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僕らの時代  作者: 西野了
19/21

サイトーはいつものように話し始めた。

 一週間経っても僕は汐崎の姿を目にすることはできなかった。電話をしてもメールをしても僕の声が彼女に届くことはなかった。

 十月最後の日の夜、僕はコンビニのバイトが終わって帰ろうと自転車に乗ったときだった。

「オース」とサイトーの声が聞こえた。彼はアーチ型車止めに腰掛けて僕に微糖の缶コーヒーを投げて寄越した。そして自分のペットボトルのお茶を一口飲んで喉を潤した。それから珍しく澄んでいる夜空を数秒間見上げた。サイトーの眼鏡に星の光が反射しているように見えた。

「・・・・・・二年ぐらい前、インターネット上に綺麗な女子中学生のセックスシーンの動画が流出した」

 奴は独り言のように言った。いつも僕らの言葉はあっけなく空気に飲み込まれてしまうのだけど、今の奴の言葉はずっとそこに漂っていた。

「うん・・・・・・」

 僕はサイトーの言葉にそれほど驚かなかった。むしろ変な具合に納得していた。

 僕は少しぬるくなった缶コーヒーを飲み、サイトーもペットボトルのお茶を飲んだ。

 僕は汐崎のために何ができるのだろうかと考え続けていた。だけど答えは見つからなかった。、そのためなのか、自分の身体が固まってしまうような感覚に度々襲われていた。

「詩織が死んだとき、俺は自分が空っぽだと感じた」

 サイトーはいつものように話し始めた。

「詩織は俺より二つ下だったけど、俺よりも精神的にはずっと大人だった。決して取り乱すことなくいつも微笑んでいた。信じられないだろう? だけどそうだった。そして変な話だけど俺は困ったことがあると、親より友人よりも妹に相談していた。相談というより詩織に話を聞いてほしかった。詩織が俺の話を聞いて『そうなんだ』とか『ふーん、困ったねえ』とか言ってくれるだけでよかった。こんなことを言うと俺が詩織を溺愛していたみたいに感じるかもしれないが、それとは違う」

 サイトーは眼鏡のフレームを指で少しだけ押し上げて話を続けた。

「俺にとって妹は船の碇のようなものだったのかもしれない。俺がこの世界で地に足がついているためには詩織の存在が不可欠だった。ある意味俺は詩織に依存していた」

 僕の左手が持っている缶コーヒーはすっかり冷たくなっていた。

「いろんなことを真面目にやってきて、それなりのものを掴んできたと思っていた。だが詩織がこの世界からいなくなったとき、俺には何一つないと感じた。俺の中に大きな穴が空いて、これまで手に入れたものがどんどんその穴に吸い込まれて消えていった。そして俺は激しく混乱した。この世界には確かなものなど何も無くて全て幻想だと。全ては消え去ってしまうものだと・・・・・・。中島、ある種の絶望は人を無軌道にする」

「それでこの高校に来たのか?」

「ああ、最後まで募集していたのがここだったし、家にいても仕方がないと思い始めていたからな」

「暇つぶしか」僕は少しムカついた。

「暇つぶし・・・・・・。そうだな、ここだとじっくりと考えることができると思った」

「考えるって何をだよ」

「なぜ詩織が死ぬまで微笑み続けたのか? そのことだ」

 サイトーはそう答えるとまた空を見上げた。夜空には銀色に輝く星々が散らばっていた。東から西へ流れ星が糸を引いた。

 僕はサイトーの部屋の机にある写真立てを思い出した。そこには澄んだ瞳の少女が静かに微笑んでいた。

「サイトー、その答えは見つかったのかよ?」

 奴はしばらく黙っていた。だからといって深く考え込んでいるわけでもなかった。

「いや、わからない。詩織が笑って逝けたことが、俺はずっとわからないかもしれない」

 サイトーは大きく息を吐いた。

「だけど俺はここに来てよかったと思う。中島たちに会えてホントによかったと思う」

「エッ! ホントかよ。俺や麻衣みたいなややこしくて頭の悪い人間に会えてよかったんだ?」

 僕はサイトーと出会って、それ時からずっと抱えていた疑問を口にした。

「中島、学校の勉強ってそんなに大事じゃないと思うぜ。もちろん勉強ができたほうがいろいろ都合がいい。だけど俺は中島たちが不器用でジタバタしながら生きていることに、ある意味救われた」

「ふーん」

 僕はサイトーの言っている意味がよく理解できなかった。

「悲しいことはずっと悲しいし、失われたものは二度と手にすることはできない。辛いけどそして胸の空白は埋められないけど、生きていくしかないとお前らに教えられたのさ」

 奴にしては珍しく早口だった。ひょっとしたら照れていたのかもしれない。

「もしかしてサイトーは俺たちを認めているのか?」

「当たり前じゃないか」サイトーは後ろを向きながら答えた。

 僕は相変わらず奴の言っていることがあまりわからなかった。でもサイトーが僕らを自分と対等の人間として付き合っていることに少しだけ安心した。そして自分の身体のこわばりが、徐々にほぐれていく感覚があった。

「なあ、中島。汐崎にあまり遠慮しなくてもいいと思うぜ」

「はっ?」

「彼女はお前に会いたがっている」

「そうかな・・・・・・」

 僕は一週間前、涙で濡れた汐崎の瞳を思い出した。その眼差しは僕を見つめているようで、実は何も見えていないようにも思えた。

「汐崎に対して何もできないし・・・・・・」

「やれやれ、ホントお前は麻衣ちゃんが言ったように、鈍い男だなあ。ともかくあまりグダグダ考えないで、涼子クンのマンションに行ってこいよ」

「あっ、ああ」

 僕は無意識に頷いていた。



 僕は汐崎の住んでいるマンションのエントランスホールにいた。

 かなり広い空間なのに僕しかいない。以前、汐崎とここに来たときも僕らの他に誰もいなかった記憶がある。一つの階に十部屋、そして二十階はあろうかという巨大なマンションなのに、いつもひっそりとしている。

 僕はエントランスホールの中にあるドアの左手前にあるパネルに汐崎の部屋の番号を押した。

「汐崎」

 僕の声は見ず知らずの他人が言っているように聞こえた。そして汐崎が部屋のモニターから僕を見ている―その視線を感じた。数秒が経過した、いや十秒くらいだったろうか? 僕の前にある透明なドアは僅かな音を立てて左右に開いた。 

 僕は音のしないエレベーターに乗り四階に着いた。405号室のインターホンのボタンを押す。

 応答はない。

 無音の時間、僕は深い海の底に一人でうずくまっているような感覚に陥った。息苦しくって周りは蒼い闇に覆われている。ただ遥か上方、それは水面の近くで、そこだけはぼんやりと白い光があった。

「カチャ」と小さな音がして、玄関ドアは静かに開いた。汐崎は薄いグレーのトレーナーと黒いトレーニングパンツというファッションだった。

「明日、学校、来る?」

僕は唐突に言ってしまった。

「あっ・・・・・・嫌だな」

 汐崎は小さな声でそう答えた。そして上目遣いでジロっと僕を見た。

「そう・・・・・・か」

 僕はすでに言葉を失っていた。

 玄関のダウンライトの黄色い光がぼんやりと僕と汐崎に降り注いでいた。

(クィ)と僕の右袖を白い人差指と親指が引っ張っていた。

「中に入ろぅ」

 この部屋の住人は照れくさそうに言った。

 僕はキッチンの椅子に座った。食卓の真ん中には小さな四角い鉢が置いてあった。その鉢に名前の知らない植物が赤と白の花を咲かせていた。

 汐崎はコーヒーをつくり始めた。小さなステレオセットからはジャズっぽいピアノの音が流れている。

「汐崎はジャズが好きなのか?」

「エッ?」

 彼女はフィルターに熱いお湯を注ぎながら首をひねった。

「なんか、いつもこんな曲聴いているし」

「おばさんが好きなの。このピアノ弾いている人」

「フーン、誰?」

「キース・ジャレット。知ってる?」

「知らない」

「そうだよね、あたしも知らない」

「フーン」

「でも、よく聴かされるとだんだん好きになった」

「そっかぁ」

 僕は汐崎とこんなにスムーズに話した記憶がなかったので、内心かなり戸惑っていた。だけど彼女はそんなことを意に介する様子もなかった。

「この人のピアノ聴いてると、一人でもいいかぁって思う」

「エッ!」

 僕の顔を見て汐崎は「クククッ」と小さく笑った。

「うそ。でも半分はホント」

 彼女はそう言いながら、僕のカップにミルクを少し入れてくれた。

「砂糖、一個?」

「いや、いらない」

「あれっ、そうだっけ?」

「コーヒーに砂糖は入れないことにした」

「フフッ」

 汐崎は微笑みながらコーヒーカップに唇をつけた。僕も熱いコーヒーをゆっくり味わった。

 僕はチラッチラッと右横に座っているクラスメートを見た。彼女はコーヒーカップの温もりを掌に感じながら、僕ら二人の空間を眺めている。そこには怯えも不安も険しさもなく、ただ静謐な時間だけがあった。キース・ジャレットのピアノの音は少し遠くで鳴り響いていた。

「汐崎・・・・・・」

「うん?」

「汐崎、この部屋にいると元気だな」

「そう? そうかな」

「思ったより元気でよかった」

「んーん」彼女は紅い唇をコーヒーカップにつけたまましばらく考えていた。

「ちょっと前まで、ダメだった」

「うん」

 また沈黙があった。僕は今の沈黙が嫌いじゃなかった。

「あのさ、汐崎」

「ん?」

「俺のバイト先のコンビニ、汐崎のマンションから結構遠いだろ」

「うん」

「どうして俺のコンビニに来るようになったの? このマンションの近くにもコンビニいくつかあるのに」

「うーん」汐崎は遠い風景を見るように瞳を細めた。すると余計にその灰色の瞳が輝いて見えた。

「暇だったし、中島のコンビニ、お弁当の種類が豊富」

「まあ、そうかな。確かに弁当には力を入れてる」

「知ってる奴もいたし」

「ふーん」

「そいつ、あたしと似てた」

「・・・・・・」

「そいつ、生きるのが下手で、もがいてた」

 そう言うと汐崎は瞳を閉じて、ゆっくりとコーヒーを飲んだ。僕はコーヒーカップをテーブルに置いた。

「そいつ、俺?」僕は右手人差し指で自分の顔を指差していた。

 汐崎は何も言わず小さく頷いた。

 僕は彼女がバイト先のコンビニに通い始めた頃を思い出そうとした。僕が思い浮かべた光景は雨に濡れたフード付きジャケット姿の汐崎だった。

「中島、雨の日。『傘貸そうか』って言ってくれた」

 そう言うと彼女は小さく笑った。

「でも傘、貸してくれなかった」

「エッ、だってあれは・・・・・・」

「フフフッ」汐崎はまた小さく笑った。

 僕はぼんやりとキース・ジャレットのピアノを聴いていた。ときどき煌めくような音が耳に飛び込んでくる。

「あたし・・・・・・」

 僕はドキッとした。

「あのことを思い出すと、どうしていいか分からない」

「うん」

 僕はカップに残っていたコーヒーを飲み干した。

 汐崎はサーバーに残っているコーヒーを僕のカップに注いだ。それからミルクも少し入れてくれた。

「アリガト」

 僕は彼女がつぎたしてくれたコーヒーを一口飲んだ。いつもどおり美味しかった。

「あんな奴がいると、学校に行くのが怖くなる」

(あんな奴って大西秀太か?)僕はそう思ったが口には出せなかった。

「三日前くらいから・・・・・・楽になった」

「ウン」

 気がつくと潮崎の左手が僕の右手を握っていた。彼女の手はひんやりとして滑らかだった。

「部屋で一人でいると、このままでいいと思ってた。」

 汐崎の細い指先から心臓の鼓動が伝わってきた。それは規則正しく、さざ波のように僕の身体全体を覆った。

「あたしもあいつらと同じかもしれない」

(あいつら?)僕は一瞬混乱した。

「汐崎、俺だってそうだよ。誰かを傷つけながら生きてる」

「うん」彼女の左手に力がこもった。僕は大きく息を吸い込み、そしてゆっくりと吐き出した。

「中島があたしのこと心配してくれて。斎藤も小藪も渡辺も心配してくれてる」

(麻衣はどうして汐崎の状況を知っている? サイトー=麻衣のホットラインか?)僕が頭の隅でそんなことを考えていると、右手が急に上方へ引っ張られた。椅子から立ち上がると僕の目の前に小さな光を幾つも宿している二つの瞳があった。

「ちょっとは、他人、信じていいかも・・・・・・」

「うん」

「ギュッとして」

 彼女の顔は僕の薄い胸に押し付けられていた。

「そんなことすると・・・・・・変なことするぞ」僕は喉が渇いていた。冷たい水が飲みたいと痛切に感じた。

「いいよ」汐崎は笑っていた。



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