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僕らの時代  作者: 西野了
10/21

麻衣の母の憂鬱

 八月初旬、僕らの高校の野球部は、全国高校野球選手権大会の一回戦で敗退した。 

 その夜、僕はアルバイト帰りの汐崎を彼女のマンションまで送っていた。

 真夏の生ぬるい空気の中、僕は自転車を押しながら時々汐崎の横顔を見ながら歩いていた。

 僕の心は重かった。高校の野球部が一回戦であっけなく敗れたため、麻衣に対する風当たりが更に強まることが予想されたからだ。

「どうした?」

 少し心配そうに汐崎が声をかけてきた。

「いや、あーっ、うん」

「渡辺のこと?」

「ああっ、うん。今日、野球部負けちまったし」

 汐崎は僕の言ったことには何も答えず夏の夜空を見上げた。汚れた大気と不夜城のような都市の人工光のため、星は数えるくらいしか見えない。僕らを包む空気は粘りつくようで、僕の白いTシャツは背中の部分がじっとりと汗で湿っていた。

「連絡、とれた?」

「いや、とれていない。一週間くらい前、みんなでファミレスに行っただろ。あいつがオムライスとかサラダをガバガバ食べた夜。あれからまた連絡がとれない」

「そう・・・・・・」

 汐崎がそう言ったあと話は途切れてしまった。

 僕らはたびたび黙り込んでしまう。僕は汐崎に対していろんな話をしたいと思うのだけど、ときどき彼女は臆病な貝が貝殻に閉じこもってしまうように沈黙する。

 僕は当初、汐崎のそんな拒否的な雰囲気に戸惑っていた。しかし彼女と二人で歩く回数が増えると、徐々にその空気にも慣れていった。汐崎はそのとき、怒っているわけでも僕を嫌っているわけでもない。ただ彼女にとって、そんな時間がどうしても必要らしい。その理由は僕にはよくわからないけど。

 汐崎が自分の殻に閉じこもっているとき、僕は黙っていることにしている。

「・・・・・・中島」沈黙はしばらくすると彼女の言葉で破られる。

「うん?」

「バイト、忙しい?」

「忙しいときもあれば、忙しくないときもあるかなあ」

「そうか・・・・・・」

 僕は自分の答えがあまりにも陳腐で無意味だと思った。だからその言葉をもみ消すように、慌てて汐崎に問いかけた。

「汐崎はバイト、慣れたの?」

 彼女は僕の言葉にすぐには答えず、ぼんやりと前を見ながらゆっくりと歩いている。

「わたし、人嫌い・・・・・・だから」

「エッ?」

 僕は少し驚いた。汐崎はまたしばらく口を開かなかった。

「仮面つけて、やっている」

「うん」

 僕は彼女の言ったことが、何となくわかる気がした。

「俺も仮面被って、バイトしているよ」

「そう」

 僕の隣を歩いているクラスメートは、前髪を右手でかき上げながら少しだけ微笑んだ。

「私、自分のことだけで・・・・・・」

 汐崎はそこまで言うと大きく息をついた。それから数歩ほど歩いて、少し困った表情を浮かべた。

「精一杯」

「うん」

「渡辺のやってること」

「えっ?」

 そのとき彼女は下唇を噛み締めて僕をチラッと横目で見た。そして俯いて呟いた。

「なんとなくわかる」

 僕は汐崎の美しい顔を見た。そして彼女の言葉を素直に受け入れることができた。

「あいつは昔からよくいなくなる。家出癖があるっていうか。だからあんまり心配しなくてもいいよ」

「・・・・・・」

「またいつものように脳天気でヘラヘラと笑いながらやってくるさ」

「うん」

 汐崎はあまり納得していない表情を浮かべ少しだけ頷いた。


 翌日の昼過ぎ、僕はリビングで深緑色のソファに寝転び、ぼんやりとテレビを見ていた。このソファは、表面のヒヤッとした感触とクッションの具合が心地よく僕のお気に入りだ。

 テレビでは高校野球が放映され、僕でもその校名を知っている強豪校が一方的にリードしていた。アナウンサーも解説者も試合展開には関係のない精神論をぶっていた。たとえば「まだ諦めていませんねえ」とか「今のストレートはよく走っていましたよ」とか言って敗色濃厚なチームを誉めたたえている。

 僕は一心不乱にプレーをしている高校球児を眺めながら、プールで溺死した二年生野球部員―田村のことを思い浮かべていた。グランドで泥まみれになりながら必死でボールを追いかける姿が、頭の中に現れてきた。しかしその野球部員の顔はぼやけている。(実際僕は彼の顔を知らない)そして真夜中のプールでゆっくりと沈んでいくユニフォーム姿・・・・・・。

「ピンポーン!」

 インターホンの音がやけに大きく聞こえ、僕の脳裏に浮かんだイメージが一瞬にして消え去った。インターホンの音はどうして人の神経を逆なでするのだろうと思いながら、壁に設置してあるモニターを覗いてみた。そこには麻衣の母の小柄な姿が映っていた。

 僕は急いで玄関に行き黒い鉄製のドアを開けた。

 眩しい八月の光の中、白いブラウスと紺色のスカートを身に着けた麻衣の母が立っていた。その訪問者は左手に黒い日傘を持ち、右手に小さなビニール製の箱を持っていた。右肩にはアイボリーのショルダーバッグが引っ掛かっている。

「孝一君、お休みのところゴメンネ。ちょっとだけ時間もらえないかな? これお土産のアイス」

 麻衣の母は右手をひょいと上げて、娘によく似た笑顔を見せた。

「あっ、どうもスミマセン。えっと、じゃあこっちへ」

 僕はアイスクリームとドライアイスの入った箱を受け取り、彼女をリビングルームに案内した。そのあと急いでキッチンに行き冷蔵庫の冷凍室にアイスクリームを入れ、冷蔵庫から麦茶の入った円筒のガラス容器を取り出した。それから薄茶色の葉の模様があるグラスを二個用意して、それらに冷えた麦茶を注いだ。そして二個のグラスをお盆に載せリビングルームに運んだ。

 麻衣の母は僕が先ほどまで座っていたソファに腰かけ、感情のない目でテレビの画面を見ていた。

 僕は彼女の前のテーブルに水色の丸いコースターを置き、その上にグラスを載せた。それからテレビのリモコンの電源ボタンを押すと、甲子園球場特有のざわざわとした観客の声が消失した。

「うちの娘はどうして、あんなことをするのかなあ」

 麻衣の母は映像が消えたテレビの画面を見ながら呟いた。

「家には帰っていませんか?」

 僕はL字型になっているソファの端―彼女から右斜め四十五度の位置に腰を下ろしながら訊いた。

「たまに帰っているみたい。洗濯物が洗濯機に放り込んであるし」

 彼女はそう答えると、厚めの唇をグラスにつけた。冷えた麦茶を一口飲むと、麻衣の母はやんわりと僕を見た。僕は何かに急きたてられるように口を開いた。

「ちょっと前、麻衣に会いましたよ」

「えっ、いつ?」

「えーっと、十日くらい前です。バイト先で友だちとダベッていたら、急にやって来て」

「うちの娘、どんな感じだった?」

「いつもとそんなに変わらない感じでしたよ」僕はとりあえずそう答えておいた。

「ふーん」麻衣の母は少し鼻にかかったような声を出し、視線をテーブルのグラスに落とした。そしてしばらく何も言わず同じ姿勢を保ったまま、何事か深く考えているようだった。

 手持ち無沙汰な僕は、冷蔵庫から先ほど彼女からもらったアイスクリームを取り出した。バニラとチョコがミックスされたカップを選び、ソファに座って食べ始めた。

 麻衣の母は僕の様子をチラッと横目で見て口を開いた。

「ねえ孝一君、うちの子が言ったことって本当かな?」

 僕は最初、彼女の言っている意味がわからなかった。

「テレビのインタビューで言ったことですか」

「うん、野球部のいじめのこと」

「それはわからないけど、あいつ、嘘つくの下手だし」

「そうだねぇ」

 僕は会話の間もアイスクリームを食べ続けた。それを食べ終えた後、自分のグラスに麦茶を入れ一息でそれを飲み干した。

「おばさん、麻衣の言ったことで何か困ったことがありましたか?」

「ううん、うちの高校は野球部弱いし、私にはあまり関係ないから」

 僕は彼女の答えをあまり信じなかった。

「だけど主人の方がねえ」

「えっ、おじさんは市役所でしょ」

「うちの人って頭固いでしょ。それに役所って世間体がすごく幅を利かせているのよ。だから波風を立てる人間は嫌われるの。たとえそれが本人じゃなくてその家族であっても」

「確かにうちの野球部は人気がありますからね」

「そうねぇ。高校生の部活動のことなのにね」

 麻衣の母はそこまで言うと大きなため息をついた。そのため息のつき方は麻衣そっくりだった。

 僕は麻衣の幼馴染なので彼女の両親のことはよく知っていた。彼女の父は地方公務員で母は高校教師だけど、僕から見ればそんなに頭の固い人たちではない。二人は娘のことを一生懸命考えているし、何とか理解しようと努力している。仮面夫婦の僕の両親より、百倍も千倍もまともな人たちだ。だけど麻衣と親との関係は上手くいっていない。麻衣の言い分としては「アノ人たちは心配の仕方が全然ワカッテナイ!」ということだった。

「孝一君、うちの娘、新学期になって学校にちゃんと行くかな?」

「さあ、それはなんとも」

 小学校、中学校と不登校気味だった僕に、麻衣の母はストレートな質問をする。

「そうだねぇ。新学期になってみないとわからないわよねぇ」

 彼女の言葉には自嘲的な響きが含まれていた。

「でも麻衣は学校行くことをそんなに嫌がっていないと思いますよ。クラスにはあいつのことを分かろうとする奴もいるし」

「ふーん、そうなの。孝一君以外にもそんな友達がいるんだ」

「いやっ、僕はつきあいが長いだけで、あいつのこと何もわかっていないし」

「そうかな?」

 麻衣の母は小さく笑うと、目じりに数本の小じわが現れた。

 僕は麻衣がいつごろから家に帰りたがらくなったのか、思い出そうとした。しかしそれは明確に時期を断定できることではなかった。ただ僕が学校に行かずよく家にこもっていた頃―おそらく中学二年生のときだろうけど、麻衣が度々僕の家にやってきた記憶はある。

 そのころ麻衣は僕の都合などお構いなしに部屋に入ってきて、グダグダと家族の悪口を言っていた。「家にいるとチッソクしそうになる」とか「アノ人たちはアタシをダメにするの!」といったことを僕は閉口するくらい聞かされた。そして僕のベッドに寝転んで、僕の本棚から漫画を勝手に取り出しては読んでいた。

当時、(こいつ、何のために僕の家にやって来るんだ)と不思議に思ったものだ。おそらくその頃から麻衣は家にいたくなかったのだろう。そして実際、彼女は渡辺家の家庭という場所から離れていったのだ。

「孝一君は田村って子、知っていた?」

「麻衣が言った、例の野球部員のことですか?」

「君たちと同じ中学だったのでしょ」

「うーん、彼は一学年上だし、僕はあまり学校にいってなかったのでほとんど知らないし」

「あ、そうか。そうだったね」

 麻衣の母は結構肝心なことを忘れる。

「ねえ、麻衣の言ったことで何か変化があった?」

「それって高校の中でってことですか?」

「うん、そう」

「登校日には担任が麻衣の発言に釘を刺していましたけれど、それ以外はとくに・・・・・・」僕は高橋の件は話さなかった。

「そうかぁ、ふーん」

 彼女は口をすぼめて、何だか納得のいかない表情をつくった。

「どうかしましたか?」

「子どもがいじめられて死んだって言われたら、親としたら黙ってはいられないと思うけど。孝一君、そう思わない?」

「あっ、そうですねぇ」

「その田村って子の親は何の行動も起こしていないのかな?」

(確かにそう言われてみればそうだ)と僕はそのとき初めてそう思った。

「今は夏休みだから、学校に関してはあまり情報がないっていうか・・・・・・。でも友だちからも何も聞いてないし」

「じゃあまだ、何もないのかな?」

「多分」僕はそう答えると、グラスに麦茶を入れて一口飲んだ。アイスクリームを食べたためなのか、口の中が無性に乾いていた。

「麻衣、面倒なことにならなきゃいいけど」

 麻衣の母は表情のない目をして、そう呟いた。

 僕は言うべき言葉がなかったので、ただ小さく頷いた。

「孝一君、(つかさ)も大学の方へ戻ったって、もし麻衣に会ったら伝えてくれない?」

「あっ、ハイ」

 麻衣は兄の司を心底嫌っている。司のことを名前で呼んだことはなく、いつも「クソヤロー」とか「カス」とか言っている。もっとも麻衣が兄を話題にすることはほとんどないのだけれど。

「じゃあ、そろそろ帰ろうかな。孝一君、いつもゴメンネ」

「いえ」

「麻衣もまだ十六にもなってないのだから、もう少し家にいてくれたらいいのになあ」

 麻衣の母は少し目を細めて眩しそうな表情を浮かべ、ソファからゆっくりと立ち上がった。

 彼女は僕に向かって、右手を小さく振りながら家から出て行った。

 僕はリビングルームに戻ると、それまでそこにあった何かがなくなったような気がした。


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