまなかった・・・そんな有名人だとは知らずに失礼な事を言ってしまったみたいで」
ぶっきらぼうな口調でそう言う声は低く、未来は妙に星を男性として意識してしまっている自分に気付いて顔を赤くしてしまった。
「あ、いえ・・・きっと天狗になって調子に乗りかかってた私に対する神様からの警告だったんです」
言い換えればそれは自分がスーパースターであるということの強調であったのだが、星は今の言葉を素直に受け取った。
「そうか・・・、あ、いや、『そうでしたか』、だな。お客さんなんだから・・・じゃぁ」
どこか憮然とした感じの紫杏が礼をして助手席に乗り込むタイミングに合わせて、星もまた運転席に乗り込んだ。
「紫杏さん、ありがとう。美味しくいただくわ」
クーラーが利かないのか、窓を全開にしている助手席に座る紫杏にそう声をかけた未来に笑顔を返す紫杏は軽く手を振ってみせるのだった。やがて車はUターンして元来た雑木林へと向かっていく。未来は車が見えなくなるまで見送ると、弁当とお茶を持って横に立った清に視線をやった。
「なんか、ぶっきらぼうというか、怖い感じの人だったね」
じりじり照りつける太陽のせいか額から汗を流しながらそう言う清に未来はクスッとした笑いをしてみせた。
「でも、やっぱり私を知らなかった・・・きっと他にもそういう人、いるんだよ」
「う~ん・・・やっぱイマイチそれは納得出来ないなぁ」
苦々しい表情でそう言う清にとって、未来はまさに日本一のスーパーアイドルであると信じてきたのだ。たとえどんな田舎であろうと未来を知らぬ者などいてほしくなかった。だから今、現にその目でそういう人物を見たからといって納得するわけにはいかないのだ。
「頑張りましょう、もっとね!」
満面の笑顔でそう言ってくれた未来に胸をときめかせながら、清は未来にうながされてテントの方へと向かうのだった。
「あの人、緑さんの元カレですか?」
計算なのか、はたまた天然なのか、未来はこれ以上ないくらい直球でみんなが思っていた質問を緑にぶつけた。悠斗も清も聞きたくて仕方がなかったのだが、聞く勇気がなかったその事を未来はあっさりと聞いてしまったのだ。
「あの人って・・・・黒崎の事?」
お茶を飲んで一息ついてからそう言葉を発した緑にうなずく未来。
「そういうんじゃなくってただの知り合いよ。でも、もう7年になるのね・・・あれから・・・・」
お茶に視線を落としながら何かを懐かしむような口調。だがその口元には笑みが浮かんでいた。
「黒崎はね、私の元カレの知り合いでもあったの。それに彼も私も地元じゃちょっとした有名人だったしね」
「じゃ、あいつも元ヤンキーだ」
とっくに食事を終えた悠斗が放ったその何気ない一言を聞いた緑から凄まじいまでの殺気と突き刺さるような視線が浴びせられた。身をすくませ、引きつった顔をした悠斗はうなだれるようにしながら上目遣いで緑を見る事しかできない状態になってしまった。
「ま、当たってるカモね。でも元チーマーってとこ。彼は街一つ束ねてたの・・・・でもある事件以来姿を消してたんだけど、まさかこんな所で会うなんてねぇ」
「そうだったんですか・・・」
「そう。黒崎星、あの『狼』がコックなんて・・・」
「『せい』っていう名前って珍しいような、そうでないような・・・」
後片づけをしている清のその言葉を聞いた緑は小さな笑顔をつくると、そうねと答えた。
「でも、彼の名前は『星』って字を書くの」
「星?空にある?ハッ!キザな名前だよ・・・」
さっきの星の言葉がよほど残っているのか、悪態をつく悠斗は立ち上がるとテントを後にした。そんな悠斗の背中を見ながらため息をつく緑はゴミを回収に来た若いスタッフに弁当の入れ物を手渡すと残ったお茶を一気に飲み干した。
「とにかく、ただの知り合いよ。それだけ」
もうこの話題はおしまいとばかりにそう言うと、緑もまたテントを出て波打ち際まで歩いて行ってしまった。これ以上詮索するのも嫌な気がしていた未来は今の言葉にうなずくと、心の中でもう1度星の名前をつぶやくのだった。