汐崎の涙
その日の夜、僕はバイトを終え店の駐車場から自分の自転車を引っ張り出そうとしていた。
「中島」
その声に僕は反射的に振り向いた。街灯を背に汐崎が俯き加減に立っていた。紺のストレートジーンズに同じ色のTシャツ、そしてグレーのヨットパーカという相変わらずのファッションだ。
「バイト、終わった?」
「あっ、うん」
彼女にしては当たり前のことを訊いてきたので、僕は少し驚いた。
「汐崎もバイトだった?」
汐崎は無言で首を小さく縦に振った。
「バイト、今日で終わった」
「エッ、今日までだったの?」
彼女は僕の視線を逸らし、言いにくそうに口を開いた。
「辞めてきた」
「あっ、そうか・・・・・・」
「結構、疲れた」
彼女はそう言うと、履いているスポーツシューズで駐車場のアスファルトを軽く蹴った。ザッザッという濁った音が小さく響いた。
「人と話すの、きつい」
汐崎はボソッと呟くように言った。
「うん」
「中島は偉いな」
その声は自嘲気味に響いた。
「えっ、どうして?」
「バイト続けてる」
「家にいたくないんだ。家族バラバラだし、雰囲気悪いし」
実際僕は家にいるよりバイト先で体を動かしている方が、精神的に楽だった。
僕の言葉に汐崎は何も言わなかった。彼女はまた顔を下に向け、シューズで地面を擦り始めた。
「汐崎、送るよ」
「うん」
彼女のその返事を聞いて、僕は自分の鈍感さを痛感した。
「うしろ」
「うん?」
「自転車の・・・・・・」
汐崎は僕の自転車の荷台を指差した。
僕はサドルに跨ると、汐崎は細い腰を荷台に下ろした。彼女は横すわりだったので、両腕をしっかりと僕の胴体に巻きつけた。
まだ夏の熱気を含んでいる夜の空気の中、僕は自転車を走らせた。僕の頼りない背中に頭をつけている汐崎は、安堵したように深い息を吐いた。彼女の住んでいるマンションに着くまで、僕たちは一言も話さなかった。
僕は以前来たときと同じように、キッチンのテーブルセットの椅子に座っていた。エアコンから出る冷気の音が前よりも大きく聞こえる。汐崎は僕のためにアイスコーヒーを準備していた。
汐崎の後姿を眺めながら、僕は先ほどの彼女の言葉を思い出していた。
僕らは玄関フロアでエレベーターを待っていた。巨大な建物には多くの住民がいるはずだが、そのフロアには僕たち二人だけしかいなかった。エレベーターは音もなく一階に下りてきた。分厚く黒いドアは僅かな音とともに滑らかに開いた。汐崎がエレベーターの内側にあるパネルのボタンを押すと、一呼吸おいてドアがゆっくりと閉まった。それから彼女は壁を背にして僕をじっと見た。そして言った。
「中島・・・・・・」
「ん?」
「中島はあたしにひどいことしないだろ?」
「えっ」
僕は汐崎が何を言っているのかわからなかった。
「あたしを傷つけない?」
そのとき僕は汐崎に左手首を強く掴まれていることに気づいた。そして彼女の悲しい問いに、僕は反射的に首を縦に振って答えるだけだった。
(さっきの汐崎の言葉はいったいどういうことだろう? 僕が何か汐崎を傷つけることを言ったのか?)僕の目の前にアイスコーヒーの入ったグラスが置かれても、そのことを考え続けていた。
「どうした?」
汐崎は缶ビールをテーブルに置きながら訊いてきた。
「いや、べっ、べつに」
僕は曖昧に答えながらアイスコーヒーを飲んだ。彼女の入れてくれたアイスコーヒーはホットコーヒーと同じように美味しかった。
「プシュ!」というプルタブを引っ張る音が聞こえた。
汐崎は少し尖った顎を上に向けビールを大量に飲み込んだ。「フー」という深いため息をつくと、またビールをあおった。あっという間に缶ビールを飲み干すと、冷蔵庫から缶ビールを一個取り出した。それをテーブルに置きプルタブを引っ張った。彼女はその缶ビールも短い時間で飲み干してしまった。
「汐崎」
「ん?」不機嫌そうに返事をした汐崎の目の周りは、薄っすらと赤くなっていた。
「どうしたの?」
「何が?」
「何かあったの?」
「別に」
彼女はぶっきらぼうにそう答えると、また冷蔵庫から缶ビールを取り出した。そしてその缶ビールも三十秒も経たないうちに飲み干した。
キッチンにはエアコンの頼りない音と冷蔵庫のくぐもった音しか聞こえなかった。汐崎は相変わらずビールを飲み続けていて、僕のグラスは氷しか残っていなかった。
「中島」
「えっ」
僕は突然汐崎が口を開いたので、かなり驚いた。
「今日、大西が言った・・・・・・」
「うん?」
「斉藤と・・・・・・」
「あっ、ああ.大西が麻衣の言ったことに反論して、麻衣がキレた話のことだろ」
「うん・・・・・・」
「嫌な話だよな。死んだ顔が笑っていたって」
「ああ・・・・・・」
僕の目の前のクラスメートは深い深いため息をついた。十六歳の女の子がつくため息にしては疲れすぎていた。そして彼女は飲み干した缶ビールを力のない目で眺めて黙り込んだ。
僕はいつものように汐崎が何か言葉を発するのを待っていた。だがしばらくして僕はある異変に気がついた。汐崎の灰色の瞳から涙が溢れ出ていた。その涙は真っ直ぐに彼女の顎までとどき、それからテーブルに落下した。
僕はびっくりして、慌てて彼女の傍に行った。
「汐崎、どうしたの?」
僕の声に汐崎はビクッと肩を震わせた。そして彼女をゆっくりと僕を見た。
「えっ、何?」
汐崎は不思議そうな表情を僕に向けた。
「汐崎、泣いてる」
僕の指摘に、汐崎は細い人差し指を右目のふちに当てた。そして涙で濡れた指先をじっと見た。
「中島・・・・・・」
彼女はいつもより更に低い声で言った。その声は小さく震えていた。
「ん?」
僕は緊張しながら答えた。
「あたし、前、人刺したって言っただろ」
「あっ、ああ」
僕はそのとき自分の喉がひどく乾いていることに気づいた。
「そのとき、あたしが刺した奴、あたしに言った。『お前、笑ってる』って。腹から血を流しながら・・・・・・」
彼女はそこまで消え入りそうな声で言うと僕を見た。彼女の瞳から、透明の涙が溢れ出ては流れ、頬から一粒一粒滴り落ちていった。
僕は何も言えず、ただ汐崎の美しい瞳を見つめているだけだった。
「助けて・・・・・・」
彼女の瞳はあまりにも悲しく、彼女の声はあまりにも切なかった。
僕はただ両手で彼女の肩を掴むことしかできなかった。そのうち彼女の体が小刻みに震えてきて、その振動が僕の指先に伝わってきた。
「さむ・・・・・・い・・・・・・」
震える声でそう言いながら、汐崎はまだ涙を流し続けていた。
気がつけば僕らはしっかりと抱き合っていた。だけど彼女の体の震えはなかなか収まらなかった。




