夏休みの出来事
夏休みに入り、僕はバイト先のシフト変更で昼間も働くこととなった。そのためなのか汐崎と会う機会もほとんどなくなってしまった。こんなことだったら、以前のように夜中心にバイトをしたほうがよかったと僕は激しく後悔した。しかし事態の変化の原因はそのようなことではなかった。
七月の終わり、蒸し暑い夜だった。
僕はバイトを終えたけど、そのまままっすぐ家には帰りたくなかった。最近母が変な宗教に凝ってしまって、僕にも意味不明なお祈りを強要するからだ。その変なお祈りは一年間ほどひきこもっている姉、裕子を回復させるためだということらしい。
二年前短大を卒業した姉は地元の銀行に就職した。僕の親はこれでひと安心と思っていたらしいが、現実はそんな安穏とした世界ではない。その銀行には自分の気に入らない人間を徹底的に攻撃する女子行員がいた。姉は運悪くその女子行員に目を付けられた。そして些細なミスを客の前で罵倒されたり、どこから仕入れたかわからないけども学校にあまり行かない僕のことを噂話として流されたりした。
ある種の人間は誰かを決定的に傷つけなければ生きていけないのだが、その女子行員はまさにそういう奴だった。姉は勝気な性格だったので、四ヶ月は意地でも通勤していた。しかし八月にはついに出社できなくなった。
疲れ果てた姉はうつ病になり他人の視線を怖がった。ときどきパニックを起こし、自分の部屋に閉じこもった。そのことで以前からよくなかった父と母の夫婦仲はさらにこじれた。父と母は姉の症状の原因について罵倒しあった。父は母の育て方が悪いと言い、母は家庭を顧みない父の責任だと言った。その結果僕の家には無機質的な空気がいつも漂っていた。
僕はバイトの近くにあるファミリーレストランに入り少し時間をつぶすことにした。その駐車場にはたくさんの自動車がとまっていり、空いているスペースはほとんどなかった。僕は周囲を気にしながら駐輪場に停めてある何台かの自転車を移動させた。そして無理やりつくったその空間に自分の自転車を突っ込んだ。それからチェーン店のロゴが入ったドアを開けてレストランの中に入った。ダウンライトの商業的な光の中を従業員の女の子がやってきた。僕は混んだ座席を見ていると、彼女はマニュアルどおりに「お客様、お一人ですか?」と尋ねてきた。
僕はその声を聞いて目の前の女の子を見ると、そこには照れくさそうな表情を浮かべた汐崎がいた。オレンジと茶色のチェック柄の制服を着て髪をひとつにまとめている彼女は、別人のように見えた。いつも教室でぼんやりと外を眺めている気だるい雰囲気はなく、ちゃんと地球の表面に足をつけてすっと立っていた。
「・・・・・・汐崎?」
「お客様、禁煙席はあちらです」
汐崎は僕の言葉を無視して窓際のテーブルを指差した。少し混乱した僕は、彼女の指示どおり窓際にあるテーブルの安っぽいクリーム色のシートに座った。
店内には小さな子どもを連れた若い夫婦や髪をいろんな色に染めた女子高生たち、騒がしい大学生のグループ、そして機械的に食べ物を口に押し込んでいる中年の男など雑多な人間がいた。
僕は見るとはなしにそんな人たちを見ていると、厨房の方から汐崎がやってきた。僕のテーブルの傍まで来ると、オーダー用の機械を取り出して「お客様、ご注文はお決まりですか」と再びマニュアルどおり訊いてきた。僕は普段見ている汐崎とあまりに違うので、必死で笑いをかみ殺しながら「ドリンクバーだけでいいです」と答えた。
僕の同級生はジロリと僕を睨んだあと澄ました顔で「かしこまりました」と答えた。
それから小さな機械を操作し客のオーダー用紙を取り出した。その用紙をテーブルの端に置いてある小さな透明な筒の中に入れると、「ここで十時までバイトしてる」とぶっきらぼうに言った。僕は慌てて彼女の顔を見ると、汐崎は「ドリンクバーはあちらになっておりますので、お好きなものをご自由におとりください」とまたしてもマニュアルどおりに説明した。僕は声も出さず小さく頷くと、彼女は無表情で厨房のほうへ戻っていった。
僕は腕時計を見ると時刻は九時五分だった。そしてあと一時間どのようにして時間を費やそうかと考えた。デイバッグから読みかけの本を取り出した。市立図書館から借りたノン・フィクション(刑務所に収監されている死刑囚の手記)だったが、予想通り本の内容がまったく頭に入ってこなかった。
僕は本を読むことを諦め、汐崎が言ったようにドリンクバーに行って好きな飲み物をとってくることにした。アイスコーヒーとオレンジジュースとウーロン茶をとるため一回ずつ往復し、自分のテーブルに運んだ。それから携帯電話をいじったり、窓から見える風景を眺めたりして時間を消化した。
九時五十五分になると、支払いを済ませてファミリーレストランの駐輪場から自転車を引っ張り出した。それから店の前の歩道で行き交う自動車を見ていた。ヘッドライトの無遠慮な光が飛び交い、街は相変わらず騒がしく休むことを知らない。慌しく目の前を走り去る自動車を僕はぼんやりと眺めていた。
(どうしてこんなに自動車がたくさん走っている?)
そのことを漠然と考えながら、先ほどの汐崎の姿を思い出していた。
(汐崎がなぜバイトを?)
高校生がバイトをすることは珍しくないが、彼女がバイトするとは思わなかった。
僕は考えがまとまらないまま、星があまり見えない夜空を見上げた。薄汚れた空気の中、曖昧な光を放っている星が数個見えた。
「中島」
自動車が走り去る音に混じって僕を呼ぶ声が聞こえた。振り向くと汐崎が不思議そうに僕を見ていた。
「バイト、終わった?」僕はわかりきったことを訊いた。
彼女は小さく頷いた。先ほどまでひとつにまとめられていた髪も、今はいつものように真っ直ぐ肩までおりている。紺色のストレートジーンズに白いTシャツ、その上にゆったりした灰色のヨットパーカ。地味なファッションなのに、汐崎が身に着けるとどうしてカッコよく見えるのだろう。
「中島、さっき笑ったろ?」
汐崎の声に珍しく怒気が含まれていた。
「いや、笑ってないよ、笑ってない。全然!」
僕は必死で否定したが、彼女は「うそつき」とはねつけた。
「送るよ」僕は恐る恐る言ってみたが、汐崎からは何の返事もなかった。だが拒否されているわけでもないと、僕は勝手にそう解釈した。
歩き始めて数分間、僕らは何も話さなかった。
僕は焦りを感じながら、隣で歩いているクラスメートに尋ねた。
「いつから、あそこでバイトしているの?」僕は自転車を押しながら、自分の問いかけがありきたりで陳腐なような気がした。
「夏休みに入ってから」ぶっきらぼうだけど汐崎はちゃんと答えてくれた。
「汐崎、ファミレス、嫌いじゃなかったっけ?」
「まあね」
僕は自分の口から出てくる言葉に自分自身がっかりしていた。僕は彼女にこんなことを言いたいわけではないのだ。久しぶりに会った彼女に、話したいことや訊きたいことがたくさんあったはずなのに、それらは夜の闇にまぎれてしまい、僕の口からは長いため息しか出なかった。
「どうした?」
「いや、別に・・・・・・」
(こんなとき、サイトーだったら気のきいたことを言えるだろうなあ)僕は友人に嫉妬しながら歩いていると、すでに汐崎のマンションの入り口に着いてしまっていた。
「あっ、もう」無意識のうちにそう言っていた。
「部屋に来る?」
「えっ?」突然僕の胸に異様な圧迫感が生まれ、そして僕の喉の奥には何かが詰まっているような気さえした。
「中島、時間、大丈夫だろ?」汐崎は少し言いにくそうにそう言った。
「ああっ、うん」僕は反射的に顔を小刻みに上下に振った。
「変なこと、しない?」
「エッ? アッ、ハイ」僕の動揺した返事を聞き、汐崎は小さく笑った。
「自転車はあそこ」
僕は彼女に指示された駐輪場に自転車を置くと、急いで玄関にもどった。
汐崎は玄関のパネルに鍵を差込み、右にひねった。すると半透明の頑丈そうなドアが音もなく左右に開いた。
エレベーターを降りると四階だった。汐崎は何も言わず薄暗い通路を歩いて行く。僕たちは405と記されている銀色のプレートの前で立ち止まった。
汐崎は重そうなドアを開けると、自動的に僕の頭上からやわらかな白い光が降り注いだ。
彼女は急いでダイニングキッチンに入るとリモコンのボタンを押した。スーッという静かな音とともにエアコンの冷気が流れてきた。
「そこ、座って」
広々としたダイニングキッチンには不釣合いな小さめの食卓があった。僕は革張りの椅子に腰を下ろすと、周りを見回した。システムキッチン、冷蔵庫、電子レンジ、コーヒーメーカー、食器棚、炊飯器と調理に必要なものは揃っていたが、何となく住宅メーカーのモデルルームのような雰囲気が漂っている。
「のど渇いた?」
汐崎はそう言うと、僕の目の前にいきなり缶ビールを置いた。彼女は僕の向かい側に座ると、慣れた手つきで自分の缶ビールのプルタブを引いた。そして一気に琥珀色の液体を形のいい口の中に流し込んだ。僕は彼女の白いのどが規則正しく動くのをあっけにとられ見つめていた。
彼女は缶ビールをテーブルに置くと、ふうと息をついた。それからその缶ビールをじっと見つめていた。眉間に小さな皴をよせて、何事か考えているようにも見えた。そしてまた息を吐き出し深呼吸した。そのあと彼女は何も言わずじっと僕の目を見ていた。彼女のまっすぐな視線を感じ、僕は反射的に口を開いた。
「ねえ汐崎、どうしてバイト始めたの?」
「えっ?」
僕の質問に汐崎は不思議そうな表情を浮かべた。
「いや、何か心境の変化とかあったかなって」
「別に」彼女はつまらなそうに答えて、ビールを一口飲んだ。そして大きなため息をついた。
僕は先ほどまでの高揚した気分が急に醒めてしまった。エアコンのスーという音が、今はやけに耳障りに聞こえる。
「ヒマだから」
「はっ?」
「夏休み、やることない」
「あっ、そっか、そうだよな」僕は慌てて相槌を打った。
「それに」そう言って汐崎は僕をチラッと見た。
「中島でもできる」
「あっ、そうだよな、僕でもできるし。あんなバイト、誰でもできるよな」僕はそう答えて「アハハハーッ」と軽薄そうに笑った。だけど正直悲しくなった。だから彼女から目をそらして、キッチンの冷蔵庫を眺めるふりをした。
汐崎はそんな僕の顔をチラリと見て瞳を閉じた。
「ゴメン」
汐崎は俯きなから小さな声で謝った。
「ゴメン」
彼女は再び謝って下唇を噛んだ。それからテーブルの上に置いてあった僕の右手を両手でそっと掴んだ。僕は驚いて目の前のクラスメートを見ると、彼女の灰色の瞳は涙で潤んでいるように見えた。その潤んだ瞳は必死に助けを求めているように、僕を見つめていた。そして僕の右手を掴んだ両手は何かに祈っているようにも見えた。
「私・・・・・・駄目」
汐崎のつぶやきは、老人のように枯れていた。僕はしばらくその姿勢のまま固まっていた。




