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僕らの時代  作者: 西野了
2/21

田村の死

 そんなことがあった数日後のことだ。

 梅雨明けが間近な朝、校舎は騒然としていた。プールの脇に救急車が一台、そしてパトカーが数台停まっている。プールの周囲の金網にはブルーシートが隙間なく覆われている。その周辺は異様な緊張感に包まれていた。その緊張感は無理やり錆びついた金属物を口に突っ込まれたような感じだ。そんな鳥肌が立つような感覚に包まれると、僕の周囲では決まってよくないことが起こる。

「これは、ただごとじゃないな」

 いつの間にか隣にいたサイトーが、いつものようなクールな口調で言った。

 こいつは大体言った内容とその態度がまったく逆なのだ。

 たとえばもし地球最後の日が来て、そのとき人類の中で一番冷静な人間を選ぶとすると、その人間はサイトーかもしれない。だからこいつが傍にいると、癪だけど僕は安心してしまう。

「コラァ! お前ら、ここで止まるな!」

「早く教室に入りなさい!」

 赤木と生活指導担当の藤井が怒鳴った。カマキリのように痩せている藤井の目に、いつものような底意地の悪い光はなく、焦りにも似た戸惑いが浮かんでいた。

「なんだよーっ」

「何があったんだよぅ」

 生徒たちは興味津々でなんとかその場に留まろうとしたが、教師たちは必死だった。

「コラッー! 早く行かんか! ボケッ!」

 赤木は本気で怒っているようで、唾を吐き散らしながら怒鳴散らしていた。

 校門の前には新聞社や放送局の自動車までやってきた。

「許可なく入るなーっ!」

 教師たちの怒号が飛んだ。

「おい中島、教室に行こう。ここにいたって、らちがあかないぜ」

 サイトーは呆れるように言うと足早に校舎に向かって行った。僕は急ぎ足で彼の後を追った。

 教室に入ると小藪が慌ててやって来た。「サイトー君、中島、大変だよ、大変! 野球部員がプールで溺れたって」

 小藪は神経質そうに声をひそめて言った。

「何で野球部員がプールで溺れたんだ?」僕は単純な疑問を口にした。 

「わかんないよ。でもやばいって」

「死んだの?」サイトーはこんなことでもやんわりと言う。

「ウンウン、そうみたい」小藪は小刻みに首を振りながら答えた。

「マジかよー」僕は担任の赤木の顔を思い出しながら、うんざりした。

 だが小藪がこっそり言った情報は、すでに教室中に広まっていた。

「溺れ死んだのは野球部の二年だってよ」

「名前は?」

「わかんね」

「何で野球部ってわかったんだ? ユニホーム着て溺れたのかよう?」

「あほかぁ!」

「殺されたんじゃねーのか」

 教師たちは事件の対応に追われているのか、始業時刻になっても誰も教室に姿を現さない。当然僕の周囲はこの話題で騒がしくなっていた。

「死んだのは二年の田村って奴らしいぜ」

 誰かが最新の情報を入手したらしく、それを聞いたクラスの連中はますます饒舌になっていった。

(田村は確か、僕が通っていた中学の一年先輩だったけ?)

「タムラァーッ、はあ? 知っている?」

「知らねえ」

「そいつ、いじめられて、自殺したんじゃねーのか」

「おう、おれの従兄弟が野球部だけどよ、野球部ってぇのはよぉ、いじめの巣窟だってよ」

「ソークツって何だよ」

「ギャハハハーッ、テメー巣窟も知らねえのかよ。筋金入りのバカだなあ」

「ウルセー、テメー。ぶっとばすぞ! ざけんじゃねーぞ」

 そんな会話がいたるところでなされ、室内は騒然とした雰囲気に包まれた。

「ガラッ!」という音とともにドアが開き、麻衣が姿を見せた。みんなは一瞬担任の赤木が入ってきたのかと思い反射的に緊張したが、入ってきたのが麻衣だとわかり再び話し始めた。

 そしてこの手の話が大好きな麻衣は、急いで僕たちの席に来て機関銃のように喋り捲るだろうと僕は身構えた。だけど彼女は夢遊病者のようなうつろな表情でトボトボと歩いている。

「ドタッ」という音をたてて僕の隣の席に力なく腰を下ろすと「ハアーッ」と大きくて深いため息をついた。

「ワタナベェ、どーしたんだよ。おめえ、こんな事件が大好きだろ」

 いつの間にか高橋が麻衣の前に来てヘラヘラ笑っている。

「ウルセー! あっち行け」麻衣は高橋を睨みつけ、プイッと横を向いた。

「ミーハーなおめえだから、野球部員にパコパコ股開いたんじゃねーのか。プールでオッ死んだ奴にもやらせたんだろ! ヘヘヘェー」

「高橋、いい加減にしろよ」さすがに僕も怒りが湧いてきた。

「ナカジマァーッ、お前ら幼馴染だからお医者さんごっこしただろ。ワタナベェ、中島にちゃんと注射されたか? 気持ちよかったかぁ?」

 高橋はズボンのポケットに両手を入れて、上体を倒し、しまりのない顔を麻衣の目の前に晒している。いつもなら爆発している麻衣だが、今日はなぜか目を閉じ唇を噛み締めて黙っている。

「野球部の奴ら、体力だけはあるから、お前も大変だったろう。それとも満足したか? あん、いてててー!」

 高橋の逆立ったピンクの髪の毛をわしづかみにしたのは汐崎だった。振り返ろうとした高橋の顔面に、彼女の左拳が飛んできた。

「バゴッ!」という打撃音とともに高橋の顔は跳ね上がり、後方の机に背中を激しく打ちつけた。

「汐崎ィーッ、てめえ、なにしやがるんだあ! グフッ」

 高橋は口の中を切ったようで、唇の端から真っ赤な血が滴り落ちている。

「てめえ、野球部のことになると、やけに絡むじゃねーか。てめえも野球部の奴らにやられて棄てられたのかぁ、ヘヘッ」高橋は口から血を流しながらも、ヘラヘラ笑っている。

「お前、死ね」

 高橋の前に立った汐崎は、心底軽蔑しきった視線を投げつけそう言った。

「何だとーっ、てめえ!」

 高橋の顔は急に赤くなり、数秒して今度は青白くなった。それから奴は黒い学生服の内ポケットから銀色に光るバタフライナイフを取り出した。そしてそのバタフライナイフのグリップをヌンチャクのように振り回し刃を露出させた。鉛色の刃は錆ひとつなく鈍い光を放っている。ナイフのグリップを握っている右手は、ブルブルと小刻みに震えている。

「根性なし・・・・・・」

 汐崎はぼそっと呟いた。

「汐崎―ィ!」

 高橋は甲高い叫びをあげながら突進した。

(ヤバイ!)と感じながら、僕はなぜか高橋の胴めがけてタックルをしていた。

「わーっ」

「オーッ!」

 周囲の野次馬たちの声が耳に入ると同時に、僕と高橋は誰かの机に激突してひっくり返っていた。(その机は汐崎のものだった)

 僕は右肩を何かに激しく打ちつけたが、その痛みを気にしている場合ではなかった。

(ナイフは?)僕は慌てて高橋の右手を見たが、そこには何も握られていない。それどころか奴は右手を押さえ、顔は苦痛に歪んでいた。僕は事態をまったく飲み込めていなかった。

「カオルーッ、カッコイイーッ」

 数日前と同じフレーズが聞こえてきた。そのときと違うのは、麻衣がサイトーに抱きついていることだ。サイトーは麻衣の直情的な行為に動揺することなく、「まあまあまあ」と彼女の肩を軽く叩いた。そしてそのふくよかな身体をそっと引き離した。

「中島ァ、どけよ! イテテテ」

 高橋は先ほどまでの怒りがどこかへいってしまったようで、白けた顔で立ち上がった。

「なんだよぅ、てめーらは」

 そう言って右手を押さえながら自分の席に戻っていった。

「麻衣、どうなってんだ?」

 僕は右肩を痛みに耐えながら、アイドルタレントを見るように瞳を潤ませている幼馴染に尋ねた。

「コーイチ、カオルってすごいねーッ」

 彼女は僕の疑問に答えずに天井を指差した。安っぽい天井の合板に高橋のバタフライナイフが突き刺さっていた。

 僕はわけもわからずに天井に突き刺さっているナイフを見ていると、麻衣は嬉しそうに説明し始めた。

「カオルがキックして、高橋のバカをやっつけたのよ」

 要領を得ない麻衣の話に首をひねっている僕に汐崎が答えた。

「斉藤が奴の右手、蹴り上げた」

 彼女の言葉を聞きながら天井に突き刺さっているナイフを見て、腹の底から改めて恐怖が湧き上がってくるのを感じた。そして両足がガタガタと震えてしまった。

「そうそう、カオルってアクションスターみたい。コーイチはあのバカとひっくり返ってさ。あれぇ、ビビって震えてるぅ、カッコワルーッ」

 幼馴染とはいえ、なんて言い草だと僕は心外だった。けれども麻衣の隣にいた汐崎がクスッと微笑んだのを目撃して、そんな気持ちはどこかへ飛んで行ってしまった。彼女の微笑みを初めて見たことで、僕の足の震えも急速に治まっていった。

「ガタン」という音がした。サイトーが汐崎のひっくり返った机をもとにもどしていた。こいつは本当にそつのない奴だ。

「コーイチ、血ィ」

 麻衣は僕のカッターシャツの袖を右手で引っ張りながら、左手の人差し指で指差した。床には高橋の流した血が赤黒く残っていた。

 そのころには僕の身体も精神も落ち着いていた。僕は掃除用具のロッカーからモップとバケツを取り出した。教室を出てバケツに水を入れていると、汐崎がやって来た。僕がモップ用のバケツを持つと、彼女は黙ってモップを持った。教室に戻ると彼女は床に着いた血をモップでふき取った。麻衣はその様子をぼんやりと眺めていた。



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