大西秀太が知っていること
十月二十二日はプロ野球のドラフト会議当日だった。ドラフト会議は午後四時から始まっていた。僕はサイトーの部屋に上がり込みテレビでその様子を見ていた。
神山は阪神タイガースに一位指名された。テレビ中継がホテルの会議場から僕らの高校のグラウンドに切り替わった。
そこで制服を着た神山が野球部員たちに胴上げされていた。威勢の良い掛け声とともに神山の巨体が意外なほど高く宙に舞った。そして二回目の胴上げ後、神山の巨体が地面に落ちてしまった。胴上げしていた部員たちが慌ててその場を離れてしまったからだ。中継のカメラは偶然、バタフライナイフを持った野球部員を映してしまった。バタフライナイフからは血が滴り落ち、無表情の顔には三白眼が冷たく光っていた。
「高橋!」
僕の声に反応したのか、ゴローと遊んでいたサイトーも真剣にテレビ画面を覗き込んだ。画面では地面に仰向けに倒れていた神山が左手で腰を抑えながら、ゆっくりと立ち上がっていた。そして高橋に向かって「ニィー」と物凄い笑顔を浮かべ対面している。そこで中継の場面が消え、ドラフト会議会場に場面が切り替わった。
会場はザワザワとした落ち着きのない声と異様な雰囲気に包まれていた。阪神タイガースの関係者が足早に別室へ消えていった。
僕は呆然としながら、頭の奥で汐崎の言葉を聞いていた。(あんなことでナイフは刺せない)以前、高橋が激高してナイフを振り回した後、汐崎は僕にそう言った。だけど今、奴は愛用のバタフライナイフで神山を刺した。狡猾に野球部員になりすまし、神山がドラフトで高位指名されグラウンドで胴上げされることを想定して、彼の肉体を抉った。
汐崎にナイフで突っ込んだ時から今までの間に、奴の中で何が変わったのか?
(麻衣? 麻衣が傷つけられたことへの報復か・・・・・・)
世界は血を流しながら変転していく。
「高橋君、捕まっちゃったね」
翌日の朝、小藪は僕の机の前で悲しそうにそう言った。
高橋が神山を刺した後、神山はナイフの傷口を左手で押さえながら、人間離れした笑みを高橋に送った。すると高橋は右手に持っていたバタフライナイフを思い切り地面に投げつけた。血の付いたナイフは「ザッ」という音とともに、刃の部分がすべて地中に埋まるほどグラウンドに深く突き刺ささった。それを見た教師達が慌てて高橋を拘束した。その時点で高橋は無抵抗だった。養護教諭の宇野先生も走ってきて、神山の左腰を見ながら二言三言彼に声をかけていた。そして数台のパトカーがグラウンドに到着し、警官がそこから飛び出してきた。―小藪が入手した情報の概略はこんなもんだった。
僕の左隣の席は空いていた。麻衣は今日もこの教室に姿を現さないのだろうか。あいつは夏休み以前よりも欠席が多くなっていた。怪我はすっかり治ったくせに。
「神山の怪我、大したことないって、朝のニュースで言っていたよ。それから彼、刺した人―高橋君のことだけど寛大な処置をしてほしいってコメントしたらしい」
小藪は僕とサイトーを交互に見ながら早口で喋った。
「チェ、なんだよ、それ。しかし神山は化物だな」
僕が小さくため息をついた時だった。
「おいおい、僕の尊敬する先輩を化物扱いしないでほしいなあ」
いつの間にか小藪の後ろに大西秀太の姿があった。灰色のスラックス、白いが少しだけくすんだカッターシャツ、紺色のブレザー、そして深紅のネクタイと、彼の着こなしは完璧だった。適度に日焼けした顔は精悍で爽やかで短めの髪がよく似合っていた。
僕も小藪もその姿に何かしら圧倒され、思わずのけ反ってしまった。クラスの奴らも全員こっちを見ている。だけどサイトーは「やれやれ」という表情を浮かべながら首を振り、隣の汐崎は険しい眼で大西秀太を睨んでいた。
「大西先輩が、どうしてここへ?」
サイトーにしては珍しく疑い深い眼差しで野球部のエースを見た。
「僕が従兄弟のいた場所を偲んでもいけないのかな?」
大西秀太は涼し気な微笑みを口元に貼りつけながら、僕の前の椅子を後ろ向きにしてゆっくりと座った。
「なるほど」
サイトーは両肘を机について、両手の指を交互に組み合わせて真っ直ぐ前を見ていた。そして小藪はいつの間にかサイトーと汐崎の間の空間に移動していた。
「中島君はキャッチャーというポジションをあまり理解していないようだね」
「どういうことですか?」僕は唾を飲み込みながら、そう答えるのが精一杯だった。
「神山先輩はああ見えても、おっと失礼、大変繊細な感性の持ち主だ。キャッチャーというポジションは様々なことを考えなきゃいけないし、微細な変化も感じ取らなきゃいけない。一流のキャッチャーはそういう資質を備えているし、神山先輩も勿論一流のキャッチャーだからね」
「はあ・・・・・・・」
「一流のキャッチャーは普通の人が感じないことも感じて探り当てることができるものだよ」
僕は大西秀太の言っていることがよくわからなかった。しかしまるっきり理解できないことでもなかった。ただ彼の言っている意味を知ってしまうことになぜか積極的になれなかった。
「じゃあ、高橋のことも知っていたってことですか?」
サイトーの抑揚のない声が響いた。隣にいた小藪が少し驚いたようにサイトーを見た。汐崎もチラッと横目でサイトーを見た。
「あんな変な殺気を出していたらバレバレでしょ」
大西秀太は白い綺麗な歯並びを見せて楽しそうに答えた。僕は健康的な浅黒い肌には真っ白な歯が本当に映えるのだと一瞬感心してしまった。
「最初から高橋が紛れ込んでいることを、神山先輩は気づいていた?」
「勿論!」
「あなたも?」
「ピンポーン!」
大西秀太はサイトーの質問内容があらかじめ分かっているかのように淀みなく答えている。
「もしかして高橋がナイフを持っていることも知っていた?」
僕はそう言ったサイトーを見て、それから大西秀太を見た。
「不良にナイフは必需品でしょ。それに彼は以前この教室でナイフを振り回し、君にノックアウトされたって聞いたけど」
(大西健一か・・・・・・)僕の脳裏に彼の神経質そう眼差しが浮かんだ。
「神山先輩も知っていたのですか?」
僕は神山にも大西秀太にも好意を抱いているわけでもないのに、むしろ敵意を持っているのに、どうしても丁寧な口調になってしまう。
「当然! 僕らは仲良しだからね」
大西秀太の言っていることがどこまで本当でどこからが嘘なのかわからなくなってきた。僕は左斜め後方に視線を向けた。汐崎は肩肘をついた、いつものポーズで、ふてくされたような何かを我慢しているような顔をしていた。
「高橋が神山を刺すことも想定内だったと?」
サイトーの声はいつものように低く響いた。だけどはっきりとした怒りが含まれていた。
「さぁー、どうかな?」
天才投手はマウンド上では決して見せない愉快そうな小さな笑い声を上げた。僕はその「クスクスクス」と聞こえた大西秀太の笑い声が、遥か遠くの彼方から響いているように感じた。それは明らかに人間離れした音だった。その音は脳の奥深くまで侵入し何かの拍子で再生され僕を激しく混乱させるような気がした。
「何がそんなに面白い!」
汐崎が僕の隣に立って大西秀太を睨みつけていた。大西秀太はチラッと上目使いで彼女を見た。僕は背中一面に悪寒が走った。
「汐崎さん、君は中学生から性感帯が発達している」
「エッ?」汐崎の思考が停止したように見えた。
「十四歳で、あんなに感じるのだね」大西秀太は唇の端を吊り上げた。そして両方の目の端も吊り上がった。
僕らの目の前に大西秀太の姿をした別の人間が現れた。
そいつに凝視された汐崎は顔が蒼くなり、小刻みに身体が震え出した。僕が汐崎に何か声をかけようとした瞬間、彼女は走り出した。僕は意味もわからず勝手に身体が動き彼女のあとを追った。
「アッハハハハァー!」
背後から大西秀太の絶叫のような笑い声が聞こえた。そして「バーン!」と机を平手で叩く音が聞こえ「大西ぃ!」というサイトーの怒号が聞こえた。だけど僕はそんなことに構っている余裕はこれっぽっちもなかった。
汐崎は屋上入口のドアを開けると一直線に金網まで走った。そして金網を思いっきり蹴り上げた。
「汐崎!」
彼女は僕の声を無視して何度も何度も右足で金網を蹴り上げた。
「汐崎・・・・・・」
僕の声が届いたのか、汐崎は僕の顔を見た。彼女の目の周りは赤く染まり、その瞳から涙がボロボロと溢れ出た。
「ダメだ! ダメだ! ダメェー!」
汐崎の言葉は体の奥底から吐き出された。
「人を刺して笑っている人間はダメだ・・・・・・」
彼女は身をよじるようにして涙を流していた。その涙は頬をつたい顎の先から滴り落ちてコンクリートに灰色のシミをつくった。
「中島、何か言って・・・・・・」
汐崎は瞳を濡らし嗚咽しながら懇願した。
僕は何も言うことができず、ただ彼女の細い肩を抱きしめた。僕の胸の中で汐崎はハアハアと荒い息を吐き続けた
「中島・・・・・・」
彼女は絞り出すように小さく叫んだ。その白い指は何かを掴もうと僕の制服を握り締めた。
僕に言葉は無かった。ただ彼女を抱きしめることしかできなかった。
世界は悪意に満ち溢れていた。サイトーが言ったように僕たちには這いつくばる地面すら無い。僕はやり場のない怒りにこの身体が砕け散ってしまうのではないかと恐れていた。
次の日、汐崎は高校に来なかった。
その次の日も汐崎は高校に来なかった。




