この空が落ちてきたら、あたしと死んでくれる?
九月も終わりにさしかかった月曜日の昼休み、サイトーは僕に自分のスマートフォンを手渡した。その画面には石井圭からのメールが届いていた。
『 前略
斉藤君
面と向かって話すのはなんとなく恥ずかしいので、メールで伝えることを許してください。
最初に、あなたの問いに答えなければなりませんね。
私が大西秀太のガールフレンドなのか?
その答えはYESでもありNOでもあります。
斉藤君、あなたならこの答えの意味を理解してくれると思います。
この学校で水死した田村春生は私の兄です。もっとも父親は違いますが。
私には兄弟が七人いますが、いずれも父親が違います。
母はそんな人間です。想像すれば分かると思います・・・・・・。
兄とは年が近いこともあって、何回か会う機会がありました。
私は正直、兄―田村をあまり好きにはなれませんでした。
彼もまた私と同様に複雑な環境に育ち、幼少時から多くの痛みを胸に抱えて生きてきたと思います。
そのことは私にはわかります。理屈ではなく彼と初めて会ったとき、感覚的に「あっ、私といっしょだ」と理解できたのです。
兄とは共感できることがある。それでも私は彼を好きになれませんでした。いや、正直に言えば彼を嫌っていたのです。
兄は相手によって人格を変えることができるカメレオンみたいな人間でした。そうしないと生きていけないと、彼は本能的に感じていたのかもしれません。
彼は私といるときは、自分の不幸な(?)境遇を嘆き不平不満ばかり言っていました。簡単に言えば彼はこの世界を激しく憎んでいたと思います。
だけど渡辺さんと接していたときの彼は違いました。渡辺さんといるときの彼は優しく、渡辺さんを癒すような役割を果たしているようでした。そのことは渡辺さんがよく知っているはずです。
彼が大西秀太のブルペンキャッチャーになれたのはある意味当然のような気がします。もっとも秀太は兄―田村のカメレオンのような性格を見抜いていました。秀太がそんな兄をどういうふうに思っていたか、それは私にはわかりません。
兄が野球部内で暴力を受けていたか、それも私にはわかりません。ただあの性格ですし、秀太のブルペンチャッチャーだったので、兄のことを良く思っていなかった人間は確かにいたでしょう。そして兄に対しての暴力行為もあったと思います。だけど、そのことがプールで水死した直接の原因ではないと思います。
あの日、兄を憎んでいる部員たちが彼を深夜のプールに呼び出しユニフォームを着たまま泳がせました。ユニファームを着たままですから当然上手く泳げる訳もなく、何人かの部員たちに小突かれながら兄は必死に泳いだそうです。途中、何度か溺れかけたりもしたそうです。その度に部員たちが兄を引っ張り上げ、小突いたり蹴っ飛ばしたりして兄を泳がせ続けさせました。凄惨と言えば凄惨な暴力です。
そんなことが一時間以上続いたときに秀太が現れました。神山が秀太に連絡したのです。神山は「その遊びに飽きたから」秀太に連絡したそうです。秀太が現れてその「遊び」は終わりました。兄はずぶ濡れのユニフォームを着たまま、プールサイドに大の字に寝転び「ゼイゼイ」と荒い息をついていました。そしてカッと目を見開いて夜空の半月を見つめていました。他の部員たちは神山も含めてその時はもう帰っていました。
秀太は「体冷やすなよ」と声をかけると、兄は大の字になったまま「ああ」と答えたそうです。しばらくすると兄は呼吸が落ち着いてきて自分から起き上がりました。それから「もう大丈夫だから」と言って自分のバッグを持ってきて着替え始めました。それを見届けて秀太は帰りました。
翌朝、秀太はいつもより早く登校しました。何となく胸騒ぎがしたと言っていました。(そういったところは斉藤君、あなたとよく似ていますね)そして大西健一君が言ったとおり、赤木先生に呼び止められて、兄の笑っている水死体を見たわけです・・・・・・。
赤木先生は兄―田村の死に顔を見て震え上がったのですが、秀太はまったく動揺しなかった・・・。もしかすると兄の破綻を予測していたのかもしれないし、兄自体に関心がなかったかもしれません。
だけど十七歳の高校生が同じ野球部員の不可解な死にまったく心を動かされなかったということは普通じゃありません。秀太は精神のバランスというか、心のある種の感情が欠落しているのか もしれません。
だからといって彼が冷酷な人間かといえば、そうでもないのです。秀太は従兄弟の健一君のことを本当に心配していました。もっとも彼なりの心配の仕方で、私には理解しかねることもあったのは事実ですが。
渡辺さん、あなたを階段の踊り場から突き落としたのは、おそらく神山です。大西健一君にそのことを指図したのは秀太ですが、健一君の肘を押してあなたを突き落としたのは実質、神山だと思います。
神山はあの巨体の中に物凄いエネルギーが渦巻いていて、それを上手くコントロールできないと秀太が言っていました。ときどきその蓄積されたエネルギーを解放しなければ大変なことになると秀太は言うのですが、神山のパワーを受けた者はたまったものではありません。ただ私に彼らの暴走を止める力はありません。
神山が野球以外に何を考えているのか、私にはわかりません。ただ秀太だけは彼の考えていることがわかるようです。二人はそれぞれの持っているある種の力が(才能と呼ぶのでしょうか?)異常に突出していて、それが彼らを結びつけているようです。仲が良いというよりも、同じ種類の人間だと秀太は言っていました。
秀太は斉藤君も自分達と同じ種類の人間だと言っていました。そのことについては、私もわかるような気がします。
渡辺さん・・・・・・
大西健一くんが憎しみのためあなたを結果的に階段から突き落としたと思っていたら、それは間違いです。 健一君はあなたを憎んでいたのではなく、あなたのその自由奔放さに憧れていました。ただ彼はあまりに繊細すぎたので、そのことを上手く表現できなかった。秀太曰く「健一は超高性能の受信機で、特に人間のネガティブな感情、思考に反応してしまう」とのことでした。
だから秀太はそんな健一君のために、この高校を勧めたそうです。表向きの理由としては従兄弟の自分が在籍しているから健一君が安心するということですが、本当の理由は健一君がネガティブな感情に耐え、それを利用することができるようになるためだということです。渡辺さんを突き落とそうとさせたのも、健一君を強くさせるた めだと言っていました。もっとも彼が本当にそう思っているか 私にはわかりません。
渡辺さん、
私が秀太の指示であなたに近づいたのかと問われましたね。その答えはYESです。私は秀太の言うことに逆らうことはできないのです。(例えば登校日に私が渡辺さんの爆弾発言を知らない振りをして高橋くんの騒ぎを引き起こしたこと。あれは秀太に言われたことです。『赤木に渡辺さんの爆弾発言を質問したら面白いことが起こるぞ』と彼は言っていました・・・・・・)けれども私は渡辺さん達と一緒にいることはとても心が安らぎました。斉藤君、そして汐崎さんには私の言っている意味が理解できると思います。ただ今となっては私の言っていることが、どれほどあなたたちに信じてもらえるか・・・・・・、そう思うと悲しい気持ちになります。
斉藤君
今、私たちが生きている時代も残酷です。いつの時も人を死に至らしめる暴力が渦巻いている。そんな中、一人ひとりが胸に痛みを抱え血の涙を流しながら一日をなんとか生き延びようとしている。
最後に一言。
私は斉藤君たちに巡り会えて、ある意味救われました。
ありがとう。
そして、さようなら。
石井圭』
僕は石井圭のメールを読み終えると、サイトーのスマートフォンを小藪に手渡した。物欲しそうな顔をしていた小藪は小さな目を輝かせて、貪るように石井圭のメールを読み始めていた。
僕は左隣の空いている麻衣の椅子に後ろ向きに座った。片ひじをついて開け放たれた窓から空を見ていた汐崎の瞳が、僕の方へゆっくりと移動した。
(また、そんな顔してる・・・・・・)
汐崎の心配そうな顔を見るのが僕は嬉しかった。
「石井はもう学校には来ないかもしれない」
そう言ってしまった後、驚いた自分がいた。だが僕の目の前の少女は何の変化も示さなかった。
「そう」
彼女は呟いた。そしてまた九月の空に視線を移した。
「汐崎さんもこれ見る?」
小藪はサイトーのスマートフォンを汐崎の机の上に置いた。それから僕の椅子に座ると興奮気味に喋り始めた。
「ねえねえ、田村って人は結局自殺だったってことでしょ。すごい! 謎が解けた!」
小藪は勝手に興奮していた。こいつは他人の知っていないことを自分が知るとやたら嬉しがる。僕はそんな彼を醒めた目で見ていたが、何か心に引っかかるものがあった。
「でもさ、大西健一が何故死んだのか、あのメールじゃあ分からないよね」
(小藪にしては珍しく鋭いことを言っている)―僕はぼんやりとそんなことを思っていた。
「ゴトッ」と後ろから小さな物音がした。振り返ると汐崎の机の上にサイトーのスマートファンがあった。そして汐崎は頭を両手で抱えながら、小さくブルブルと震えていた。
僕は慌てて彼女の傍に移動し顔を覗き込んだ。汐崎の顔色は真っ青で呼吸をするのも辛そうだった。
「保健室に行く?」
彼女は小さく顔を振った。
「大丈夫?」汐崎が大丈夫でないのはわかっているけど、僕はそんなことしか言えなかった。
「う、え」
彼女は絞り出すような声でそれだけ言った。
いくら鈍い僕でも汐崎がこの場所から離れて屋上に行きたいということは理解できた。僕は彼女に肩を貸しながら、ゆっくりと階段を上って行った。灰色の階段は洞窟の中のように見え、そしてやたら長く感じられた。
屋上に着き、いつものベンチに腰を下ろすと汐崎は「フーッ」と大きく息を吐きだした。屋上を舞っている風は秋の爽やかさを含んでいた。その風は彼女の細い前髪を何度も揺らせていた。髪が小さく揺れる度に彼女の頬の色は赤みを増していった。
白く薄い雲が空の八割くらいを覆っていた。ぼんやりとした陽光が時々僕らの上を降り注いでいた。その光は既に暑さを感じさせるものではなかった。
僕は汐崎の隣に座って彼女の様子を見守っているだけだった。彼女はいつの間にか僕の左肩に頭を預けて、目を閉じて規則正しく呼吸をしている。僕は昼休みが続いているのか、午後の授業が始まってしまったのか、わからなくなっていた。本音を言えば、そんなことはどうでもいいことだった。
「変な空」
汐崎は眩しそうに薄く瞳を開けて呟いた。
僕は空を見上げた。
灰色がかった白い雲が薄く広がってドームの天井のようだった。地平線の彼方だけが青い空を覗かせている。
「地上が蓋をされているみたいだ」僕はそんなことを言ってみた。
「中島カッコつけてる」汐崎はずっと僕の左肩にもたれかかっている。
「カッコつけたい時もある」
「うん・・・・・・」
僕はその時、この世界に存在しているのは僕ら二人だけのような気がした。
「中島」
「うん」僕の返事は上ずっていた。
「空が・・・・・・この空が落ちてきたら、あたしと死んでくれる?」
「ああ、一緒に死ぬ」
僕は何の迷いもなく答えてしまった。
僕に寄りかかっている十六歳の女の子はあまりにも傷つき過ぎていた。僕は彼女の痛みを理解することもできずにいた。そして僕の生死なんて、彼女を失うことに比べたらあまりにも小さなことだった。
「バカ、カッコつけるな」
汐崎の左の拳が僕の薄い胸を叩いた。
「嘘つき」
彼女はそう言いながら、力ない拳で僕の胸を叩いた。それから僕の目をじっと見つめた。そして急に僕の唇は汐崎の冷たい唇に塞がれた。
僕はその時、本当に空が落ちてきて、この世界が終わったらいいと望んでいた。
秋はゆっくりと深まっていった。空の青は薄くなり、空気は切なさと冷ややかさを増していった。秋の花々が気づけば咲いていて、銀杏の葉は徐々に燃えるような黄金色に変わっていった。街ゆく人々は薄手のコートを着て時々辺りを注意深く見つめたりしている。そこに何か大切なものを忘れてはいないかと・・・・・・。
そして時の流れは後戻りすることはなかった。




