「汐崎、傘貸そうか」
「テメー、すかしてんじゃねえぞ!」
いかにもツッパリらしいセリフを吐きながら、丸尾は渾身の右ストレートをサイトーの顔面に放った。
(サイトーの伊達眼鏡が壊れる)
僕はサイトーのケガよりも、彼の黒ぶち眼鏡のほうを心配していた。
「ガゴッ」という拳が顔面に当る音の替わりに「パンッ!」という軽やかな音が響くと同時に、太った丸尾の身体が宙に舞った。100キロを超える丸尾の巨体がフワッと浮いたかと思うと、彼の身体は急に重力を思い出したかのように教室の床に落下した。
「ドンッ!」という落下音とともに「うげっ!」という漫画的な悲鳴を聞き、僕は思わず吹き出してしまった。
「カオルゥ! カッコイイ!」
僕の隣でことの成り行きを見守っていた渡辺麻衣が、両手を固く握り締めつぶらな瞳をウルウルと潤ませている。彼女の熱い視線をたどっていくと、両足を開き腰を少し落として両手を交差しているサイトーの美しい姿があった。
(柔道? いや違う。何だろ。でもサイトーの奴なんか武道をやってる。あいつ、まったく正体不明だ)
仰向けの格好で腰を押さえてウンウン唸っている丸尾の姿は、ひっくり返ったヒキガエルのように滑稽だ。彼の横にはいつも丁稚のように付き添っている沖田と宮本が、心配そうに覗きこんでいる。それから二人は「サイトー、テメーやりやがったな!」「ただですむと思うなよ!」と不良学生お決まりのセリフを発しながら、丸尾を抱えてすごすごと教室を出て行った。
「マルブーの奴、いつもエラソーな口きいてるから、いい気味ジャン。ねっ、コーイチ」
黒い眉毛を八の字にして嬉しそうに迫ってきている麻衣の迫力に、僕は圧倒されながら、かろうじて「うん」と答えた。
「何よ、そのイーカゲンな返事は!」
彼女は僕の気の抜けた言い方にむっときたのか、不満そうに柔らかな頬を膨らませた。麻衣の丸い顔がさらに丸くなったので、僕は再び吹き出しそうになった。けれども彼女の目の前でそんなことをすれば、さらにひどい追い討ちをかけられることは明白だ。だから僕は必死でこみ上げてくる笑いをなんとか我慢した。
周囲のそんなざわつきを無視するかのように、サイトーは僕の後ろの席に座り鞄から分厚い本を取り出した。騒動の当事者は何事もなかったかのように、瞬時に読書に集中していた。
(確かに丸尾が言うように、サイトーはカッコつけてる)
サイトーのクールな態度と整った容貌、そして彼が女子生徒にやたら人気があるということで、丸尾は喧嘩をふっかけてきたのだ。だけど結果としてサイトーの株はますます上がり、丸尾は見事にその引き立て役を演じたわけだ。
僕はそんなことを思いながら周りを見渡した。クラスのほかの奴らは先ほどの騒動のことを話したり、チラッチラッとサイトーの方を盗み見したりしていた。だけど窓際の一番後ろの席にいる汐崎涼子だけは、いつものように窓から見える初夏の空をつまらなそうに眺めていた。
「お弁当温めますか?」
コンビニのマニュアルどおりに訊いても、その客はいつものように「いい」とだけ無愛想に答えた。
汐崎はほぼ毎日、僕のアルバイト先のコンビニエンスストアに夕食用の弁当を買いに来る。商品をあれこれ選ぶ素振りも見せず、事務的に弁当を買う。同じ高校のクラスで席が近くなのに、彼女は僕のことをまるで知らない人間であるかのように対応していた。その美しい顔に表情はほとんど存在しない。茶色のTシャツにストレートジーンズ、肩まである真っ直ぐな黒髪、薄い眉に切れ長の瞳、少し高めの頬骨、細くて高い鼻に真っ赤な唇・・・・・・。コンビニの男性客は彼女が通り過ぎると必ず振り返る。僕は冷めたくて高慢な美人というモデルが実在することを彼女と出会って初めて知った。そしてそのモデルが笑ったことを今まで一度も見たことはなかった。
「汐崎、丸尾が投げられたのを見た?」
僕は日替わり弁当をナイロン袋に入れながら、声をひそめてレジの前に立っている彼女に訊いた。
「・・・・・・」
「サイトーの奴、凄いよな」
「・・・・・・」
汐崎は黙って黒い財布から銀色に光る500円硬貨を一枚出した。
「500円いただきます。ハイ、5円のお返しです」
彼女は無言で弁当の入ったナイロン袋と黄土色のコインを一枚受け取り、僕の目を一瞬見て出て行った。僕は彼女が通り過ぎた自動ドアを数秒間見つめていた。そして次のお客に応対しながらぼんやりと考える。
(いつからだろう? 汐崎と目を合わすようなったのは・・・・・・)
汐崎がコンビニに初めて姿を現してから、しばらくはまったく僕の目を見なかった。いや顔すらも見ていなかった。
六月の冷たい雨の降る夜にその出来事は起こった。あの日初めて汐崎は僕の目を見たのだ。間違いなく! もちろん一瞬だけだ。
汐崎が店に入ってきたとき、彼女のフード付のジャケットは濡れていた。灰色のジャケットのフードに顔は半分隠れていた。
「汐崎、傘貸そうか?」
そう言ったあとフードの作った影から、彼女の灰色がかった瞳が見えた。その瞬間グルッと僕の世界が転がった。そのときだけ僕と世界はひとつになった。いつもよそよそしく、欺瞞に満ちていて僕から少しだけ隔てている(そして決定的に隔てている)、この現実世界と僕は初めてひとつになった。僕はそのとき激しく混乱した。
「早くしてくれないか」
汐崎の後ろに並んでいる男の客の声で、僕は自分が何もせずに突っ立ったままだったことに気づいた。その日から彼女はほんの一瞬だけ僕と目を合わすようになった。
「お前らぁ、わかってるだろうな!」
帰りのホームルームで担任の赤木が人相の悪い顔をさらに悪くして怒鳴った。その顔は逆上したブルドックを連想させた。
「この高校はスポーツ系の部活動で成り立っている。野球部は今年も甲子園を狙える。だからお前たちは、野球部の部員に変なちょっかいを出すなよ。わかったか!」
「ちぇ」
「何言ってんだよ、」
「野球バカにキョーミねえってばよ!」
丸尾や宮本、沖田たちが不満そうに言った。教室はざわざわと挑発的にざわめいている。
「静かにしろ! このバカども!」
赤木はそう叫ぶと目の前の机を思いっきり平手で叩いた。「バーン!」という重い音が鳴り響き一瞬クラスは静かになった。クラスの誰もがその音と激怒した赤木の迫力に一瞬圧倒され、お互いに目配せしたり薄笑いを浮かべて俯いたりした。
「そんなに野球部って偉いのですか?」
教室の後ろの方から、正確に言えば僕の左斜め後ろからその声は低く響いた。クラス全員が、そして担任の赤木までがその声の主に視線を注いだ。彼らの視線の先には汐崎が片肘をついた手に顎を乗せ、真っ直ぐ担任の教師を見つめている。
僕は彼女から教室で「はい」「いいえ」「わかりません」以外の言葉を聞いたことがなかったのでびっくりした。いや、僕以外の人間もおそらくそうだろう。みんなも不思議そうに汐崎を見ていた。そう、誰とも話をしない美少女、それが汐崎涼子だったのだ。
「偉いというか、あーっとそうではなくて今ここで、野球部がらみの問題を起こすなっていうことだ」
意表をつかれた担任教師は軽く咳払いをしながら弁明した。
「じゃあ、野球部以外の部だったら問題起こしてイインダァ!」
麻衣が嬉しそうに叫んだ。
「うるさい! 九九もできない奴が偉そうなこと言うな!」顔を真っ赤にした赤木がわめいた。
「ギャハハハー!」という軽薄な笑い声とドーッというどよめきが起こった。
「なによ! 九九なんかできなくっても、金は稼げるし生きていけるわよ」
「おう、渡辺はウリやってるもんなあ! 乳でかいし、すぐ股は開くしよ」ピンクに染めた髪を逆立てている高橋新がヘラヘラと笑っている。
「バァーカァ! このクサレチンポ!」麻衣は高橋に向かって右手中指を突き立て(ファックユーだ!)、ピンクの舌を限界まで下に伸ばした。
「黙れ、黙れ、黙れーっ、このゴミども! お前らみたいなバカが通える学校はここしかないだろ! バカでも少しぐらいは静かにしろ! うちの野球部は野球のエリートばかりだ。お前たちとは全然住んでいる場所が違う。バカはバカ同士で他人の迷惑にならないように遊んでいろ!」
興奮した赤木はまたもや机をバーンと手のひらで打ち鳴らし、それからダンダンダンと靴音を響かせながら教室から出て行った。
「ケッ! バカはどっちだ」
高橋が細い目をさらに細くして、前の椅子の背もたれを右足で思い切り蹴飛ばした。前の席に座っていた小柄な小藪純也が、そのショックで飛び上がった。その衝撃で彼の銀縁眼鏡が外れ落ちてしまった。視力が極端に低い小藪は「眼鏡、眼鏡、僕のめがねーっ」と床に這いつくばって探し始めた。
そんな様子を見て周囲の人間は「ゲラゲラ」「ギャハハハーッ」と嘲笑っている。
「何がエリートだよぅ。脳みそまで筋肉の野球バカが、よ!」
巨漢の丸尾も唾を床にぺっぺっと吐きながら叫んだ。
教室には不満と愚痴とあざけりと諦め、そして行き場のない怒りが充満している。
僕はそっと斜め後ろを見た。そこにはいつもと同じように、右ひじを机について少し尖った顎を右手に乗せ、つまらなそうに窓の外を見ている汐崎がいた。僕の左隣の席の麻衣も「フーン」と言いながら後ろを振り向いていた。そして僕の後ろに座っているサイトーもじーっと汐崎を凝視していた。
「何よ、みんなして何見てんの」
「喋った。リョーコがまた喋った!」麻衣はそう言うと、僕を見てサイトーを見て、そして再び汐崎を見て、ニィーッと笑った。
「ほほーっ」
サイトーも眼鏡の黒いフレームを上下に動かしながら、興味深そうに隣のクラスメートを見つめ続けている。こいつも結構失礼な奴だ。
「中島、こいつら、見るの止めさせろよ!」汐崎は僕を睨みながら言った。
「お、おうっ。サッ、サイトーも麻衣も人をジロジロ見るなよ。しっ、失礼だぞ」僕は息が詰まりそうになりながら、盲目的に彼女の指示に従った。
「あれえ、コーイチとリョーコ、何か変な感じィ」麻衣は学校の勉強がまったく苦手なくせに、こんなことだけは妙に勘がいい。
「ふむ」サイトーの同意した声を聞くと同時に汐崎は立ち上がり、スタスタと教室を出て行った。
その背に「リョーコォ、サイナラー」と麻衣の声が届いたが、汐崎はもちろん振り返ることはなかった。




