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第1話

『くもりのち、はれ』『くもりのち、はれ 異伝』に登場した赤瀬未来と黒崎星の出会いの物語。

『くもりのち、はれ』内で少しだけ語られた2人の物語がここにあります。


もちろん、1つの物語としても成立しているので、『くもりのち、はれ』を未読の方でも十分に楽しんでいただけると思います。

南国を思わせるやしの木や、暑いながらも湿気が少ないその気候が今、自分が雑然とした大都会を離れた事をまざまざと認識させた。澄み切ったいつもと違うような濃い青をした空には大きな純白の入道雲が立ち上り、真夏の太陽の光が容赦なく地上に降り注いでいた。今立っている自分の背後からは大きな轟音を立てて飛行機が自身の翼にその太陽の光を反射させながら飛び立っていく様が見える。さわさわとした風が背中まである茶色い髪を優しく揺らし、強い日差しで暑くなっていく皮膚に申し訳程度の涼しさを感じさせた。ここへ降り立つ前、東京の空港に着くまではねっとりとした汗がにじみ出てきたものだが、その東京よりも暑いはずのこの島ではそれがなくなっているのは南国という独特の気候と、彼女自身の心の中にある解放感のせいだろうか。サングラス越しでもまばゆい光にやや目を細めたその視線は建物がほとんどない緑豊かな周囲を見渡している。


「いや~、暑いねぇ」


手でパタパタ顔を仰ぎながら女性の背後の自動ドアをくぐってやってきた男性はヘアーワックスで髪をツンツンに立たせて露出した額から汗を流していた。サングラスの女性はそんな男性を見てクスッと笑うといつも見ているものとは違うような青さを持つ空をはっきり見ようと、オレンジがかったサングラスを外した。マスカラの効果もあってかより一層大きな瞳にくっきりした二重、鼻筋も整っておりかなりの美女である。美しさの中に少女っぽい可愛さも残しているその女性は微笑みを浮かべたまま目の前にすぅっとやってきた黒塗りの車に目をやった。男女の目の前に止まったその車はリムジンカーであり、中からどこかのホテルマンらしき制服に身を包んだ優しそうなおじさんが姿を現し、2人に向かって一礼すると人なつっこい笑顔を見せた。それにつられてか、男性も笑顔を見せるとそのおじさんに歩み寄る。


「グランドホテル波島の茶木と申します。お迎えに上がりました」

「どうもです。私は白木清しらききよし、そしてこっちが・・・」

「赤瀬未来です。よろしくお願いします」


白い袖無しシャツに水色のミニスカートを履いた未来が可愛らしい笑顔でそう挨拶すると茶木は顔をくしゃくしゃにする勢いでその人懐っこい笑顔をより一層強めた。そのままさっとドアを開き、2人をリムジンへと招き入れる仕草を取る。まず軽い会釈をしながら未来が乗り込み、そして清が乗り込んだ。それを確認した茶木が丁寧にドアを閉め、やや早足で運転席に向かうと意味ありげに左右を見てからササッと運転席に滑り込むようにして乗り込んだ。


「ホテルまでは15分ほどですので、そこにあります冷蔵庫の飲み物でも飲んでくつろいでいて下さい」


リムジンとは言え、普通のセダンより少し大きい程度の物である。だが座席は2人が乗ってもゆったりとしていて、運転席との境目、ちょうど2人が座っている真ん中中央当たりに金庫のような銀色の物体が置かれていた。茶木の視線からしてそれが冷蔵庫だと悟った清は、では遠慮なくと言いながらその冷蔵庫を開いてみせた。中には炭酸飲料の他、ミネラルウォーターやお茶等が数本置かれていたが、さすがにアルコール類は含まれておらず、清は炭酸飲料のジュースを、未来は緑茶を手にしてそれらを口にした。2つともよく冷えており、程良くクーラーが利いた車内で快適な気分を味わうことが出来た。車は空港道路から一般道路に入ったばかりである。相変わらず周囲にはビルが広い間隔でポツポツ点在しているのみであり、これといった大きな施設もなくただ緑豊かな土地や低い山などが見える程度であった。


「綺麗な所ですね」


容姿同様に澄んだ可愛らしい声でそう言う未来はスモークで黒みがかった窓から外の景色を見てそう言った。自然のカケラも見あたらない大都会で忙しい日々を送っている未来にとって、ここから見える景色は気分を和ませ、自分を癒してくれているような気がしていた。


「20年ほど前にかなり整備が進みまして、これでも拓けたほうですよ。今では立派なリゾート地ですが、無論、原生林や珊瑚礁といった昔のままの自然も綺麗ですよ。波切りヶ浜から見える夕日はおすすめですし、雪見の浜の白さも絶品です」


茶木はルームミラー越しに未来を見ながらそう言うとやや速度を上げ始めた。対面2車線の道路には信号がない。それにすれ違う車もあまり見受けられなかった。景色に見入る未来を後目に、清は外にいた時の汗で垂れてきた前髪を気にしつつジュースを飲みながら年季の入ったややボロっちい手帳を広げてそれを眺めている。


「ホテルの施設はかなり整っていると聞いているのですが」


相変わらず手帳を見ながらそう言う清をさっき同様ルームミラー越しに見た茶木は笑顔のままうなずくとホテルの説明を簡単に始めた。


「プールやゲームセンター、簡単なカジノまである外国のホテルをモチーフにしたホテルですので設備は超一級です。大浴場も完備していますし、庭園も綺麗ですよ」


その説明を受けて満足そうにうなずいた清は手帳に挟んであった小さな地図を取り出す。一方未来は今の話を聞いてさらに期待で胸を膨らませた。仕事で訪れたとはいえ羽を伸ばせることにはかわりはない。ウキウキした気分を全身から出しながら、未来はお茶を一口すすった。清は浮かれる未来をチラッと見て小さな笑みを浮かべると、今自分たちが来ているこの島の地図に視線を戻すのだった。



沖縄よりもさらに南に位置する島、それがこの波島である。そう大きくはない島であるが、数年前からリゾート地として整備され、空港や大型ホテルが建設された。綺麗な白い砂浜や原生林が残る山、そして何よりも美しい珊瑚礁等が観光スポットとなっていた。ホテルは高層の大型グランドホテルであり、それが島でただ1つの大型宿泊施設となっている。人口も少ない島だったのだが、開発と同時に移り住む者も増え、今では沖縄本島に次いで人口の多い島となっているのだった。島の中心に原生林、南と西には綺麗な砂浜があり、その南方部分に空港やホテルが建設されている。東側は主に珊瑚礁があり、自然環境を守るためにやや制限されてはいるもののダイバーたちが楽しめるようになっているのだった。北側はまだ未開となっているため、現在はここを散策できないかと整備が見当されているところである。



そんな波島の地図を見ながらジュースを飲む清は日付が今日になっているページをめくると未来のスケジュールを確認した。


「しかし、嬉しいですよ・・・この波島で映画の撮影、しかも人気アイドルの赤瀬さんにお会いできたんですから」


ミラー越しながらはっきりわかる満面の笑みと嬉しそうな口調に未来もまた明るい笑顔を見せた。


「映画にDVD、写真集・・・・全ての撮影を10日間で行うわけだから・・・ちとハードだよ」


細かく書かれたスケジュールは日によって分刻みとなっている。今をときめくスーパーアイドルとして活躍している未来は元々歌手であったのだが、ここ最近はドラマや映画にも出演しており、その演技力も認められてついには映画で主演を演じることになったのだ。都内での撮影は既に終了し、あとはこの波島でのロケを行うだけとなっているため、7冊目の写真集とそのイメージビデオの撮影も一緒にやってしまおうという事になっている。それは映画のPRも兼ねているのだが、話題性も十分である。ただ、マスコミ嫌いの監督の意向によって報道陣はシャットアウトされ、おかげで出かける際の空港ではフラッシュが山ほどたかれて報道陣による質問責めにあってきていた。というのも、ここ最近あらぬ噂が飛び交い、未来の恋愛スキャンダルがでっちあげられていたからである。その上、その相手がこの映画の主演を務める男であるからなおのこと報道陣が多く集まったのだ。まったくノーコメントを決め込んだ未来たちはそそくさと飛行機に乗り込み、道程約3時間の空の旅を楽しんだのだった。そしてホテルではしっかりとした監視体制が敷かれ、パニックにならないような配慮や不審者に対する厳戒態勢も準備万端であり、撮影に集中できる環境も整っているのだ。


「私は料理も楽しみだなぁ!」


嬉々としてそう言う未来は忙しいスケジュールには慣れているせいか、マネージャーである清の心配をよそにややはしゃぎ気味である。


「ホテルのレストラン『フリーダム』は和洋中、それに郷土料理まで味わえます。本当においしいですよ」


大きな交差点に来てようやく現れた信号機を確認しながら車を進める茶木のその言葉に、未来はアイドルらしくないほどの動きで運転席の背もたれに抱きつくようにして見せた。見かけは年相応の20歳なのだが、こういう無邪気で幼いところも人気の秘密となっている。


「郷土料理かぁ、楽しみ!」

「基本的に料理長が全ての料理を見てますが、郷土料理は2人いる副料理長のうち地元の人です。和食と洋食は若いもう1人の副料理長が仕切ってます」

「若いとは、おいくつぐらいなんですか?」


手帳を閉じた清がそう横やりを入れた。料理自体にも興味があったのだが、こういう話にも興味がある未来はシートに座り直すと茶木の言葉を待った。


「24歳ですよ。料理長がホテルに呼ばれた際に東京から連れて来たんです。腕はすばらしく、ご好評をいただいています。無口で無愛想ですが優しい人ですよ」


やや苦笑気味にそう言ったのだが、その副料理長と仲が良いというのはよくわかった。未来は少しばかりその副料理長について興味が湧き質問を投げようとした時、目の前に大きなホテルが姿を現した。3階部分まではグレーで、そこから上は白塗りの壁に大きなベランダが規則正しく並んでいる。正面部分は四角であり、両サイドはそれを中心として内側にややカーブを描く構造になっていた。そのホテルの両端からはわずかながら緑がかった青い海が見え始めている。歓声を上げる清と未来を満足げに見た茶木は嬉しそうな顔を見せると少しアクセルを強めに踏んだ。


「ようこそ、我がグランドホテル波島へ!」


一本道を進むリムジンはそのホテルに向かってまっすぐ進んでいく。大きな白い入道雲が青いキャンバスとなっている空に模様を描くその方向へと。



ホテルの正面玄関は大きなロータリーとなっていた。まるで都会の駅ターミナル前のようなそのロータリーへと進んでいくリムジンは正面玄関のすぐ前で停車した。玄関脇に立っていた赤い制服に身を包んだ若い男性がすかさずドアを開いてくれる。


「いらっしゃいませ、お疲れさまでした」


にこやかにそう言うホテルマンに笑みを返す未来はサングラスをかけてから車を降りた。背伸びする清の後ろでは茶木がトランクから荷物を下ろしている。着替えなどが入ったたくさんの荷物は既にホテルへ直送済みなため、手荷物程度しか持ってきていない。撮影スタッフは夕方の便で到着するため、今から昼食を取り、夕食まではフリータイムである。夕食は明日から始まる写真集撮影の打ち合わせも兼ねており、当面は仕事三昧であった。せっかくのリゾート地であるのだが、未来にとっては仕事場でしかない。だが小さな暑苦しい撮影所とは違い、どこか開放的な気分なせいかその仕事すら楽しく思える未来は今の仕事が大好きなのだ。14歳でデビューした彼女はグラビアアイドルで雑誌を彩りながら歌手としてもデビューしたのだ。愛くるしい笑顔と無邪気な性格が反響を呼び、3曲目にリリースした歌のスマッシュヒットと、チョイ役ながら出演したドラマが高視聴率を獲得したせいで知名度を一気に全国区に広めたのだ。そうして20歳になった今では知らぬ人はいないとまで言われるほどの超人気アイドルとして歌やバラエティ、ドラマにCMと幅広く活躍しているのだ。未来は用意していた白い帽子をかぶると、清にうながされて大きな自動ドアへと向かった。茶木にお礼を言い、さわやかな笑顔を残して去っていった彼女にホテルマンも、そして茶木もやや照れたような表情でそれを見送ったのだった。夏ということで、サングラスに帽子というスタイルは目立つことはない。こそこそするでもなく堂々とホテルに入った未来はフロントに向かった清の姿を確認したのち、フロント脇にあるホテルの案内板に向かった。大型リゾートホテルのロビーらしい造りは自然の光をふんだんに取り入れている。3階まで吹き抜けになった高い天井は開放感を出し、また大きく取られたガラスの窓からは中庭にあるプールも見えている。立派な革製のソファが多く置かれ、そこで大型テレビを見ながらくつろぐ人の姿も見えた。天井から垂れ下がったオレンジの光を放つ大きなシャンデリアも立派であり、広いロビーの高級感を華やかに演出していた。フロントの奥には広めのエレベーターホール、そのさらに向こうにはトイレへと続く廊下があって、その奥にはジムがあるという看板が垂れ下がっている。そんなロビーを一通り眺めてから案内板に目をやった未来はこのホテルの施設を確認すべく1階から順に目を通していった。まず今見た限りのジムやプールの他にはお土産屋、そして観光案内コーナーがある。そして2階は運転手の茶木が話していたレストラン『フリーダム』にバー『ウルティマ』、さらにオーシャンビューの見晴らしも最高の大浴場があった。一面ガラス張りであり、夕方に入れば綺麗な夕日を拝むことが出来るのだ。サウナも完備しており、打たせ湯やジャグジーまでもある大きなものであった。そしてこの階にはゲームコーナーもあり、あとは自動販売機やコインランドリーがある程度であった。3階はこのホテルの名物であるカジノがある。外国を模したのもであるのだが、ここで変わっているのはディーラーや女性従業員が皆着物であるという事である。これは外国人の旅行者も数多く訪れるための配慮でもあり、カジノというどこか裏世界的なイメージを打破するための目的もあったのだ。それに宣伝効果も抜群である。現にこの波島は観光地であるのだが、わざわざここのカジノだけを目的にやってくる旅行者も多いのだ。4階から上は全て客室となっており、最上階の25階はスィートルームとして用意されていた。


「部屋は23階、見晴らしは最高らしいよ。チェックインは3時なんだけど特別に今からでもいいそうだ。昼食はどうする?」

「ここのレストランは営業してるの?」

「あぁ、やってるよ。ではさっそく行くかい?」


その言葉に大きくうなずいた未来はレストランがある2階を見上げた。ぐるりと取り囲むようにして吹き抜けを一周している手すりからは何人かの人が下を見下ろしているのが見えたが、誰もまだ自分が赤瀬未来だとは気付いていない。ロビーには人も少ないせいもあるのだが、まさかここにスーパーアイドルがいるなどとは誰も思わないのだろう。撮影場所も極秘にされており、マスコミの1部の者はそれを知っているのだが空港でも見掛けることはなかった。このロケが終われば記者会見も用意されているせいもあるのだが、気を付けねばならないのは写真週刊誌記者とその激写のみである。ただでさえ共演者との噂が絶えない未来の周囲では何かとその噂の人物との接点を探ろうと多くの芸能記者たちが追いかけ回しているのだ。だがそれに関しては相手方の事務所とも連携を取り合って対処していく方針で話はついているのだが、その共演者は明らかに未来を狙っており、マネージャー同士の連係プレイも必要となってくる。その共演者が現地入りする明日は写真集の撮影であり、未来と会うのは打ち合わせを兼ねた夕食時だけである。それが終われば2人をすぐに各部屋に閉じこめることにもなっているのだ。とにかく周囲にバレないようにすぐにレストランへと向かう2人。大抵の人は観光に出かけているせいでレストランに人はいない。入り口脇にはランチメニューや一品料理、さらにはコース料理が書かれたメニューが立てかけられていた。リーズナブルな値段から高価なコース料理までと幅広い上にメニューも豊富であった。とりあえず中に入った2人は入り口で待機していたウェイトレスに窓際の見晴らしが良い席へと案内された。小柄なそのウェイトレスは最近の若者ではめずらしい艶やかな黒髪をしている。長い黒髪を三つ編みし、小麦色に日焼けした肌も健康的な容姿をしていた。目もぱっちりとした20代前半とおぼしきそのウェイトレスは2人を席へと案内した後、水とメニューを丁寧な動作で素早く置くと一礼して去っていった。そんなウェイトレスに見とれる清を無視してメニューを見る未来は早々と食べたいものを決めて窓の外に広がる見事な景色に見とれていた。彼方まで見渡せる水平線は空と同じ鮮やかな青であり、波から沖まで緑色した海はここが南国だと再確認させられるほどである。どこまでも白い砂浜には所々にやしの木が植えられ、多くの家族連れやカップルなどで賑わっている様子が見て取れた。明日は人気のない場所での撮影が待っているのだが、それでもこの綺麗な海とまばゆい太陽の下での撮影にはわくわくしている。実質2日間で写真集とイメージビデオの撮影があり、その後は全て映画のロケである。オフはわずかに1日しかないのだが、それでも忙しい未来にとっては嬉しいものであった。


「ご注文をうけたまわります」


やや低い声のウェイトレスが注文を取りにやってきた。未来はカニクリームのパスタとサラダ、清はハンバーグランチをオーダーした。機械的な動きでメニューを下げたウェイトレスは一礼して厨房へと帰っていく。その後ろ姿をぼんやり眺める清はその女性が好みだったのか少々ニヤけた表情をしていたが、未来の冷たい視線を感じてあわてて外の景色へと目をやるのだった。


「しかし、綺麗だよね」


白々しくそう言う清を睨むようにしていた未来だが、顔を引きつらせる清に思わず噴き出してしまった。2年前から自分のマネージャーをしてくれている年上の清にはどこか兄のような感情を持っていた未来にとって唯一本心を語れる存在でもあった。時には仕事に対するやりきれない思いを口にしたこともあった。そんな未来の思いをまっすぐに受け止めて社長に進言したり、仕事先にいろいろ要求したりと頑張ってくれている清に対して感謝の気持ちを持っている未来は心から彼を信頼していた。そんな未来を、実は清は好いていた。マネージャーに任命された際に社長から『恋愛禁止』をきつく言い渡されていたのだが、未来の素直な所や、なにより優しい彼女の内面にどんどん惹かれてしまい、今では恋心を抱くようになってしまっていたのだった。だが、自分の気持ちをうち明ければ職を失ってしまう。それに一番身近な自分だからこそ、未来が自分に対して恋愛感情を持っていない事は重々承知している。清はかなりつらい立場にいるのだが、世間がアイドル赤瀬未来しか知らないのに対し、自分はアイドルではない素の赤瀬未来を知っているといった優越感を持っている分いくらか気持ちが安らいだ。そしていつか彼女に自分の本心を告白しようとも思っていたのだ。だが、実際は彼女は多忙な日々を送り、プライベートで清に接する機会はないといったほうがいいせいか、恋愛に関する心の距離が縮まることはなかった。このロケに関しても10日のうちオフはたったの1日のみ。自由にしてやることはできないまでも、どうにかリゾートを満喫できるようにとあれこれ考えているのだった。宿泊ホテルはバレているものの、極力自由に行動できるようホテル側や島の役員たちにも申し立てをするといった内助の功をして未来を気遣う清は、本人が気付かない所で彼女を思う自分に満足はしていた。


「白木さん、今日は夕方までフリーですよね?」

「うん?まぁそうだけど・・・夕食は6時からで打ち合わせも兼ねているからね。実質5時ぐらいまではフリーだ。だけど海へは行けないよ・・・できたら部屋にいてほしいんだけど」


スケジュールは頭の中にたたきこんである清のその言葉にうなずいた未来はそのつもりですと無邪気に答えた。これまで未来はわがままを言って白木を困らせたことはない。現場スタッフにも評判は良く、可愛がられていた。そんな彼女にライバル心を持っているアイドルからの嫌がらせもうけたり事実のない記事で心を痛めた事もあったのだが、決して彼女は弱音を吐かなかった。彼女には大きな夢があり、どんな事があってもその夢を実現したいという強い願いがあったためである。そんな未来だからこそ清は彼女を好きになり、守ってやろうと心に誓っていたのだ。

「撮影で海には行けるからいいよ。明日は原生林も行くんでしょ?少なくともこの島の観光はできるもんね」


無邪気にそう言う未来に笑みを返した清は人の気配を感じてその方向へと頭を向けた。トレイを片手にやってきたのは先ほどのウェイトレスだ。まずは未来のパスタが出来上がったようで、それをテーブルの上に並べていく。未来は彼女が置きやすいようにと水や調味料をテーブルの端に寄せて心ばかりの手伝いをした。


「ハンバーグランチももう少々で出来上がりますので、お待ち下さい」


注文を取りに来た時とは別人のように、にこやかな顔でそう言うウェイトレスはパスタを見ておいしそうとこぼす未来をしげしげと眺めている。そんな彼女の視線に気付きながらもあえて何も言わなかった清はとりあえず相手の反応を待つことにした。


「あの・・・赤瀬未来さん・・・ですか?」


恐る恐る聞くウェイトレスににこやかな笑みを見せながらうなずく未来。それを見たウェイトレスは嬉々とした表情を浮かべるとやや興奮した様子で握手を求めた。


「今日いらっしゃるとは聞いていたんですが・・・うわぁ~・・・感動!」


手を口にやりながらそう言う彼女に清もまた嬉しそうな顔をした。女性アイドルにとって男性ファンがいるのは当たり前である。だが、女性にも受け入れられるようであれば、その人気は真に高いといえよう。


「夕食は郷土料理なんですか?」


そうたずねる清に紅潮した顔を向けたウェイトレスはうなずき返す。


「料理長の指示の元、桃代ももしろ副料理長が腕によりをかけた郷土料理を御用意します」

「ここはおいしいと聞いてますので、期待しています」


その未来の言葉に笑顔を見せたウェイトレスは後でサインをお願いしますと言い残し、あわてて厨房の方へと戻っていった。そんなウェイトレスを苦笑気味に見送った未来は美味しそうなパスタをフォークで器用にくるくる巻きつけるとスプーンでそれを受けながら口へと運ぶ。都内でよく行くお気に入りのパスタ専門店に匹敵するほどの味に未来は驚きと喜びで一杯になってしまった。


「お待たせ致しました、ハンバーグランチです」


先ほどのウェイトレスがハンバーグとライスの皿を置いていく。そして伝票を置くと脇に挟んでおいた色紙を取りだし、パスタを頬張る未来におずおずと差し出した。未来はフォークを置くとナプキンで口元を拭い、色紙を受け取って差し出されたサインペンで軽快な調子でサインを書き始めた。


「すみません、『高木紫杏たかぎしあん』さんへって書いていただけますか?」

「高木は『高い木』ですよね?『しあん』ってどんな字なんですか?」


珍しい名前に首を傾げる未来に、そう言われるのは慣れているのか紫杏は『紫にあんずの杏』だと説明をした。自分のサインのその脇に指定された言葉を書くと、それを紫杏に手渡した。


「ありがとうございます!やったぁ!」


手放しで喜ぶ紫杏に笑顔を見せた未来はそのまま小躍り気味に飛ぶように戻っていく紫杏の背中を見送ってから再びパスタを口にした。清もまた美味しそうにハンバーグをパクついている。


「このソース美味いよ・・・・」

「パスタも!この調子ならきっと夕食はすんごいね!」


2人は笑い合いながら食事を進め、旅の疲れも忘れて大いにその味を楽しんだのだった。



未来に用意された部屋は広く、設備も整っていた。他の部屋がどういったものかはわからないのだが、少なくともユニットバスは広いように思えた。シングルベッドが1つ置いてあり、180度海を見渡せるテラスの手前には3人は腰掛けられる程のソファもあり、かなり立派なテーブルと椅子まで用意されていた。一通り部屋の中を見て回った後、クローゼットの下に置いてあった白いスリッパに履き替える。そして既に部屋に運ばれていた荷物の整理をすると映画の台本を取り出してベッドの上へと転がった。明日、明後日は写真集とイメージビデオの撮影だが、4日目から7日目までは映画の撮影、8日目がオフで9、10日目午前中までが撮影といったスケジュールである。特に5日目は深夜にまで及ぶ撮影のため、かなりハードなスケジュールとなっている。グラビアがメイン、そして歌も歌えるアイドルとしてデビューし、トップアイドルとなった今では平均睡眠時間はわずか2、3時間でしかない。それでもその生活スタイルに慣れている未来にとって、こういった開放的なロケは大歓迎であったのだ。それにここは景色も抜群で料理も美味しい。今から8日目のオフが楽しみで仕方がないほどである。もちろんあれこれ制約が付くオフではあるのだが、それでも未来にとっては滅多にない自由時間なのだ。台本の台詞を頭に叩き込みながら、未来は明日からの撮影に対する高揚感を押さえきれないでいた。



いつの間にか眠ってしまっていた未来は電話の音で目を覚ました。一瞬枕元の携帯電話を手に取ったのだが、鳴っているのはそれではない。部屋に備え付けられているベッドの枕元横にあるベージュの室内電話が鳴っている事に気付き、あわててそっちを手に取った。寝起き丸出しの声で出たためか、その相手である清の返事は苦笑気味であった。用件はそろそろ良い時間なので下に降りてきてほしいというものであった。枕元のデジタル時計は17:40と示している。6時からの夕食を考えればそろそろ準備をしなくてはいけない。今日は写真集の撮影スタッフと一緒に打ち合わせを兼ねた宴会があるのだ。シワになった服を着替え、赤い袖無しシャツに白いミニスカートを履いた未来は髪を三つ編みにしてから部屋を出た。何人かの宿泊客とすれ違ったが、堂々とした態度がよかったのか、気付く者はいなかった。そのままエレベーターで2階へ下りた未来はレストラン前で待っていた清に笑顔を見せた。一応メイクもし直しているので寝起きだとは撮影スタッフも思うまい。清はそんな未来を上から下までチェックするとレストランの中へ入るよううながした。入り口では昼間対応してくれたウェイトレスである紫杏の姿はなく、細い目に細い眉毛をしたショートヘアの別のウェイトレスが待機していた。そのウェイトレスに先導されながら席へと向かう未来たちは一番南端にある円卓に案内された。そこにはすでに撮影スタッフが来ており、未来はそのスタッフに会釈をすると案内された席についた。そんな未来に何人かの客が気付いていたが、やや堅苦しいその雰囲気にひそひそ話をする程度に留まっている。こうして明日からの写真集撮影のための打ち合わせはスタートした。細かい時間割、撮影場所、そして衣装などの話をし、今回のコンセプトは南国のお姫様をイメージしているとの監督の話を聞いた未来は満足そうにうなずいた。そしてそうしているうちにスープが運ばれてきた。すでに前菜は平らげており、総勢10名からなる円卓にウェイトレス2名が機械的な動作できびきびとお皿を置いていった。ウェイトレスは先ほど案内してくれた細い目を女性と、昼間出会った紫杏である。どうやらこのレストランにウェイトレスはこの2人しかいないようであり、あとは男性ウェイターが2人見えるだけだった。見たところどうやらこの4人でフロアを回しているようだ。紫杏は未来と清にだけ軽い会釈を見せたが、動作はきびきびしてやや緊張感を感じていた。結局打ち合わせといってもそれらしいことはわずかな時間で終了し、和気藹々とした雰囲気が漂い出す頃にメインディッシュもやって来た。南国を思わせる料理の数々に美味しいを連発する未来はアイドルという立場も忘れてか、全ての料理をきれいに平らげてしまった。それは撮影スタッフや清が見ていて気持ちがいいほどの食べっぷりであり、作った人物も満足がいくほどであろう。残すところデザートと食後のコーヒーのみとなった時、厨房の奥から体も大きな白髪まじりの初老の男が姿を現した。コック独特の白い服に身を包み、やや長めの髪をオールバックにしたその男はずっと左目を閉じたまま豊かな白い口ひげを一撫でしてから撮影監督の正面に立った。


「私が当レストランのオーナー兼料理長を務めております青島玄吾あおしまげんごです。本日の料理は地元の郷土料理をややアレンジした物でしたが、いかがでしたかな?」


相変わらず閉じたままの左目が気になりつつも、未来ははい、と元気良く返事を返した。体つきも良く、やや筋肉質な腕がめくられた袖から姿を見せており、どこか鋭い目つきをした右目を細めて外見に似合わぬ人懐っこい笑顔を見せた玄吾はありがとうございますと頭を下げてみせた。


「とっても美味しかったです!もう最高なぐらいに!」


嬉々としてそう言う未来は周囲の苦笑に気付いて頬を赤らめ、照れてうつむきがちに頭を下げた。そんな未来に優しい笑顔を見せた玄吾の後ろから30代と思われるコックが姿を現した。玄吾とは違って腰にエプロンを巻いていることから、今し方まで料理を作っていたとわかるそのコックは玄吾の真横に立つと頭を下げて会釈をしてみせた。襟足の長い髪が特徴的だが、白い帽子をかぶっているせいで髪型はわからない。そのコックに、未来は猫のようなイメージを受けていた。というのも、かなり目が細いのだ。背もそう高くはないのだが、日焼けで真っ黒な肌は隣に立つ玄吾とは比較にならない。まさに地元生まれの地元育ちといった感じを出していた。


「こちらが今日の料理を担当した副料理長の桃代隼人。ウチの郷土料理を担当しております」


玄吾からそう紹介された桃代は再度頭を下げて挨拶をした。それに呼応したかのように円卓を囲む者たちも皆頭を下げた。実質撮影スタッフは明日、明後日の撮影終了後、すぐにとんぼ返りするために滞在している日数は少ないのだが、その後すぐ映画のロケが始まる未来たちにとってはしばらくお世話になるのだ。その未来が喜んでくれたため、玄吾も桃代も嬉しさを隠しきれない。しかも相手は今や知らぬ者はいないとされている国民的スーパーアイドルなのだ。和やかなムードで会話を弾ませる未来たちにデザートが運ばれてきた。


「ゆずのシャーベットです」


にこやかにそう説明してくれた桃代に笑みを返すと小さなスプーン一杯にシャーベットをすくい上げるとピンクのルージュが引かれた愛らしい口にそれを運んでいく。冷たい味が口いっぱいに広がり、ハーブの利いた酸味が喉を通過していくのがはっきとわかった。そんな未来をにこやかに見る桃代はオーナーと監督の話に混ざっていった。その後すぐにコーヒーが運ばれてきて、その場はお開きとなった。オーナーも桃代も入り口まで見送りに来てくれたのだが、同じように食事をしていた小学生ぐらいの子供もまたとことこと未来の後ろから付いてきた。その子供に気付いた未来はスカートを気にしながらもしゃがみこみ、子供と同じ目線になった。


「サイン、ください!」


その子供は女の子であり、未来を見てやや頬を赤らめながら目を輝かせていた。未来は大きくうなずくと女の子が差し出した紙にペンを走らせる。女の子が差し出したスケッチブックから破り取ったと思われる紙にまるで模様を描くようにスラスラとペンを走らせるその手さばきに、女の子はただただ見入ることしか出来ないでいた。そんな彼女を、いつしか多くの人が取り囲んでいた。チラッとそれを目にしながらも、未来はしゃがみこんだまま女の子に笑顔を送り続けた。


「お名前は?」


優しい口調でそう問いかける未来の笑顔を、いくつもの携帯電話のカメラがシャッターを切っている。


「さかまきしおり・・・」


どこか舌っ足らずな口調で、だがしっかりとそう言った名前をサインの横に書き並べた未来はその紙をしおりが見やすいようにひっくり返し、丁寧に返したのだった。未来のサインの横にはしっかりと『さかまきしおりちゃんへ』と書かれており、それが世界で唯一つ、自分だけに書かれたサインであることに嬉しそうな笑顔を見せたしおりは大きな声でありがとうと礼を言うとすぐそばの席に座っている両親の元へと走っていった。カメラを手にしていた両親は立ち上がって何度も頭を下げ、未来は笑顔で会釈を返した。結局、これがきっかけでフリーダムの店先ではささやかな未来のサイン会が開かれ、宿泊客はこぞってサインをもらおうと未来にむらがった。疲れた顔をしながら変な人間がいないかを警戒する清とは対照的に、どんな人からの握手やサインに笑顔をもって返した未来の顔には疲れはなく、終始笑顔だけが浮かんでいるのだった。



「まったく、30分も費やしちゃってさ・・・」


タオルとバスタオルを持った清は仏頂面したままエレベーターに乗り込んだ。同じくタオルとバスタオル、下着などを入れた袋を持った未来は舌をピロッと出しながら笑みを見せた。結局レストラン『フリーダム』を立ち去ったのは食事が終わって30分も経ってからだった。最初の女の子がきっかけでファンに囲まれるはめになった未来がその全ての人との握手やサインを惜しまずにした結果がこれなのだ。そういうものにいちいち対応していてはダメだといつも言い聞かせているのだが、未来自身がファンとのふれあいを何よりも大切にしているためにしばしばこういうことが起きるのだ。警備も万全ではない場所でのこういった即席イベントは危険も含んでいるためになるべく回避したい清にとって、さっきのサイン会などは本来避けねばならない事だったのだ。だが本人が動かない以上、黙って終わるのを待つしかない清は不審な者がいないかだけをチェックしなくてはならず、その疲れも半端ではなかった。旅の疲れを癒すという事でもホテルの大浴場を利用しようと考え、未来をともなってエレベーターに乗り込んだ清は自分の斜め前に立っている未来をチラリと見やった。お気に入りの赤ふちのだて眼鏡、そして髪は首元で結わえており、ささやかな変装をした未来はすました顔で徐々に下がっていく階数を現す表示を見ていた。


「風呂場ではサインやらは禁止だからね!」


ややきつい口調であったが、風呂場では全く無防備になるため、それこそ隠し撮りなどの盗撮には十分注意せねばならない。最近はインターネットを使った悪質な盗撮サイトも存在するため、できるならば部屋でのユニットバスを使ってほしいと頼んだのだが、未来は今は大きなお風呂に入りたいと言い出したのだ。夜中までやっているのだから夜中を狙えばいいとも考えた清だが、さっきの騒動で未来がこのホテルに宿泊していることがバレたため、なるべく盗撮などのマニアが出没する夜中などの時間をさけたほうがいいと判断してすぐさま大浴場へと向かうことにしたのだ。


「わかってますぅ~」


すねた口調でそう言う未来だったが、顔は明らかに作った仏頂面であった。清は苦笑を漏らすと開いたドアを先にくぐった。幸い外には誰もおらず、壁に取り付けられている行き先を示す白いプレートによればここから左側まっすぐに行けば大浴場であるらしい。人もいなようであり、2人は早足になる事なくすました顔で大浴場の脱衣所に向かって歩いた。突き当たりに白いのれんに青い文字で『男湯』、そこから左に曲がった突き当たりに赤い文字で『女湯』と書かれており、男湯の前で未来と清は別れた。


「じゃぁね、一緒に入れないのが残念だけど」


泣くようなわざとらしい仕草を見せる未来の言葉に思わず顔を赤らめてしまった清は焦って持っていたタオルを落としそうになってしまった。


「バカ言ってないでさっさと行く!終わったらすぐに部屋に戻っておくこと!」


精一杯の照れ隠しでそう怒鳴った清だったが、出来ることなら一緒に入りたいと心の中でつぶやいた。だが、そんな清の心情など知る由もない未来は愛らしい笑顔を残して女湯と書かれたのれんの向こうへと消えていった。その後ろ姿をため息で見送った清は少々肩を落とし気味に男湯と書かれたのれんをくぐるのだった。

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