第2話
このホテルでは男湯と女湯の構造は全く同じにしてあった。広めの脱衣場には扇風機や観葉植物が置かれ、体重計や足裏マッサージ板も用意してあって温泉地によく見受けられるものと変わりがないようにされていた。そして大浴場という名にふさわしく、美しい浜辺やエメラルドグリーンの海を180度見渡せるガラス張りの浴場には大理石が敷かれ、大きな湯船が2つと水風呂、さらにサウナまで完備してあった。もちろんガラスは全てマジックミラーとなっており、中から外の様子を見ることができるのだが、外の砂浜や海からは虹色に輝くガラスにしか見えないよう工夫されていた。現在は日も落ちて暗闇が支配している黒い海に白く浮き上がる波しか見えない状態であるのだが、所々にライトアップされた砂浜の様子が見て取れた。広い浴場には誰もいなかったため、未来は大はしゃぎで年甲斐もなくバシャバシャとしぶきを上げて泳ぎを堪能した。やがて泳ぎ疲れたのか、息を切らしながら立ち上がると体をタオルで覆うことなくガラスに手をついて暗い外の景色に目をやった。きゅっと引き締まったウェストからほどよく飛び出たヒップは鍛えられた様子がうかがえ、アイドルとしての体型を見事に保った素晴らしいプロポーションをしていた。今日まで様々な週刊誌で熱愛だの不倫だのを勝手に報じられたりした事もあったのだが、全てが事実無根な記事であり、その度に清たち事務所の人間が方々を駆けずり回ってその噂を否定し、もみ消したのだった。さらに今回の映画撮影において共演で相手役の人気ロックグループのボーカルにして若手ナンバーワン俳優の黄味島悠斗との熱愛を報じられていたが、つい先日相手の事務所と共にその報道を否定したばかりであった。実際、14歳で芸能界デビューを果たしてから恋をする暇など無く忙しく働いてきた未来にとって今は仕事こそが恋人だと言いきれるほど仕事に没頭していた。平均睡眠時間がわずかに3時間であっても全く疲れた顔を見せないのはそのせいでもあった。それに、日本で知らぬ者はいないとされる自分が付き合いたいと願う人物は自分の事をアイドルだと知らない、ただの『赤瀬未来』として見てくれる人以外は嫌だという願望もあってか、未来は恋愛に対しての自分の気持ちを無意識のうちに心の奥底に封じ込めてしまっていた。しばらくの間真っ暗闇の海を見ていた未来はくるりとガラスに背を向けると、そのままシャワーに向かって歩いていくのだった。
男湯には20代前半と思われる若者3人組と2人の男の子を連れた40歳ぐらいの父親がいるのみで、広い湯船に浸かっているのは清だけであった。白いタオルを頭の上に置き、石で出来た大きな浴槽に1人で浸かる清はここ最近は映画の打ち合わせや雑誌の対談など未来の多忙なスケジュールもあって日頃感じていた疲れが一気に吹き飛ぶ解放感を噛みしめていた。また明日から忙しい日々が続くのだが、未来に甘く自分に厳しい社長の目もなく、密かに想いを募らせている未来のそばで美味しい物を食べ、大きな風呂に浸かれるのだ、これほど日々のストレスを発散できる空間はない。それにこの南国の砂浜を未来と歩き、雰囲気によってはいいムードになれるかも知れないと考えれば自然と顔もほころび、ニヤけた締まりのない顔にもなってしまうのだった。そんな清の耳に若者たちの会話が聞こえてきた。
「やっぱ可愛いよなぁ、未来・・・・テレビとか見るよりスゲー可愛いし」
その言葉にチラッと視線を走らせる清。どうやら3人組の若者がもう1つの湯船に浸かりながら会話をしているようであり、今の発言はその中でも一番大柄で長髪を金色に染め、さらに首からドクロネックレスをした男から発せられたものだった。清はなれなれしく呼び捨てで未来の名を口にした若者に再度視線を走らせる。
「だよなぁ!」
「彼女にしてーし、ヤリてーよなぁ!」
下品な会話をしながら大きな声で笑う3人を睨むようにしていた清はおもむろに立ち上がるとそのままシャワーへと向かって歩いた。その間も男たちは未来の体のことなど、聞いていて恥ずかしくなるような話を大声で続けていた。清は怒りに満ちた目をしながらシャワーのコックをひねるとやや冷ためのお湯を勢いよく噴出させる。それを頭からかぶりながらあらためて未来を守るという決意を固めていった。未来はみんなのアイドルであり、そして自分の想い人なのだ。ああいったわけのわからない連中には指一本触れさせてはならないと握りしめる拳にも思わず力が入る。だが、どちらかというと運動音痴な清があの3人組に勝てる要素はまず無い。とりあえず気合いだけは十分な清はその勢いを現すかのように力強く体を洗っていくのだった。
濡れた髪を乾かす未来は化粧も完全に落ち、はたから見れば綺麗なお姉さんといった感じにしか見えなかった。というのも、今の未来からは芸能人だとか、アイドルといったオーラのようなものは感じられないのだ。鼻歌交じりに備え付けのドライヤーで髪を乾かす未来は自分以外は誰もいない脱衣場でバスタオルを体に巻き、まるで自室でくつろぐかのような状態でいるのだ。完全に乾かす事をせずにさっさと着替えを済ませ、時計を見やる。普段からあまり長くお風呂に入らない未来にとって珍しく長風呂した今で約30分程度である。時計を見たまま満足げな笑みを浮かべた未来は濡れたタオルとバスタオルを抱えると袋を持って大浴場を後にした。男湯の前で一旦立ち止まったものの、まだ中に清がいるかどうかわからないためそのまま自室に戻るべくエレベーターへと向かう。長い廊下の角を曲がるとすぐに小さなエレベーターがある。わざわざ大きなエレベーターホールまで行かなくても、このホテルでは数カ所にエレベーターを設置しているのだった。だが、エレベーターホールに行けば高層階専用の高速エレベーターがあるのだが、逆に人が多く、今のすっぴんで無防備な未来の姿をキャッチされかねない。それならばわざわざリスクを犯してまで高速エレベーターに乗る必要などないのだ。未来はやや早足でエレベーターのある角を曲がった。その瞬間、誰かにブチ当たったのか、未来はキャッという小さな悲鳴を残して尻餅をつきそうになった。だが、その誰かの手が素早く未来の腰に回され、残った片手が腕を掴んで自分の方へと引っ張ってくれたために倒れずにすんだ。何度もぱちくりさせる未来の目には白いシャツについた白いボタンが映っており、状況を理解するまで少々時間を要してしまった。
「すみません・・・・大丈夫でしたか?」
低いながらはっきり聞き取れる声でそう言ったのは未来を抱くようにしている白シャツの男性であった。未来はハッとなって身を引き剥がすように腕を突っ張ると、抱くようにしていたその男性は自然な動きで手を放すとスッと1歩後へと下がった。
「ご、ごめんなさい・・・・私もうっかりしてて」
抱きついていたことが多少なりともショックだった未来はしどろもどろな口調でそう返すのが精一杯であった。
「いえ、こちらも確認しなかったものですから。申し訳ありません」
丁寧すぎる口調でそう言う男性を見上げた未来は思わずその顔に釘付けになってしまった。目にかかりそうな前髪を揺らし、全体的に長めの黒い髪は後へと流れてうなじの部分で縛られていた。その髪からかろうじて見えている左の耳たぶには十字架の形をしたシルバーのピアスが着けられている。男の目は大きめのくっきりした二重であり、どこかの芸能プロダクションに所属していてもおかしくないようなかなり整った容姿をしていた。思わず見とれてしまった未来は無意識のうちに高鳴る鼓動を押さえることもなく、ただ呆然としたままその男の顔から目をそらせない状態であった。男は未来が落としたタオルを拾い上げると軽くその場ではたいてみせる。そのまま慣れた手つきで綺麗に畳み、おもむろにタオルを返すと小さく頭を下げて未来を見つめた。タオルを受け取った未来が視線を外した瞬間、男の背後から清の声が聞こえてきたために後を振り返った。
「未来ちゃん!どうしたの?」
早足でやってきた清は未来の横に立つと白いシャツの男に対し、少し睨むような視線を向けた。だが男はすました顔で清を見下ろす。清はそう背が高い方ではないのだが、それでもなんとか170センチはある。だが目の前に立つこの男は180センチはあろうかという長身の持ち主であった。無表情なその男の視線にやや押され気味なっている清だが、さっきの3人組の会話から未来を守るという決意をここで見せようと睨むような目を続けていた。
「あ、違うの・・・・私がこの人にぶつかっちゃって・・・・でも倒れないように支えてくれたの」
少々険悪なムードと清の体から発せられている気迫からあわてて事情を説明した未来だったが、清は納得していない様子でチラッと未来を目にし、未来をかばうようにずいっと前に立ちはだかった。
「どうもすみませんでした」
未来はそんな清の背後から顔を出すとすまなさそうにそう言った。男は何も言わずに軽く頭を下げ、噛みつかんばかりに自分を睨む清に目をやった。
「未来ちゃん、エレベーターのボタンを押しておいて」
男を睨んだままそう静かに告げた清にどうしていいかわからない未来はハラハラしながらも言われた通りにボタンを押した。すぐ下に止まっていたエレベーターがすぐさまやってきてその扉を開く。未来はそれを確認した後、清たちの方に顔を向けた。
「自分の彼女を守りたい気持ちはわかるが、あまり気合いを入れすぎないように」
男は静かにそう言い残すと、大浴場へと続く廊下へと歩いていってしまった。とりあえずエレベーターが行ってしまわないようにボタンを押し続けていた未来は小さく頭を下げ、言われた清はムッとした表情のまま男の背中を見送ったのだった。
「白木さん!」
先にエレベーターに乗り込んだ未来にそうせかされてようやくやって来た清は、憮然とした態度のまま23階を示すボタンを押して扉を閉めた。静かに動き出すエレベーターの中では未来が小さくため息をつき、清は腕組みして上昇していく階数を示すランプを見つめていた。何故あんなに敵対心をむき出しにして自分を守ろうとしたのかがわからない未来はさっきの男が支えてくれた時の状況を思い返し、別に自分に対して何かしようとしていた意志が無いことをあらためて認識した。だが自分が気付かない時に何かをしようとし、それを清が目撃したからなのかとも推理してみたのだが、さっきの清の言葉からそうでもなかったような感じがしていた。一体どうしてああまでムキになっていたのかを清にたずねようとした時、あることに気付いた未来はハッとなって清の方を振り仰いだ。
「ねぇ、さっきの人・・・私って気付かなかったよね?」
しかめっ面をしたままだった清はその未来の言葉に眉をひそめてみせた。確かに気付いていないようだったが、今の未来はすっぴんである。とはいえ、元々化粧気の少ない未来だけにそんなことで見分けられない事はあり得ない。
「気付かないフリをしたんじゃない?」
「でも・・・・・私を白木さんの彼女って言ったのよ?」
あの時はやや興奮していたせいか気付かなかったが、たしかにそう言った事を思い出した清は未来を自分の彼女と言われた事が嬉しくもあったのだが、それ以上に未来の事を知らないという事の方が不思議でならない。CMや雑誌、さらにはドラマにも出ずっぱりな正真正銘日本一のアイドルたる彼女を知らない者などいないと思っている清にとってそれはそれで結構ショックな事であった。
「今の君を知らない人なんて・・・・いるわけないよ。きっと君に何かしようとしてたからやましい気持ちがそう言わせたんだって」
「そんなことなかったよ・・・・だって倒れそうになった私をすぐに支えてタオル拾ってくれたし」
「でも・・・」
それでもなお反論をしようとした矢先、エレベーターが23階を告げるチンという音を鳴らして静かに、そして素早く扉が左右に開いた。とりあえず先に未来を降ろした清だが、エレベーターを待っていた若い男女のカップルに遭遇してしまった。
「赤瀬未来だ!」
「キャー!握手してください!」
未来の顔を見るなりそう言いながら寄ってきたカップルを見てやはり今の未来を知らない者はいないと確信した清はさっきの男が未来に何かをしようとしていたと決めつけた。どうやら夕食時の騒ぎでこのホテルに赤瀬未来が宿泊しているという噂が瞬く間に広まってしまったらしい。未来は2人と握手を交わし、女性が持っていた手帳に素早くサインをしてあげた。その間、男性は携帯電話のカメラで写真を取り、満足した顔をしながらエレベーターへと消えていった。
「ほらね、すぐに君だって気付いたじゃないか・・・・あの男がいかに怪しいか証明されたようなもんさ」
そう言われればもはや返す言葉がない未来はどこか釈然としない表情を浮かべたまま自室の前までやってきた。清はすぐ隣の部屋となっているため、未来の部屋の前で同じように立ち止まると明日のことについて念を押した。
「明日は7時に起きて準備、そして8時の朝食後すぐに撮影に出発だ。なるべく早く休むこと、いいね?」
「はい、わかってます!」
清に向かって真面目な顔をしてみせた未来はそのまま敬礼をして見せた。清も笑顔で敬礼を返すと、おやすみと言い残して消える未来の残り香に鼻をくすぐられる感じがしてドキドキしてしまった。
備え付けの浴衣を使わずに持ってきた短パンとTシャツといったラフな格好に着替えた未来はベッドの上にうつぶせに寝転がった。長い髪が背中に広がり、まるで扇の模様を描くかのような形を取った。ぼんやりとした未来の頭の中ではさっきぶつかった男性のことでいっぱいだった。自分をアイドル『赤瀬未来』だと気付かなかったのは本当に自分を認識していなかったのか、それとも清の言う通りやましいことをしようとしたことから出た言動だったのかはわからない。だが、少なくとも未来にとって、彼が自分に何かをしようとしていたようには到底思えなかった。とっさに自分を支えてくれた上に落ちたタオルを取ってくれた。無表情ながら丁寧な言葉使い。そして何より自分と清を恋人同士だと言った言葉。あれだけ間近で接していれば嫌でも自分に気付くはずだ。体を回転させて仰向けになった未来は白い天井を眺めながらあの男性の整った顔を思い浮かべた。多くの人気若手俳優やアイドルたちと共演したりしている未来だったが、その彼らに勝るとも劣らない容姿をしていた彼の事が多少なりとも気になっていた。左耳にされた十字架のピアスも印象的であり、ちまたの若者にありがちな長髪も似合っていた。だがやはり自分をアイドルだと気付かなかった事が何よりも大きい要因となっている。自分の中にあった『トップアイドルとしての自信』を揺るがされた事も大きいのだが、それよりも自分を知らないという人がいるといった新鮮さが大きいのだ。
「もう一度会えれば・・・・はっきりするのになぁ」
今までどんな共演者ともこうまではっきりもう一度会いたいと思える人はいなかった。もちろん好奇心が一番なのだが、一度会って話をしてみたいと思っているのはアイドルではない自分とどう接してくれるのか、何より『普通の女の子』として接してくれる男性として自分の印象を聞いてみたいと思ったのだ。みなアイドルとしての自分しか見てくれないうえに素直な印象をコメントしてくれていないという疑念が常に自分の中にあるのだ。自分の価値、印象、そして人柄を彼ならば何も考えずに答えてくれそうな気がしていたのだ。
「片想いの気持ちってこんなんかな?」
恋をする暇もなく仕事に打ち込んできた未来にとって、立場上恋愛も禁止であり片想いの気持ちなどもう忘れてしまっている感じがしていた。自分の言った言葉に苦笑を漏らした未来は勢いよく起きあがると背伸びをし、寝る支度をするために洗面所へと向かうのだった。
朝食はホテル特有の和洋バイキングであったのだが、やはりその味は格別であった。昨日紹介された桃代は郷土料理専門だという説明から、おそらくは別のシェフが作ったのだろうが今まで行ったどのホテルのバイキングよりも味が良く、未来の食欲もそそられたのだった。こうしてお腹も満たされた未来たちはさっそく写真集とイメージDVDの撮影のため、ホテルが用意してくれたマイクロバスへと乗り込んだ。撮影機材などの都合から小型のマイクロバス3台が一般的には進入禁止とされている原生林と真っ白い砂浜で有名な雪見の浜での撮影を行うべくそこへと向かう。しっかりと許可も取っており、何より映画の撮影でも使用するために県からの承認も得ているのだった。それにスーパーアイドルの赤瀬未来がその対象ともなれば宣伝効果は抜群なのだ。滅多に人が足を踏み入れない原生林での撮影を行うべく、車で約1時間の距離をひた走る間、時間の節約にと未来のメイクが施されていった。今回の撮影では水着やドレスといった多彩な衣装での撮影が行われる。未来は近づいてくる原生林を窓から見て驚きの声を上げた。生い茂る緑は色も濃く、まるで外国を思わせるほどの樹木が小さな森を形成している。空にかかった雲も少ない青空にその緑は鮮やかに栄えて見えた。ここが南の島であり、青い海と白い浜に囲まれている事など忘れてしまうほどの緑の中に、バスはゆっくりと進んでいった。一緒に乗り合わせた地元のガイドの女性によれば、この原生林の中は肌によいマイナスイオンで満たされており、しっとりしめった空気が気持ちいいと言う。未来はまず水着に着替え、その上からパラオを羽織ってメイクを施していった。やがてバスは開けた場所に停車すると下見に来ていたスタッフが数名撮影場所の指示を出す。森の中では水着とドレス、それにややセクシー系の衣装での撮影となっていた。すでに着替えを済ませた未来はスタッフが用意してくれた椅子に座ると新鮮な空気を胸一杯に吸い込んだ。確かに森の中はしっとりとした空気で満たされている。さっきまでの乾燥した暑い空気は微塵もなく、南国の暑さすら気にならないほどの涼しげな空気が流れてきていた。しばらくして若い撮影スタッフから準備が出来たとの声がかかり、未来は案内されるままに森の奥へと歩いていくのだった。
幾度もフラッシュがたかれ、デジタルビデオによるDVD用カメラも回る中、幻想的な森の中にたたずむ美少女は文字通り幻の如きはかなさと美しさをかもし出していた。妖艶に見せる表情は大人びており、ビキニの水着から見える素肌は透き通るほどに白く綺麗であった。そばにいたスタッフなどはそんな未来に見とれてしまい、よからぬ妄想を膨らませてしまうほどである。ビデオとカメラという2人のカメラマンは、お互いがかぶらないように器用に撮影を続けていった。そうして合計4回の着替えを挟み、午前中の原生林での撮影は全く何の問題もなく終了したのだった。せっかくだからとこのまま原生林で昼食を取ることになり、ホテルのレストランが用意してくれた特製の弁当が振る舞われた。もちろんゴミなどが出ないようにされており、自然を壊さぬよう気をつけながら敷物を敷き詰め、その上での昼食となった。弁当自体はオーソドックスな幕の内弁当であったのだが、わざわざ用意してくれた釜のおかげでご飯だけは温かく、だがおかずは冷たいながらも味は絶品であった。どうやら冷たくても美味しい物を選んでくれているようだ。特に未来は程良い柔らかさを保つ卵焼きに驚きと喜びで胸がいっぱいになるほどであり、その味に美味しいを連呼するほどであった。昨夜食べた郷土料理にはないその味に、未来はどこか懐かしさも感じるのだった。約1時間の昼食後、ロケチームは原生林を出発し、今いた原生林をぐるりと迂回するようにして人が入らないようにしてある雪見の浜へと向かった。地元住民すら滅多に足を踏み入れないその浜は県の保護管理地域に指定されており、一般人は立ち入りが制限されているのだ。今回は映画のワンシーンと、今から行う未来の為の撮影の許可が下りており、チームはいろいろな制約を抱えながら青と緑が融合したようなその美しい海を正面にとらえ始めていた。珊瑚礁が青い海に緑の色合いを染め、空の青とは違った美しさを演出している。その美しい景色を見るために後部座席から身を乗り出して正面を見据える未来の顔が徐々に驚きと興奮に満ちたものへと変化していった。正面に見える海と空の青といった統一色に鮮やかに栄える白い帯。それは緑豊かな島の木々と海とを分ける境界線のようであり、大地と海の狭間にある異質の空間を作りだしていた。ただの砂浜とは表現出来ない素晴らしき純白に、車に乗る全員から感嘆の声が上がるまでそう時間はかからなかった。緩やかに下る道路はただまっすぐであり、このまま行けば海を越えて水平線に辿り着き、そこから空に吸い込まれていくような気がするほど開放的な景色が目の前に展開されているのだ。気をきかせた運転手がサンルーフを開き、未来はスタッフにうながされてそこから顔を覗かせた。心地よい風が髪をなびかせ、さらに目を閉じて上半身を出せばまるで空を飛んでいるかのような気分にさせられた。都会の中であくせく働いていた未来の疲れやストレスは吹き飛び、目の前の美しい景色や肌で感じる心地よい風は彼女を無邪気な子供に還らせるのだった。
青いビキニの美女が白い砂浜を駆け抜ける。ただそれだけで絵になる国民的アイドルは原生林で見せた大人びた女性ではなく、今や無邪気な少女となって真っ白な海岸線を駆け抜けていった。青い海をバックに、時には波に足をつけたりしながら彼女は白、黄色の水着にも着替えて砂浜を駆けた。ただ海と空とをバックにするだけで、開放的になった彼女の笑顔はカメラマンを魅了し、現場スタッフすら見とれるほどの美しさ、可愛さを存分に発揮していた。そして夕日が海に沈む頃、真っ赤に染まった海をバックに黄昏る自然な表情の未来を最後に、今日の撮影は終了したのだった。明日は街へ繰り出し、今日とは違った人工的な物と絡んだショットを撮ることになっていた。皆が撤収準備を始めても、未来はじっとその場に立ちつくすようにして沈みゆく夕日を眺めていた。しっかりと目に焼き付けるようにして見つめる未来の後ろに立った清はそっと彼女の肩にオレンジのバスタオルをかけてあげた。
「綺麗ですね・・・・」
感嘆の吐息を漏らしながらそう言う未来の横に立った清は朱に染まった彼女の顔に思わず胸の鼓動を早めていった。夕日を見つめる彼女はどこか泣きそうな表情で瞳を潤ませ、だがしっかりした目で半分海に浸かった夕日から視線を外さないでいた。清はそんな未来と夕日とを交互に見ながら、いつかは2人きりでこうして幻想的な夕日を見ながら手を繋いで歩きたいという願望が生まれていた。そして今、この夕日に誓いを立てた。いつか必ず未来にふさわしい男になろうと、何があっても未来を守れる男になると。
「また、来たいね」
「そうだね。必ず、また来よう」
つぶやく未来とは対照的に、清は決意を込めた口調でそう返すのだった。
狭い通路に若い女性がひしめきあっていた。白で統一された建物の中はそう広くはなく、大きなガラス張りの向こうには小型のジェット旅客機が2機見て取れる。いつもは観光客で賑わうこの波島空港はどこから湧いて出てきたのかと言わんばかりの女性でいっぱいであり、警備員は通路の真ん中を空ける作業にてんてこ舞いになっていた。先日の未来の来島の際には隠密となっていた事もあって若干の芸能記者や、観光客の注目を集めた程度でしかなかったのだが、今日の人物は前もって今日という日をアピールしていたせいでこうまで搭乗に関係ない女性客であふれかえってしまったのだ。ただでさえ小さな空港に押し寄せるようにして集まった女性たちは、目当ての人物が出てくるのを今や遅しと待ちかまえているのである。既にその人物を乗せた飛行機は着陸を済ませており、もうすぐ降り口から出てくる頃合いである。携帯のモバイルカメラや、デジカメ、果てはビデオカメラまで構えた女性たちは皆降り口に視線を集中させていた。黄色いロープで通路中央を空けてはいるのだが、一気になだれ込まれてはそれすら意味をなさない。心配する警備員をよそに、ついに降り口から数人の人影が現れた。まずは普通の一般観光客であり、女性陣たちは彼らの後ろへと視線を注いでいる。だが出てくるのは皆ただの観光客であり、女性たちの間に苛立ちがつのり始める。と、その時、見るからに大きなサングラスをかけて白いジャケットを着た長身の男が姿を現した。その瞬間、凄まじいまでの悲鳴と歓声が巻き起こり、いくつものシャッターが切られる音がした。通路を確保する為に張られたロープなど意味が無いほどその男に近寄る女性たち。男を取り囲む警備員たちも必死であり、もはや通路は悲鳴と歓声、怒号と罵声が飛び交う修羅場とかしてしまっていた。だが男は自分を取り囲む女性たちに手を振ると、涼しい顔をしたまま早足で通路を後にしていった。そして出口を出て一旦振り返ると、ひとしきり手を振る。黄色い声援が飛び交うのを満足げな表情で受け止める男は、顔の半分を覆うような独特の形状をしたサングラスを指で押し上げると、袖をまくり上げた手を大きく挙げて去っていったのだった。
用意された黒いリムジンに乗り込むまで女性に囲まれていた男は、広い車内の豪華なシートにドカッと身を埋めると、やれやれとばかりに首の骨を鳴らしながらサングラスを外した。そのサングラスは特注であり、ゴーグルのように後頭部で止める構造になっていた。切れ長の目を窓の外に向け、いまだに写真を撮り続けている自分のファンに目を細めて見せた。その男のすぐ隣に乗り込んだ白い薄手の上着を着た女性がシートにしっかり腰掛けたのを確認した運転手の茶木はすぐさま運転席に向かうと素早く乗り込み、クラクションを鳴らして前にいる女性にどくよう告げてからゆっくりと慎重に車を出発させた。
「すみません、ご迷惑をおかけして」
ため息をついてからそう謝る女性をミラー越しに見ながら、茶木は笑顔で返事を返した。
「いえいえ、しかし驚きました・・・こんな事、今まで経験したことがなかったもので・・・」
「だろうね。こんな騒ぎになるのは俺以外にいないだろうさ」
男は自信に満ちあふれた笑みを口の端に浮かべ、置いてあった冷蔵庫の中身を勝手に物色し始めた。
「赤瀬さんの時は、やはり騒ぎにはならなかったのですか?」
女性は整った顔立ちをしており、短い髪からのぞく大きなリング状のピアスが目を引いた。だがそれは初めの一瞬だけであり、赤いルージュが引かれたややボリュームある唇にすらりと伸びた鼻筋、そして大きな二重の目といった美人な顔つきにすぐにピアスのことなどどうでもよくなってしまうのだった。未来が清楚な美少女といった感じであれば、この女性は妖艶な美女といった表現が合っている。
「そうですね、彼女の場合はこうまでの騒ぎにはなりませんでした」
「やっぱアレだな、俺の方が大物って事だな」
ふんぞりかえる男は笑みを絶やすことなくそう言うと、冷蔵庫から取り出したジュースを一気に飲み干した。
「バカね!あんたがペラペラマスコミに余計な事を言わなければこうならなかったのよ!出来るなら赤瀬さんとこみたいに隠密に行動したかったわ!」
睨み付ける女性に引きつった笑みを見せた男は悪びる様子もなく女性と反対側の窓に視線を向けた。
「でも赤瀬未来さんに黄味島悠斗さん・・・日本を代表する男女のトップアイドルがこうして来てくれただけでも島が活気づきますよ!」
「だとさ、緑さん・・・・ああすることもここの観光宣伝に一役買ってるのさ」
チラリと緑の方を見やった悠斗は口の端を吊り上げて見せたが、睨むような緑の目にすぐさまそれをかき消して顔ごと窓の方に向けるのだった。どうやらマネージャーの佐伯緑には頭が上がらない様子の悠斗に苦笑を漏らした茶木は、未来と清が友達感覚の関係にあるように、こういった主従関係のようなタレントとマネージャーの関係もあるのだなと思うのだった。車は2日前に未来を運んだものと同じコースをたどってグランドホテル波島へと到着した。既に時刻は午後5時30分である。映画の撮影は明後日からであり、明日は地元のテレビ、ラジオ局でのインタビュー出演などといったスケジュールが組まれていた。チェックインの手続きをしにフロントに向かう緑を見た悠斗は、ホテルのロビーをぐるりと見渡した。空港でかけていたあの大きなサングラスは外してある。あのサングラスは悠斗がボーカルを務める超人気ロックバンド『スペリオル』のトレードマークであり、デビュー当時はメンバー5人が素顔を隠すために着用していたのだ。サングラスにはそれぞれワンポイントで色が付いており、さらに微妙に形状が違うためファンにはすぐに誰だかわかるようになっていた。やがて人気が出た頃にサングラスを外し、5人がそれぞれソロ活動を行った事もあって話題をさらい、今では人気、実力共に日本でトップの位置にあるアイドルグループとなっていた。5人揃えばメンバー全員がサングラスをかけるため、その方が有名な悠斗はこういった人の多いところではサングラスをかけないようにしていた。それでもファンはすぐに悠斗だと見抜き、あれよあれよと言わんばかりに悠斗の周りを女性ファンが取り囲んでしまった。悠斗は1つ1つサインをし、一緒に写真を撮るなどファンサービスをして緑が戻るまでの時間を過ごしたのだった。
「まったく、ファンサービスもいいけど・・・・あまり調子に乗らないようにね」
2人の為に用意された部屋のフロアは22階であった。部屋の位置的には未来と清の真下にある。悠斗にしてみれば未来と同じフロアが良かったのだが、事務所の働きで違う階としたのだ。というのも、今回の映画の話が決まる頃にドラマで共演した未来との熱愛報道が大々的に取り上げられたからである。実際はドラマの打ち上げで行った焼き肉屋でたまたま2人きりになったところを写真誌に撮られて大きく報道されたのが始まりである。その際はビッグカップルの誕生かと騒がれたのだが、有名芸能ジャーナリストたちがこぞって否定したことで騒ぎも沈静化していたのだ。だが、今回の共演映画においてその話が再度浮上し、2人の仲を勘ぐるような記事が多くの女性誌等で取り上げられていたのだ。両方の事務所が真っ向からそれを否定していたのだが、実際に悠斗自身は未来を狙っていた。一連の報道にかこつけて何かと親しくなってきた2人だったが、未来自身は悠斗に全く興味がなかった。悠斗にすればこの南国でのロケは2人の距離を縮めるための絶好のチャンスであり、自分と未来が付き合えば当然日本国中が大きく揺れるスキャンダルとなる。そうなれば当分自分は注目されるという目論見もあったのだ。何より自分に絶対的な自信とプライドを持っている悠斗にとって、自分クラスの芸能人と釣り合う女性は名実共に人気があり、なおかつ超美人の赤瀬未来をおいて他にはいないのだ。
「わかってるって・・・スキャンダルは御法度だろ?緑さんの監視下でそりゃキツイからね」
明日の打ち合わせために緑の部屋に来ている悠斗は窓際にあるソファに寝そべっていた。スタイルも深緑した膝丈の短パンに黒いTシャツといったラフなスタイルである。この後7時からは同じく今日現地入りしている映画スタッフと打ち合わせを兼ねた夕食があり、そこでは未来も合流することになっていた。未来の写真集撮影スタッフは街に繰り出すということで不参加を表明している。出来るならば食事の後、未来と2人でホテルのバーに行きたいと狙っている悠斗はどこかいやらしい笑みを浮かべながら白い天井を見上げていた。そんな悠斗の表情を緑は逃さなかった。ゆっくり立ち上がるとツカツカ歩み寄り、上から覗き込むようにしてにっこりと微笑んだ。
「夕食後は赤瀬さんとバーにでもって考えてるみたいだけど、あんたはすぐに戻って寝る!っていうか、強制的に連れ帰る!わかった?」
愛らしい微笑みは最初に見せたほんの一瞬のみであり、怒鳴る緑の迫力は男の悠斗を怯えさせるほどであった。考えを読まれている事に関しては毎度の事なのでそう驚かない悠斗だったが、緑を怒らせた時の怖さは十分理解している為、素直にうなずくしかなかった。以前ロケの後、まっすぐ帰る約束を破ってファンの子といちゃついていた事があったのだが、その時は緑の雷が炸裂した。男の悠斗に対して見事なボディへのパンチを炸裂させ、悶絶させたのだ。悠斗のマネージャーになって既に2年が経つ緑だが、その当初から女帝ぶりを発揮していた。元ヤンキーという噂もある緑は事務所でも恐れられるほどはっきりした性格の持ち主であり、時には社長にすら怒鳴るほどである。だがその性格はこの業界では重宝し、臆することなく売り込みをかけて悠斗をここまで教育して大きくしたのも緑であると言っても過言ではない。ソロとして芝居の才能を見いだしたのも彼女である。それを知っているからこそ、そして緑の怖さも知っているからこそ、悠斗は彼女に対して頭が上がらないのである。もはや悠斗の甘い考えは吹き飛び、耳を引っ張られながら椅子に腰掛けた悠斗は、まるで先生に怒られる出来の悪い生徒のように大人しく打ち合わせを行うのだった。