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僕らの時代  作者: 西野了
6/21

汐崎の告白

「二年前、人を刺した」

 汐崎は僕から缶ビールに視線を移し掴んだ手を離すと、低い声でそう言った。

「えっ?」

 僕の声はどこか他人の声のように聞こえた。

「ビール、飲まない?」

 彼女言われて僕はあわてて缶ビールのプルタブを引っ張った。そして冷えたビールを口の中に流し込んだ。その一部が気管に入り激しく咳きこんだ。そのおかげで僕の顔は真っ赤になってしまった。

「中島、もう酔った?」

「えっ?」

「顔、真っ赤」

「これは咳きこんだからだよ」

 僕はムキになって反論した。それからしばらく僕たちは何も言わなかった。エアコンの抑揚のない音だけが聞こえていた。その間も汐崎はちびちびとビールを飲んでいた。僕も彼女に合わせてビールを飲んだが苦味だけしか感じなかった。

「最低な奴だった」

 そのとき汐崎は真っ直ぐ前を見つめていた。いや見つめていたのではなくて睨んでいた。僕は彼女に睨まれたと感じ一瞬ドキッとした。しかし彼女が睨んでいた相手は僕ではなかった。

「殺してもいい、と思った」

 汐崎は独り言のように言葉を繋げている。

「刺したこと、後悔してない」

 そう言うと、彼女はグッとビールをあおり飲み干した。僕はいったい何をしていいのか、何をすべきなのかまったくわからなかった。ただ目の前のクラスメートを見つめているだけだった。

 汐崎は冷蔵庫からもう一個缶ビールを取り出し再びプルタブを引いた。「プシュ」という乾いた音とともに白い泡が飛び出し、彼女はあわてて飲み口に口をつけた。そしてまたグイッとビールをあおった。

「二本目は苦い」そう言ってテーブルに飲みかけの缶ビールを置いた。ゴンという小さな音が響いた。

「汐崎はよくビールを飲むの?」混乱した僕の口から出た言葉は、目の前の現象に関わることだけだった。

「いつもじゃない」

「そうだよな」

「ときどき・・・・・・」

「親は何も言わないのか?」

 僕のこの言葉に彼女は不機嫌そうな表情を浮かべた。

「親なんて、いない」

「そうか・・・・・・」

「親は、気に入った子がいればいい」

「ん?」

「駄目な子は、捨てられる」

 汐崎は視線をテーブルに落として呟いた。僕は彼女が何を言いたいのか、相変わらずほとんどわからなかった。だけど彼女の行き場のない孤立感みたいなものは、僕にも伝わってきた。

「クズばかり」

「えっ?」

 汐崎は僕の反応を無視して一気にビールを飲み干した。

「みんな、クズ・・・・・・」

 彼女は暗い目をして立ち上がり、また冷蔵庫から缶ビールを取り出した。そのひとつを僕の目の前に置いた。それから小さなリモコンのボタンを押した。

 リビングルームのコンポステレオのパワーボタンが点滅した。汐崎は再びリモコンのボタンを押すと、液晶パネルに「CD」の白い文字が浮き上がり、ピアノの音が小さく流れてきた。そのジャズっぽいピアノの音が流れると、僕たちのいる部屋はさらに静かになったような気がした。

 汐崎は僕といっしょに同じキッチンにいるのに、まるで一人きりでいるように見えた。僕の存在など安物のオブジェみたいだ。そう、彼女にはいつも深い孤独感がつきまっとっている。そして僕は一ヶ月前の冷たい雨の日を思い出した。その日の夜、コンビニに弁当を買いに来た汐崎の灰色の瞳が脳裏によみがえった。

(汐崎はずっと一人きりだったかもしれない。一人だけで生きてきた・・・・・・)

その思いは何の根拠もなかった。だが僕にはそのことがなぜか真実だと感じられた。そのためなのか、僕の胸は湧き出したさまざまな感情のためにいっぱいになった。それらの感情は悲しみでもあり、怒りでもあり、行き場のないもどかしさでもあった。僕は一本目のビールを一気に飲み干した。そして汐崎に対して不器用な僕はたどたどしく言った。

「汐崎、ビール飲むの、付き合うよ」

 僕は勢いよく二本目のビールのプルタブを引っ張った。汐崎はちょっと驚いて僕の様子を見ていた。

 そのあと、僕はかなり無茶な飲み方をしたのだと思う。意識を取り戻したのは翌日の朝だった。頭の隅々に鈍い痛みがへばりついて、のどが無性に渇いていた。痛む頭を押さえながら上体を起こし、ぼんやりと目を開けると見慣れない光景があった。

(ここはどこだ?)

 あたりを見渡すと、金属製の洋服掛けと小さな折りたたみ式の黒いテーブルしかなかった。僕のサマージャケットはハンガーを通して、その洋服掛けにゆがみもなく釣り下がっている。愛用の黒いデイバッグはその洋服賭けの隣にゴロリと寝転んでいるように置いてあった。

 真新しい青畳の上には白いシーツの薄い敷布団があり、水色のタオルケットが僕の腹にかかっていた。

そして僕の吐く息にビールの匂いが混ざっていることに気が付いた。

(ヤバイッ!)

 現状を把握した僕は、ともかくこの汐崎のマンションから早く出て行かなければと思った。二日酔いの頭痛に顔を歪めながら、のそのそと起き上がった。それからジャケットを着てドアを開けた。

 ダイニングキッチンには部屋着姿の汐崎がいた。グレーの大き目のズボンと同じ色のトレーナーのようなもので、パジャマのようにも見えるしトレーニングウエアのようにも見える。彼女は熱いコーヒーをつくっているところで、その香ばしい香りが漂ってきた。

 僕は朝から汐崎が食事を用意している姿を目の前にして、呆然と立ちすくんだ。これは現実なのか、まだ夢の中にいるのか?

「おはよう」

 汐崎は僕をちらっと見てあいさつした。

「オ、オッ、オハヨッ」

 僕は頭の中の重い痛みに耐えながら反射的に答えた。

「あのっ、俺、帰るよ。ゴメン」

 僕の口の中はカラカラに渇いていて、かすれ声しか出なかった。

「うそつき」

 汐崎は上目遣いで僕を睨みながらそう言った。

「はぁ?」

「変なことしないって言ったくせに」

「えっ!」

 彼女はまだ灰色の瞳で僕を睨んでいた。

「エッ、エッ、俺何かした? ホント? マジ?」

 僕の二日酔いは一瞬にして醒めたが、頭の奥はキリキリと痛んだ。汐崎は睨むことを止めて今は俯いている。

「ゴメン・・・・・・」

 僕は混乱した頭でうなだれるしかなかった。

「クックックッ」

 汐崎は俯いたまま、何か必死でこらえているような声を発した。僕はわけもわからず立ちすくんでいた。

「中島、すぐ騙される」彼女は嬉しそうに笑っていた。

「涼子、あまり男の子をからかうものじゃないわよ」

 後方から突然女の人の声が聞こえたので、僕の心臓は止まりそうになった。僕の後ろにはピンクのパジャマを着た、愛嬌のある顔立ちの中年の女性が立っていた。

「あっ、あの、お母さんですか? オハヨーゴザイマス、あのスミマセン。えっと僕は、シオザキじゃなかった、えっと涼子さんと同じクラスの中島です」

 僕は何を言うべきなのかさっぱりわからなかった。意味もなく頭を掻いたり、両手をこすり合わせたりしていた。

「おはよう中島君、残念ながら私は涼子の母親じゃなくて叔母の峰岸アツコ。叔母さんじゃなくてアツコって呼んでね。よろしく」

 アツコさんはそう言いながら少し太めの身体に白い薄手のカーディガンをはおり、左目で僕にウインクした。僕は昨夜から今まで、これまでとまったく異なった空間にいるような気がして妙に現実感がなかった。

「中島君、そんなところに突っ立ってないで座ったら? 朝ごはんでも食べていってね」

 僕はアツコさんに言われるままに小さな食卓の椅子に座った。汐崎はフライパンでハムエッグをつくり、アツコさんは食パンを焼いたりサラダをつくったりした。僕がぼんやりと座っている間に、コーヒーとトーストとハムエッグとサラダの朝食が食卓に並べられた。それから汐崎は僕の目の前に冷たい水が入ったグラスを置き、隣に座った。

「ありがと」

 僕は焦らないように努めたが、グラスの水を一気に飲んでしまった。それでようやく少しだけ人心地がつき、ベランダの方をぼんやりと眺めた。ベランダに通じるガラス戸から七月の明るい日差しが差し込んでいる。壁にかかっている時計を見るとすでに八時を回っていた。昨夜と同じようにエアコンから涼しい空気が流れていた。

「さあ、いただきましょうか」

 アツコさんはそう言うと、ゆっくりコーヒーを飲んだ。僕の隣では汐崎がトーストをかじっている。

 僕はいまだに混乱した頭でコーヒーにミルクを少し入れ、カップに口をつけた。

(美味しい!)

 これまで飲んできたものとはまったく違うレベルのコーヒーがそこにあった。苦味の中にほのかな甘味が隠れていて、まろやかだけと引き締まっていた。汐崎の入れてくれたコーヒーは癒しの効果があるのか、頭の中に留まっていた鈍い痛みも急速に消えていった。

「美味しいでしょう、中島君。涼子の入れるコーヒーは別物なのよ」

 アツコさんの言葉に僕は黙って頷き、チラッと隣の汐崎を見た。汐崎はアツコさんの言ったことは聞こえなかったかのように、ハムエッグを口に運んでいた。

食事中に交わした会話はそれだけだった。僕たち三人は黙って同じメニューを平らげた。アツコさんだけコーヒーを二杯飲んだ。

 朝食を終えると、僕はさすがにもうこれ以上この場所にいてはいけないような気がした。

「あの、僕帰ります。朝ごはん、ごちそうさまでした」

 僕は食卓の椅子に座って新聞を読んでいるアツコさんに小さく頭を下げた。汐崎はシステムキッチンのシンクで食器を洗っている。

「そおーっ、もう少しゆっくりしていったらいいのに。まあ、こんなおばちゃんがいたら落ち着かないわよねえ。それに涼子ともいちゃいちゃできないしねえ?」

 僕はアツコさんに向かって慌てて両手を振って、彼女の言葉を否定した。

「冗談よ、冗談! あなたマジメねぇ。涼子、中島君を見送ってあげたら」

 叔母の問いかけに姪は「はい、はい」と普通に答えたので僕は驚いた。

「中島、ちょっと待って」

 汐崎はそう言うと素早く自分の部屋に入っていった。それからすぐに部屋から出てきたが、そのときにはかなり大き目のモスグリーンのサマーコートを引っ掛けていた。

「それじゃあ失礼します」

 僕は玄関ドアの前で頭を下げながらお礼を言うと、アツコさんは僕たちの前までやって来てくれた。そして小さく首を振った。

「ううん、中島君、ありがとう。また来てね」

 彼女はにっこりと優しく笑った。

 僕は自分の行動がどうして感謝されるのかわからなかった。そしてそのときのアツコさんの笑顔は、僕がこれまで出会った大人たちの中で一番素敵なものだった。

 僕は昨夜訪れたときとは逆のコースでマンションの入り口まで降りていった。それから玄関を出て駐輪場から自転車を引っ張り出した。その間、汐崎は何も言わず僕の隣にいた。

「ねえ汐崎、きのう、俺、変なこと言わなかった?」僕はやはり昨夜のことが気になっていた。

「ん?」汐崎は何だかさっぱりした表情でとぼけた。

「酔っ払ってほとんど覚えてないけど、何かいろいろ喋ったような気がする」

 彼女は僕の言葉を無視して、晴れわたった夏の朝の青空を見上げている。

「俺、帰るわ」僕は自転車のサドルに腰を落としペダルに足をかけた。

「中島」

「えっ」汐崎の声に振り向くと、彼女はポケットからシルバーボディの携帯電話を取り出した。

「メアドと電話番号」

 僕は彼女の言葉の意味が一瞬わからなかった。それから慌ててジャケットのポケットからケータイを出し、赤外線通信でメールアドレスと電話番号を交換した。それが終わると彼女は「じゃあ」と微笑んで走り出し、マンションの中に消えていった。僕は自転車のサドルに乗ったまましばらく彼女が走り去った方向を見つめていた。



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