夏の記憶
歩が連れてこられたのは、八才の頃で。その年の最高気温を記録した夏の暑い日だった。
セミの声と、青い空。
アイスが溶けないように、走って帰ってきた私の前に、歩はやって来た。
何度か会ったことのある叔父さんに手をひかれた歩は、ずっとうつむいていたんだけど。
歩の目が、見たこともない色をしていたのを、ひどく憶えている。
新しい家は歩には慣れないみたいで。
お気に入りらしいカバンを膝に抱えて、部屋の隅で丸くなっているのをよく見かけた。
歩は、私にとって、よく知らない他人の弟。
いつのまにか歩の身長は私よりも大きくなってカバンはどこかに行ってしまった。
学校の廊下で見かける歩は、たくさんの人に囲まれていて、そして、いつも笑っていた。
お父さんにも、お母さんにも、ご近所の人にまで好かれて、成績も優秀でスポーツもできて、みんなの憧れ。
私の知らない歩。
「姉さん」
歩が私を呼ぶ。その声は低い。
いつも。いつも私といる時の歩は、そわそわして、足をゆすって、どこか怒っているようだった。
それなのに。
呼ぶ声はやさしい。
「今帰り?」
「そう」
「めずらしいよね、一緒になるの」
さりげなく私の荷物を持つ。
私はそれに気づかない振り。
「そうだっけ」
「そうだよ」
よく喋る歩。でも私を見ていない。
「今日の晩御飯何かな。カレーかな。知ってる? 渡辺の家って、カレーにりんご入れるんだって。りんごだよ? 果物なのにさ」
どうでもいい話。
その声は高い。
歩は私が嫌いだ。
私のことを憎んでさえいるのかもしれない。
それをいつ出そうか考えているだけで。
そして、時が来る。
「姉さん」
僕、家を出るんだ。
私の目を見て、その不思議な色をした目で私のことを見て、歩は言った。低い声のままで。
「そう」
静かに呟いた私の答えを笑顔で受け止めて、近くに置いてあったクッションを投げつけてくる。
速度を持ったクッションは、ゆっくりと、私の胸に当たった。
「いつも、姉さんは、いつもそうだ」
掴まれて、壁に押し付けられる。
「わかってるくせに」
雨の匂いがする。
薄暗い部屋の中で、私をぐしゃぐしゃにする歩は、ずっと泣いているようだった。
歩のことを誰よりもわかっていた。
好きでもない人を、近くにいるというだけで好きだと思い、そして憎むことでしか存在できなかった歩。
カバンを手放さなければ、大人になれなかった歩は、私を捨てなければ、大人になれなかったのだ。
誰が決めたわけではない。
ずっと前から、それこそうちに来る前から、歩は壊れていて、それを治すことは誰にもできなかった。
暑い夏の日にうちに来た歩は、夏が来る前に出て行った。
もうここには戻ってこない。
いつか、忘れる日を思って、私は涙を流す。