貴族名鑑別冊:結婚したい独身貴族ランキング一位
その小さな悲鳴が聞こえたとき、ローレンスが最初に考えたのは「声変わりもしていない子どもがここに?」ということだった。
貴族の邸宅のような建物一棟丸ごとすべて、いずれの部屋でも紳士たちが紫煙を燻らせ、政治経済から倫理道徳果ては猥談とありとあらゆる話題に興じる社交場である。厳格な女人禁制が保たれていて、連れ込み宿のように嬌声の上がる部屋はない。
ローレンスは小一時間ばかりビリヤードをプレイして、さっさと帰るところであった。
もともとこういった場は得意な質ではないのだが、顔を出さなければ「変わり者」として年配者やときには同輩からも難癖をつけられて面倒な思いをする。それがわかっているだけに、週に一度付き合い程度に足を向け、如才なくゲームで勝ち負け五分五分の結果を残してうるさ方に捕まる前に退散するのを習慣としているのだった。
厚い絨毯が敷き詰められた廊下を歩き、玄関ホールを目指して角を曲がったところで頭ひとつ小さな人影とすれ違った。
「きゃっ」
少年のような甲高い悲鳴を上げて、相手の体ががくんと沈み込んだ。
咄嗟に、ローレンスは腕を伸ばしていた。子ども? と訝しみながらほっそりとした体を抱きとめる。
軽い。
身なりはきちんとした紳士のそれで、長い金髪は首の後ろで一本にまとめられていた。
弾かれたようにぱっと顔を上げて、ローレンスを見つめてきた大きな瞳は深い青だった。
(子ども……)
視線がぶつかったところで、相手はローレンスを見上げたまま口を開く。
「あの、ありがとうござ……」
高く細い声は、近くの部屋でどっと空気を揺らがすほどに響いた男たちの笑い声にかき消されて、最後まで耳に届かなかった。
それでも、ローレンスは自分の唇の前に指を一本立ててそれ以上の言葉を制し、相手が体勢を立て直すのを見て素早く身を離した。
「気づかなかったことにするから、早く出たほうがいいです。見た目も危ういけど、声を聞かれたらすぐに変装を見破られますよ」
子どもというほど、幼い顔ではなかった。男だと言い張るには線が細すぎる。女性の出入りが禁止されている場に足を踏み込む資格の持ち主ではないようだった。
相手は唇を噛み締めてローレンスを見つめてから、未練のある様子で廊下を見回す。
再び、近くの部屋でどっと笑い声が沸き立ち、勢い良くドカンと雷鳴のような音を立ててすぐそばの部屋のドアが開いた。ぶつかる距離ではなかったが、ローレンスは反射的に小柄な人物を背後にかばうようにして前に出ていた。
足元の覚束ない、赤ら顔の紳士が廊下へと出て来る。
「おっと、これはこれは……銀の髪に水も滴る美青年ときたら、マクスウェル子爵だな。今日も玉突きだけでお帰りか? ポーカーは嗜まないんだったか。一度手合わせ願いたいものだと思っていたのだが」
ローレンスの顔をぶしつけなほどまじまじと見て、ひくっとしゃくりあげながら年配の紳士が声をかけてきた。
「気にかけていただきありがとうございます、バーンズ卿。またの機会がございましたら、そのときに」
「『またの機会』とお化けには出会ったことはない、という言葉を知らんのかな若者は。約束を果たす気ならば、確実に日時を決めてから別れるべきだ。そういった礼儀作法をお父上は教えてくれなかったのかな?」
言うなり、自分の言葉にウケたようにげらげらと笑い出す。
(うーん、絡まれている)
素面で会えばまた違うのかもしれないが、深酒している様子のその相手はローレンスを見逃す気はないらしい。酔いがさめたときに記憶を失うタイプならともかく「なんだか煙に巻かれたぞ。けしからん」としっかり覚えていて根に持つタイプの可能性を思えば、対応は慎重にしておく必要がある。
後ろに隠した相手がこの場を離脱してくれるまでの時間稼ぎもしたい。
そう思って肩越しにちらりと様子をうかがうと、まさにその相手がひょこりと飛び出して、紳士が出てきたばかりの部屋へと向かって突進していた。
「……ん?」
紳士が不思議そうに首を傾げる。
ローレンスはほとんど反射で動いていた。
(野ウサギみたいにすばしっこいな!)
大股に進み、通りすがりざま紳士には「私は普段、国立美術館で働いています。次の休館日にまた来ます」と愛想よく挨拶をする。紳士は顔をしかめて「貴族はそんなところで働くものじゃないよ」と言い、一瞬だけ足を止めたローレンスは「父にもよく言われました」と笑いかけてから、すぐに身を翻してほっそりした金髪の人物の背を追い、目の前の部屋へと飛び込んだ。
パイプから立ち上る紫煙。癖のあるアルコールの香り。卓を囲んだ紳士たちはカードゲームで盛り上がっており、入ってきた二人に特段の注意を向けてはいなかった。
「危ないですよ、あなたの変装はそれほどうまくない」
ローレンスは他の人間の目からかばうように金髪の人物の背後にぴたりと張り付き、少しだけ体を折り曲げて耳元に囁きを落とした。
「目的を果たしていないんです」
“野ウサギ”はすぐさま小声で言い返してきてから、ぐるりと広い部屋を見回した。
東洋趣味の調度品が計算された乱雑さをもって配置されたスモーキングルームである。“野ウサギ”は目当てのものを見つけられなかったらしく、しゅんと落ち込んだ表情になった。あまりにもわかりやすく、感情が顔に出る性質のように見えた。
まるで、“野ウサギ”どころか大きなシャボン玉に包まれて外を知らずに生きてきた箱入り娘そのもの。
(入館制限のある富裕層の紳士の社交場に、変装してまで入り込んで何がしたかったんだ?)
暗殺や諜報といった物騒な案件が頭を過ぎった。
相手の横顔に目を落とし「それならそれで、もう少しうまくやれるのではないか」と考えを改める。本来の姿で紳士たちに近づけば、いくらでもハニートラップを仕掛けられそうな容貌だ。
そうと意識したところで、ローレンスは「深入りは避けるべきだ」と判断した。自分自身がすでに罠にかかっている可能性を考慮するべきだった。
喜怒哀楽のはっきりした「わかりやすさ」もまた、手管のひとつかもしれない。
これ以上関わらずに、しかるべき相手に引き渡そう――視線でそれとなく、クラブのスタッフを探す。
そのとき、覚えのある香りをかすかに感知した。
「絵を探しているんです。私の絵がこのクラブの経営者によって買われたそうです。どこにどんな風に飾られているのか見てみたいと思いました」
そのひとが身にまとうのは、絵の具の匂い。煩雑で濁った空気の中に漂うそれは、美術館勤めのローレンスにとって馴染みのあるものだった。
ひとまずそのまま話を聞くことに決めた。
「どこの部屋に飾られたのか、調べはついていますか。結構、部屋数多いですよ。ロングギャラリーなら端から歩いて見ることもできますが」
「……大きな作品ではないので、どこでも飾れると思うんです」
つまり、あてはないということだ。表情からして、この部屋にはなかったということも知れた。
ローレンスは眉間に皺を寄せて考えてから「わかりました」と告げる。
「俺であれば、ここのスタッフに探りを入れても怪しまれることはありません。普段は国立美術館の修復室に勤務していますので、美術品に興味があると言えば必要な情報を聞き出せます。ただ、今日は一度出ましょう。絵の特徴を聞いて、日を改めて俺からスタッフに確認し、あなたへご連絡するようにします。早朝や夜間など、クラブの営業時間外に見せて頂いたほうが、トラブルにならずに済みます」
相手は真っ青な目でローレンスを見上げていた。物を言う瞳である。
ローレンスは目を逸らさずに相手を見下ろし、低い声で尋ねた。
「目的は、見ることだけではない?」
「……壊してしまいたいんです。値段がついて買われたと聞いて誇らしい気持ちになったけど、ここには素晴らしい絵がたくさんあります。誰も私の絵なんて見ない。ここに置いておくのが怖いんです。私の一部が、絶対に私の手が届かないところにあるのが怖い」
震える唇から、支離滅裂な悩みがこぼれだす。売れて嬉しい、でも手放したくない。素晴らしい絵と並べられたくない。誰にも見られないから――
ローレンスは、ふっと息を吐き出した。
「ナイーヴですね。描いた絵を売らずして画家になれるとでも?」
「でも……私の絵は、まだ大勢の批評に耐え得る作品ではないんです」
「『まだ』とは? 『いつ』なら良いとお考えで? 五年後ですか、十年後ですか。そのときにあなたは今よりも確実に成長している? ああ、それともあなたが気にしているのは『大勢の』というところですか? どなたか知り合いの家に買われて、花瓶の花代わりに子ども部屋にでも飾っておいて欲しいと、そういうことを言っていますか? つまり見られたいけど批評はされたくないとか」
そのひとの不幸は、たまたまその正体を看破したローレンスが、美術を生業とする人間であったことと言えるかもしれない。
ローレンスは世の中の大半のことにさしたる熱意も興味も持っていないが、美術に関することだけは少々手厳しくなってしまうきらいがある。
追い詰めるつもりなどなかったはずなのに、気がついたら詰るように問い質してしまっていた。
すでに売り渡した自分の作品を「壊したい」というその言葉は、いったい心のどの部分から発せられているのかと。
箱入りの“野ウサギ”は、ローレンスを見上げたまま睫毛を震わせた。瞳は潤み、いまにも涙をこぼしそうな表情になっていた。
「申し訳ない」
ローレンスは謝罪しようとしたが、どっと沸き立つ紳士たちの笑い声にかき消されてしまった。
“野ウサギ”も何かを言おうとした。
「おや、そこにいるのは? マクスウェル子爵かな?」
誰何の声が響き、ローレンスはとっさに見られてはならぬ小さな人影を背にかばう。
「いやいや、これは良いところへ。ポーカーフェイスといえば貴公のことと皆で噂しておりましてな。ポーカーをするにはうってつけの冷徹仮面殿、ひと勝負お手合わせを願いたい」
後ろの人物に注目されぬよう、自分に耳目をひきつける必要がある。「ローレンス・マクスウェル、国立美術館。必要があれば連絡をくれ」素早く囁いてから、ローレンスは紳士たちに向き直り「せっかくお誘いいただきましたので」と、笑顔で卓へと向かった。
金髪の人物がさっと駆け出してドアから出ていくのを視界の隅に確認し、ローレンスはほっと小さく息を吐いた。
* * *
それから数日経ち、一ヶ月二ヶ月と時間が過ぎても、ローレンスの勤務先に金髪の男装画家からの連絡はなかった。
こうなると、ローレンスとしては打つ手がない。
探していた絵がどのようなものであったのか。あれほど厳しいことを言ってしまった手前、見てみたい気持ちはあった。しかしそれはもはや、叶わぬ願いらしい。
(何を描いた絵すら聞いていないからな。絵だけで何枚あるかわからない建物だ。新しく仕入れた絵だといってもいつの時期にどこの画商から買い入れたどのサイズの……うん、無理だ)
ローレンスから紳士クラブのスタッフに雲を掴むような話をしても、美術館の収蔵品に加えたい絵があるのかと手ぐすねひかれて、あれこれとふっかけられるのがオチだ。
もし絵を見た後であればその交渉もやぶさかではないが、画家と会ったことがあるというだけでは検討するに値しない案件である。
無謀な潜入を試みていた画家の面影はまだ胸にあるが、いずれ忘れることだろう。
そう思いながらも、気がつくと未練がましくクラブに通っては「絵」を探し求めるのをやめられなくなっていた。
想像するのは自由なはずだ。彼の人の手になる「絵」は一体いかなるものか。
画家に似た相手を見かけると、つい目で追ってしまうこともあった。絡まれているところを助けたこともあるが、酔っぱらいを追い払ったときにはその人物はもういなかった。似ているだけで本人ではなかったようだからこれで良いと自分に言い聞かせ、忘れるようにつとめた。
久しぶりに休暇をとった際には、クラブのことを忘れるために郊外でゆっくりと過ごしてきた。一度も目にしていない、存在するかどうかもわからない「絵」のことなど、忘れてしまえ。
リフレッシュをしてから、その朝は一週間ぶりに職場である国立美術館の修復室に出社した。
優雅に香り高いお茶を飲んでいた同僚のアドニスから、声をかけられる。
「おっと、色男登場だ。おはよう、ローレンス。これから大変なことになるぞ」
「色男? 誰が? おはよう」
ローレンスは、水色の瞳を瞬いてソファに腰掛けていたアドニスを見下ろした。
アドニスは波打つ赤毛にブロンズ色の滑らかな肌で、彫りが深く「完成度の高い」顔立ちをしている。甘い印象を添える垂れ目は金色。剣の時代であったなら、王子の護衛騎士でも勤めていたであろう鍛え抜かれた体つきの長身の男だ。
「俺の知る限り『色男』といえば文句無くアドニスだ。俺は朴念仁だの鉄面皮だのと言われ放題の愛想のない男だよ。ポーカー向きの顔だとは言われるが、実はてんで弱い。最近では、親父世代の紳士たちが俺を見ると『カモが来た』って目を輝かせるんだ。いったいいくら巻き上げられたことか」
色男などと言われても、とぴんとこないままやり過ごそうとしたローレンスへ、アドニスは手にしていた薄い冊子を差し出してきて「見てみろ」と言う。口の端が吊り上がり、瞳がキラキラと輝いていた。楽しそうだ。
どこか不穏な気配も漂っている。
「貴族名鑑別冊:結婚したい独身貴族ランキング? なんだこれ」
「先週出た最新版貴族名鑑に、それが付録ではさまっていた。独身貴族男性をピックアップした上で、ランク付けをしている」
「邪悪だな」
表紙を見て首を傾げていたローレンスは、アドニスの説明を聞いて眉をひそめる。
ハハッとアドニスは乾いた笑い声を響かせた。
「“邪悪返し”だよ。このたび、編集部に新進気鋭の若い女性が入ったということでね。その女性は、これまで紳士の社交場に変装して出入りをしていたらしいんだが、男たちが『令嬢ランキング』で盛り上がっているのを耳にして、絶対にやり返してやると決めたらしい」
「……まあ、女性が聞いて楽しいものではないだろうな。だから大抵の男は女人禁制のクラブで盛り上がっているんじゃないか」
紳士クラブに、変装して出入りする若い女性。
胸騒ぎのする情報であったが、ローレンスは表情に出さないように気をつけながらアドニスへと話しかける。
「それにしても、若い女性が貴族名鑑の編集に携わり、男社会に向かって一石投じるが如き企画を通すとは見上げた胆力だ。その集大成であろう完成品はさていかなるものであるのか」
ぺらり、とめくって文字に目を走らせ、ローレンスは息を止めた。
【一位:ローレンス・マクスウェル……26歳。公爵家次男。子爵位。名門寄宿学校を優秀な成績で卒業後、国立美術館の修復室に勤務する。専門性と公共性の高い仕事に就く傍ら、領地経営にも堅実な手腕を発揮。これまで婚約者がいたことはなく、派手な遊びもしていない。休日は趣味の乗馬や読書で過ごしている。間違いなく現時点でこの国における最有力旦那様候補。落とすべし。】
「俺……!?」
ソファから立ち上がったアドニスが、ローレンスの肩にぽんと手を置く。
「お前だよ。おめでとう、旦那様にしたい独身貴族一位」
「いや、なんでだよ。誰がどんな基準で選んで俺なんだ?」
「選定理由はそこに書いてある通りじゃないか? 嘘はひとつもない」
馬鹿な、と信じられない思いでローレンスは「この程度の男、いくらでもいるだろう。たとえば」と呟いて記憶を探る。「国内最高の旦那様候補」など、この条件であれば自分以外にも……。
咄嗟に、誰も思いつかなかった。
(貴族の生まれ育ちで爵位もあり、職に就いていて休日は晴耕雨読、浮いた噂のひとつもない……。他に……誰かいるのか?)
いないわけがない、と思うものの焦れば焦るほどまったく誰の名前も思いつかなかった。
剣の時代が終わって百年余り。
王家のみならず貴族の在り方もかつてと比べてずいぶんと移り変わっている。だが依然として「労働は庶民のもの」と考える貴族が多勢だ。ローレンスやアドニスのように、こだわりなく市井で暮らして「堅実な勤め人」をしている独身貴族というのはそれほど多くはない。
それこそ、ローレンスはたまたま父から爵位のひとつを継ぐことになり「貴族」とはなったが、元々は家督を継ぐ立場になく成人後は庶民になると想定して生きてきた次男である。子爵になったからといって、生活を変える気がなく今に至る――アドニスも立場や考え方は似たようなものであった。
ローレンスは、にやにやとしているアドニスに思わず尋ねる。
「貴族名鑑の本体のほうはあるか?」
「あれは既婚者も載っているからなぁ。独身貴族に限ればそっちの別冊のピックアップが的確だ。とはいえ、お前ほど無害な説明文の男はひとりもいない」
すでにアドニスは一通り目を通しているのだろう。ローレンスは「アドニスは?」と言いながらもう一度冊子に目を落とす。
「俺が一位ならアドニスは……は? 九位!? なんだこの絶妙な位置づけは」
「そうなんだよ。三十位まで出ているうちの九位だ、なかなかに絶妙だよな。俺の場合すでに名前も顔もある程度知られているから『記事としての目新しさ』には欠けているので目玉になりにくい、よってそのへんになるというのもわからないでもない。これは、負け惜しみじゃなくて」
身長は同じで肩に腕を置かれているせいで、顔の位置が近い。話し声が耳に直接響く。
ローレンスはアドニスの腕から逃れつつ「とにかく」と言った。
「アドニスが言う通り、俺という人間を説明しようとすると『無害』なんだろう。それは『魅力』とは違うだろう?」
「わかっていないな、ローレンス。それは『抱かれたい男ランキング』じゃない。魅力は必ずしも重要ではない、というか結婚したい男ランキングで『無害』はかなりスペックが高い」
「スペックって言葉の使い方、それで合っているのか?????」
疑問を呈してから、ローレンスは冊子をアドニスの手に押し付ける。
「読まないのか?」
「仕事するからいい。帰りまで覚えていたら借りるかもしれないけど、たぶん忘れてるよ。興味がない」
ふーん、とアドニスが言うのを聞きながら、ローレンスは休暇に入る前にクリーニング作業に取り掛かかると決めていた絵の置かれた台へと向かった。
ローレンスとアドニスが所属する修復室は、美術館が新たに入手した作品や展示室でくたびれてきた作品の埃や汚れを除去し、必要な修復を行うのが主な仕事である。
絵の具を上乗せして自ら絵を描くような工程はないものの、貴重な作品を扱うため集中力を必要とし、就業時間はあっという間に過ぎていく。声をかけられなければ夕方まで通しの作業ということも珍しくない。
よって、一日が終わる頃には朝の取るに足らない会話など忘れているだろうし、翌日には思い出しもしないだろう。
この国きっての「無害な男」と喧伝されたローレンスは、そのようにすぐに頭を切り替えると作業を開始した。
もし、この一件が生活になんの変化ももたらさなければ、二度と思い出すこともなかったに違いない。
しかし「貴族名鑑」は新版が出るたびにほぼすべての貴族が購入している信頼と実績のデータベース。さらには貴族と親交のある富裕層にも広く読まれている。
そこに「今回は実に面白い試みがあった」というのが評判を呼び、若い女性からその母親世代まで「別冊だけでもほしい」という読者が後を絶たず、しまいに出所の怪しい印刷物や手書きの写本をはじめとした海賊版まで世に広く出回るようになり――
無害な男ローレンス・マクスウェルの名は千里を駆けることとなったのであった。
* * *
「ありえない……。俺は『いたって普通の男』そのものなんだぞ。どう考えても職場の裏口で出待ちしたり、道の曲がり角を曲がったところで待ち構えて突進してきたり、ハンカチ落として拾わせようとしたりする相手じゃないだろう……。最近、どれだけ通勤路を変えてもどこかで誰かに狙われている。勘弁してくれ」
十日が経つ頃には、さしもの「国内最高の旦那様候補」ローレンスも疲労困憊でやつれていた。
夕暮れ時、作業道具を片付けているアドニスの横で陰の気を漂わせながら切々と訴えかけている。愚痴だった。
はいはいと聞きながら、アドニスは片方の口の端を吊り上げて笑った。
「それで今日はどうした。帰るのが怖くなったのか? 俺に騎士になってほしいって相談か?」
ローレンスは勢い込んで何か言おうとしたものの、一度大きくため息をついた。目を伏せた切ない顔で、首を振る。
「たとえ相手があの“恐るべき邪教の書”を頭から信じ込んだかわいそうなご令嬢で、俺と話すきっかけを作ろうとするあまり目の前でハンカチを落とした女性だとわかっていても、ハンカチが落ちるところを見てしまった以上拾って声をかけるのが人間というものだろう? だから拾った。声をかけた。ハンカチ落としましたよ、と。今朝の話だ」
「無視すればいいのに。あ、すまん。話の腰を折る気はない。それで?」
ローレンスは眉をひそめて、深刻な面持ちで告げた。
「ハンカチじゃなかったんだ。摘んで持ち上げたら風が吹いて布が広がってパンツの正体を現しやがった。俺は朝の往来で見知らぬ女性のパンツを手にした男になった」
「……それはまぁ、なんというか。外を歩くのが嫌になっても仕方ないかもなぁ。そうと知りながらもかかってしまった罠とはいえ。お馬鹿なうさぎさん、ご愁傷さま」
アドニスは真面目な顔になる。それを聞き流して「しかも」とローレンスは続けた。
「手渡そうとしたら『差し上げます』って言われた。俺はいまそれを必要としていないというのを丁重に伝えて返却してから出社した。そこから昼飯抜きで仕事をしていたけど仕事が終わったら思い出した。帰りたくない。泊まりたい。職場に住みたい」
「でもお前、二十歳になる猫が屋敷で帰りを待っているんだろう? 老衰は突然くるぞ。職場に泊まり込みをして死に目に会えなかったら一生後悔しないか?」
くっと呻いて、ローレンスは両手で顔を覆った。
「“邪教の書”許すまじ……!」
「貴族名鑑別冊、薄い本な。たしかに、この国の独身女性必携の書、つまり聖書ではあるかもしれないが」
「恐ろしい。まさかお茶会に持ち寄って読書会したり、寝る前に暗記できるまで読み込んだりしているんじゃないだろうな」
「ありえそうだな。そろそろ『枕の下に入れて寝ると良縁に恵まれる』って迷信でも生まれているかも。『宗教上の神聖な生き物』が夢に現れるとか。具体的に言うとランキング一桁の男な」
ぎりぎり俺も入るな、とアドニスは笑いながら嘯く。
普段は悪態などつくことのないローレンスであるが、このときばかりは「くそっ」と吐き捨てるように言った。
「俺は非婚主義者ではなかったつもりだが、この一件で宗旨変えするかもしれない」
「独身教の聖騎士にでもなるのか? 宗教戦争するなら攻め込むべきは“邪教の書”を世に出した編集部か」
アドニスの何気ない一言に、ローレンスはぱっと顔を上げる。
「好調だからレギュラー企画にするなんて言い出したらとんでもないからな。今回で終わらせるよう、厳重な抗議をしたほうが良いかもしれない」
すでに海賊版まで出回っている段階で、回収を要求したところであまり意味はないと諦めている。しかし新たな犠牲は防ぐべきではないだろうか、という使命感が頭をもたげていた。
「俺が思うに、結婚しない限りお前は向こう五年は一位でそのうち殿堂入りだよ」
「ありえない。三年目あたりで『こんなに条件の良い男がいつまでも売れ残っているのには相当な理由がある』と世の淑女たちが気づき始める。そうすると突然それは『絶対に結婚してはいけない男ランキング』に早変わりだ。極端から極端に振れ、俺は行く先々で忌み嫌われる。くそっ、やはり出版社に乗り込むしかない」
アドニスは労るような優しい笑みを浮かべると、ローレンスの肩に腕を回して囁いた。
「俺はお前のこと、いい奴だと思っているぜ。だからそんなに悲観するな。まずは三年間、偽りのモテを謳歌するのもありだと思うぞ」
「褒められて慰められて受け入れられているのに何一つ嬉しくないのはなぜなんだろうな」
言いながらアドニスの腕を押しのけて、帰り支度を始める。
そのとき、バタバタと遠雷のように廊下を走る音が修復室まで近づいてきた。
常に無く激しい勢いでバタンとドアが開けられ、退勤間際であっただろう美術館の監視員が走り込んでくる。
「マクスウェルさん! 『最高の旦那様候補』に今すぐ会いたいって女性が絵にナイフを突き立てようとして警備員に取り押さえられました! 『絵が傷ついたら修復士が顔を出すかも』って叫んでいて」
ローレンスは、水色の瞳を凍らせて「そんなわけあるか」と言い捨てて、猛然と歩き出す。
「どこへ?」
素早くアドニスが横に来て、ローレンスは目を怒らせたまま答えた。
「どこかの高貴なご令嬢で、さしたる罪状にも問えずにすぐに釈放されるなら、同じことを繰り返すかもしれない。二度とこんなことをしないよう、俺からよく言い聞かせておく」
一緒に歩きながら、アドニスが噴き出した。
「それは、さすが『最高の旦那様候補』はお優しいって、噂を補強するだけじゃないのかな」
そう言いながらも現場へ向かおうとする二人に、監視員は追いすがるようにして声をかけた。
警備員が来る前に絵を守ろうとした一般の方がいて、怪我をしています、と。
* * *
壁一面の大型サイズの「空」の絵画の前に座り込み、裂かれたジャケットを脱いでシャツの袖をまくりあげて手当てを受けている人物に、ローレンスは見覚えがあった。
待ち人である。
ローレンスがそちらを気にしていることに、アドニスは真っ先に気づいた。「あっちは俺が引き受けるから」といまだに警備員に食ってかかって暴れている女性の方を目で示した。
「いや……あちらは俺がこの美術館に招き寄せてしまった相手であって、話し合うべきは俺だ」
「いいから。そこで、自分の人生には関わりのない女性にまで責任を持とうとしていると、一生『旦那様候補一位』だぞ」
「まるで不名誉なことのように言う」
「朝の往来でぱんつを握らされたと聞いた後となっては、さすがに不憫でな」
減らず口を叩きながら、アドニスは女性のほうへと向かって歩いていった。それ以上食い下がるのも非効率だと割り切り、ローレンスは怪我人の元へと向かう。
咳払いをして、声をかけた。
「こんにちは、勇敢な方。絵を守ってくださりありがとうございます。美術館として最大限の補償をさせていただくのは当然のこととして、さしあたり何か必要なものがあればお申し付けください」
腕に包帯を巻かれながら、相手はぱっと顔を上げて真っ青な目でローレンスを見てきた。
「マクスウェル子爵。お会いしたかった」
細く高く、涼しい声色をしていた。「もう大丈夫です」と手当てをしていた美術館員に断りを入れて、素早く立ち上がる。
ドレス姿ではなく、今日も男装であった。
それでもいつか紫煙の漂う空間で見かけたときよりも一段と美しく見えて、ローレンスは狼狽を気取られぬよう無表情となった。
ポーカーがドヘタなくせにポーカー向きと言われる表情である。
「怪我の具合はどうですか?」
「大したことはないんです。絵を守れて良かった。絵を傷つけようとする行為は、こんなにも心臓が張り裂けそうなものかと……。以前あなたにお会いしたときの、自分の言動を深く後悔していたところです。私の言動に対するあなたの怒りは、修復士としての怒りもあったのではないでしょうか」
反省しきりの態度で言われて、ローレンスは「たしかに、絵に関しては少々勢いづいてしまうところがありまして、その節は申し訳ありませんでした」と丁重に謝罪をした。言い過ぎたと、反省している。
しかし相手は即座に「申し訳ないのは私の方です!」と言い張って、譲らない。
「見ず知らずのあなたにあんなに叱っていただき、家に帰ってから自分の身勝手な言動があまりにも恥ずかしく……。本当に、ありがとうございました」
礼まで言われてしまい、ローレンスは内心で「この箱入り娘は」と心配する思いもあって、肩をそびやかしてみせた。
「見ず知らずの男に叱り飛ばされたことなど、大事な思い出にしてはいけません。そういう男はたいてい独善的で心が狭く、自己中心的で自分こそが正しいと思っている。俺が思うに、夫にしてはならない最たる特徴を備えた人物です。再会したら後ろ足で蹴って逃げ出すくらいの心構えでいたほうがいい」
「私が、あなたを蹴る……? 蹴られたいですか?」
困惑した様子で首を傾げられ、例えがまったく通じていないのを察したローレンスは「俺だってべつに蹴られて喜ぶわけではない」と悪態をつきそうになった。ぎりぎりで呑み込んで、話題を変えた。
「今日はどういった風の吹き回しでここへ?」
「実は今日だけではなく、時間のあるときは毎日ここへ来ていました。あの、毎日といってもまずは絵を描いているので、それ以外だとせいぜい週に三日くらいですが」
げふん、とローレンスはむせた。灯台下暗しにもほどがある。
「声をかけてくれても良かったのに」
「最初は……勇気がでなくて。最近になってようやく、あなたともう一度お会いしたいと決心がついたんですが、私以外にもあなたにお会いしたい女性はとても多いんですよね。大変おモテになっていらっしゃる」
頭の中では「まあそうですね、朝っぱらからぱんつを握らされるほどにはモテていますよ」と答えていたが、口にすることはなかった。箱入り娘相手に、同僚男性と同じような気軽さで会話を仕掛けてはいけない、絶対に。大惨事になる。
噛み砕いて、丁寧に説明する場面なのであった。
「作られた『モテ』ですよ。薄い本で栄えある地位をいただいたばかりに注目が集まっているようですが、そのうち収まるはずです。……その薄い本に、君が関与したという事実はあったりするのかな?」
一応の確認で尋ねると、画家はしっかりとローレンスを見上げて言った。
「もし貴族名鑑別冊のことでしたら、現在は記者をしている姉だと思います。私が紳士クラブに潜入したと言ったら『その手があったか』と通い詰めるようになって、今では私とは比べものにならないほど変装もうまくなり、お出かけする日はどこからどうみても中年のおじさまです」
「君のお姉さん、凄いな」
編集部に怒鳴りこんでやると思っていたことを一瞬忘れて、ローレンスは素直に感嘆した。
「それで、良い方法を思いついてくれた私にお礼がしたいと言っていまして。その……私の好きな方を『最高の旦那様に仕立て上げてみせるから! お姉ちゃん頑張るね!』って。言っていたんです……よね」
恥じらう様子で頬を染め、横を向きながら小さな声で言う。
なぜ恥じらっているかと言えば、それが彼女の心の内をはからずもローレンスに伝えることになってしまっているからで、受け止めたローレンスもまた頬に血が上ってくるのを感じていた。
ぱんつを握らされるよりは、よほど清らかで疲れた心身が一瞬で浄化されるような告白を聞いた。とても嬉しい。
その感動をどうにかして伝えたい。それと同じくらい、お姉さんに対しても言いたいことがあり、感情を渋滞させながら切り出した。
「君のお姉さんはなんというか、順番を間違えている。伴侶を得ないまま最高の旦那様に仕立て上げられても、だな……。旦那様にはひとりではなれないわけで……」
相手が必要なのだと言う前に、顔を真っ赤にした男装画家に叫ばれた。
「好きです、結婚してください!」
思い切りがよすぎる。
「早い。結婚の前にすることがあるはずですよ! いろいろ飛ばしてはいけない! なお、俺も結婚はしたいのでひとまずデートからよろしくお願いします」
先に言われた、と思いながらローレンスが負けじと言い返すと、画家は満面の笑みを浮かべて「よろしくお願いします!」と言ってきたのであった。
ローレンスは知っている、これが波乱の幕開けとなるであろうことを。
それでも今だけは、思いがけない再会と思いが通い合ったことを素直に喜んで、最高の旦那様を目指して頑張ろうと決意していたのであった。
*最後までお読みいただきましてありがとうございました
(*´∀`*)




